昨日の記事、謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行
どうも、すっきりしませんで、ただいま、防府市教育委員会へ電話をしまして、真相をお訊ねしました。
まず最初に、現在、三田尻御茶屋(旧構内付大観楼)は、国の史跡になっています。
そして、招賢閣という呼び名と三田尻御茶屋の関係なんですが、正式には、三田尻御茶屋全体が招賢閣だったわけではなく、招賢閣という名の会議室があり、その建物は、現在はないそうなのです。
しかし、幕末の志士たちが「招賢閣へ行く」と言った場合、御茶屋全体を、招賢閣と呼び慣わしていたことも、また事実のようです。
そして、招賢閣は会議室なのですから、七卿が滞在したのは、やはり、写真の英雲荘だったのです。
また、大観楼とは、そういう名の建物が別にあったわけではなく、英雲荘の二階部分を、そう呼んだのだそうです。
さらに、英雲荘も花月楼も、まったくの立て替えであったわけではなく、古い建物ではあったのですが、改築の手が大分入っていた、ということのようで、英雲荘は現在、明治時代の姿に戻すために、保存修理中です。
花月楼の保存修理はすでに済んでいて、防府市民がお茶会で使用しているとのこと。
十数年前に訪れた時、観光案内所で聞いても場所がわからず、防府市の係の方に場所をお聞きして、わざわざ案内してもらった、と言いますのも、当時、英雲荘は、公民館のような使われ方をしていたから、だったようです。
保存修理後の使い方としても、市民の結婚式などで使う、という話になっているようでして、観光施設ではないのですね。
しかし、希望があれば案内もしてくださるそうですし、それは、保存修理中の現在でも、そうなのだとか。
あー、だから、つまり、です。
写真に撮った部屋が七卿の居室だったと聞いたのは、聞き間違いではなく、英雲荘で志士たちをしのんだのも、けっして勘違いであったわけではなかったのです。
十数年前の防府は、不思議な雰囲気を持った街でした。
戦災にあってなかったためでしょうか、古書店に立ち寄れば、戦前の教科書とかが、無造作に置いてあったりしたんですね。
山頭火の街でもありますし、伊予松山とは縁が深く、もう一度行けたら、と思います。
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そして、招賢閣という呼び名と三田尻御茶屋の関係なんですが、正式には、三田尻御茶屋全体が招賢閣だったわけではなく、招賢閣という名の会議室があり、その建物は、現在はないそうなのです。
しかし、幕末の志士たちが「招賢閣へ行く」と言った場合、御茶屋全体を、招賢閣と呼び慣わしていたことも、また事実のようです。
そして、招賢閣は会議室なのですから、七卿が滞在したのは、やはり、写真の英雲荘だったのです。
また、大観楼とは、そういう名の建物が別にあったわけではなく、英雲荘の二階部分を、そう呼んだのだそうです。
さらに、英雲荘も花月楼も、まったくの立て替えであったわけではなく、古い建物ではあったのですが、改築の手が大分入っていた、ということのようで、英雲荘は現在、明治時代の姿に戻すために、保存修理中です。
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保存修理後の使い方としても、市民の結婚式などで使う、という話になっているようでして、観光施設ではないのですね。
しかし、希望があれば案内もしてくださるそうですし、それは、保存修理中の現在でも、そうなのだとか。
あー、だから、つまり、です。
写真に撮った部屋が七卿の居室だったと聞いたのは、聞き間違いではなく、英雲荘で志士たちをしのんだのも、けっして勘違いであったわけではなかったのです。
十数年前の防府は、不思議な雰囲気を持った街でした。
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