郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

高杉晋作 長府紀行

2006年01月22日 | 幕末長州
十数年前の旅です。三田尻(防府)へ行った次の日、とてもご親切な山口県出身の方に、長府の功山寺と東行庵を案内していただきました。




功山寺挙兵のときの高杉晋作の銅像です。
うーん。ピントがあってないですねえ。実は銅像の下に私がいて、双方にピントをあわせるのは、難しかったんでしょう、おそらく。




功山寺の山門なんですが、下手くそな写真ですよねえ。私が撮ったんです。




こちらは、たしか、東行庵にあった高杉の銅像だったはず。
だったはずって……、よく覚えてなかったりします。
(ぐぐってみましたら、東行庵はまちがいないのですが、銅像ではなく陶像、でした)
久坂玄瑞の法事
に書きましたように、一坂太郎氏をお訪ねして、桐野利秋についての情報をお願いしましたのは、このときです。



東行記念館に展示してあった「いろは文庫」です。
元治元年、晋作が京都から、妻お政(雅子)に宛てて書いた手紙に、以下の一節があるんです。

近日の中大阪へ帰り候故、さ候わば曽我物語、いろは文庫など送り候間、それを御読みなされ心をみがく事専一にござ候。
(一坂太郎著『高杉晋作の手紙』新人物往来社発行 より)

長州は八・一八政変で京を追われ、進発論が盛んだった時期です。
高杉は藩主の命で、進発論の最先鋒だった来島又兵衛を説得しようとして、罵られ、自分が脱藩して勝手に京へ上りました。帰藩後、投獄、謹慎となりますが、そのおかげで、池田屋事変、禁門の変敗戦という長州の窮地を、無事やりすごした、ともいえます。
そういう時期に、妻にいろは文庫を贈っていた、というのが、私にはとても印象的でした。
「心をみがく事専一にござ候」なんぞと、堅苦しい書き方をしていますが、いろは文庫って、ご覧のように絵入りで、為永春水が手がけた人情本なんですね。けっして、堅い本ではありません。
萩では手に入らない、きれいな絵入り読み物を妻のために買うって、なんだかかわいいじゃありませんか。
雅子さんが後年に語り残していることなんですが、高杉は彼女をを連れて料亭へ行き、芸者をあげて遊んだことがあります。「なにがおもしろいのかわからなかった」と、彼女は述懐しているんです。
当時、江戸の幕臣の妻は、夫とともに、柳橋の料亭や隅田川の遊覧屋根船に芸者を招き、三味の音と洗練された料理を楽しんだりすることが、けっこうありました。
おそらく、そんな江戸の風流を妻にも経験させてあげたいと、江戸遊学期間がけっこうあった晋作さんは、思ったんじゃないんでしょうか。




やはり東行記念館に展示してありました、有名な辞世の歌の色紙です。

高杉晋作  「面白きこともなき世を面白く」
野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」

野村望東尼は、筑前藩士の未亡人で、元治元年の暮れ、亡命してきた晋作を山荘に匿い、勤王方の藩士たちに協力した罪もあって、姫島に流されます。それを晋作が助け出し、長州で晩年をすごして、臨終にも立ち会いました。
望東尼との交流を見ましても、晋作さんは、ずいぶんとかわいげのある男だったんだろうな、と思うのです。

僭越ながら、今回は、晋作さんの上の句に続けてみました。

  面白きこともなき世を面白く 君翔けゆきぬ風のはるけき


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コメント (14)
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