私は今、眠っている。夢を見ている自覚は無いが、不快な音が徐々に現実を帯びて聞こえてくる。これは目覚まし時計の音だ。誰か、誰か止めてほしい。目覚まし時計は隣の布団で眠っている父の頭上にある。父はもぞもぞと手を伸ばして、目覚ましのヒステリックな音が止まった。父はバシバシと強めに私の布団をたたき、そして言った。
「真白(ましろ)起きろ」
私は眠いのだ。出来るだけ寝ていたい。だから起きないフリをする。
父は無言で私の布団をむしりとった。
(さ、寒い!)
3月末。桜も咲こうかという時期だが朝はまだ寒い。私たち二人は仕方なく起きあがる。
「おはよう」
父、靖(やすし)44歳。
寝起きの父の顔は決して見れたものではない。しかめっ面、眉間には深いしわ、口元にはヨダレの跡、目やにがついた目をうすく開けて私を見て言う。
「おはよう」
私も似たような惨憺たる外見で目を覚ます。毎朝こうしていつもの一日が始まる。
階下の台所からソプラノの声で「まーしーろーちゃーん」と目覚ましボイスが聞こえてくる。圭子おばあちゃんだ。
圭子おばあちゃんは毎朝、私のご飯を用意し終わると早く起きろとばかりに目覚めの声をかける。
(あ、今日から春休みじゃない。小学校はお休み。早起きする必要ないじゃない。損した。)
もう一度横になり、布団に潜り込む。次の瞬間、布団が引きはがされる。今度は母だ。
「なんでもう一度寝るの。今日は学童の遠足でしょ」
(そうだった。学校は春休みだけど、放課後に通っている学童クラブの遠足だった!水族館に行くのかぁ。楽しそうだけどバスで吐いたらどうしよう。)母は私に厳しい。紀子(のりこ)42歳。脇をがばっとつかみ「起きなさーい!」
私はびっくりしてエビ反りしながら奇声をあげる。
「もう、うるさーい!」
母の隣でこんもりとした物体が声を荒げた。しまった、暴れん坊が目覚めてしまった。いつもは私の身支度が出来るまでおとなしく眠らしておくのだ。妹の蒼子(あおこ)5歳が悪態をつきながら起きた。捲くし立てるように猛スピードで蒼子が話しだした。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさーい!」
私は二度寝をあきらめ、のっそりと起き上がり、階下の台所に降りた。
先ほどのソプラノ声で階下から私を起こしてくれる、おばあちゃんがいた。
おばあちゃんはくるくるパーマをかけたかわいらしい出で立ちをしている。おじいちゃんの幸一にお茶を入れている。
「行ってきます」
空は青く高く快晴、雀が数羽おいかけっこするように飛び去る。
本日の私の出で立ちは、フード付き青色のワンピースにスパッツ。ほぼ母が一方的に決めた一張羅だ。
値段の安さとデザインのせめぎ合いによって母が熟考を経て先日購入したものだ。
新しい服はなんだか気持ちがいい。それにしてもトイレは大丈夫だったかって?私が耐えうるギリギリまで待ったわ。
出勤するおじさん達が猫背気味に、早歩きでセカセカと私を追い抜いていく。高校生のお兄さんお姉さんは自転車で私を抜く。きれいなお姉さんはスマホを片手に軽やかに私を抜き去る。
突然、背中をたたかれた。
「よっ、おはよう。今日は楽しみだねえ。イルカもいるかもよ。アザラシに会ったら、あざらしい(新しい)発見があるかも」
短い髪の毛。前髪はおでこでぱっつんとそろっている。
同級生の女の子、山崎佐知子。
通称サッチがリュックを背負ってそこにいた。
今日はデニムの短パンとオレンジ色のウインドブレーカーという出で立ち。格好だけではなく、サッチは私とは性格も正反対。活発で快活。
どうして私と友達なのか分からないぐらい、クラスでも人気者なのだ。
「なんだがか元気ないねえマロ(ちなみにサッチは私の事をマロと呼んでいる)水族館、楽しみじゃないの?、分かった。バスに酔うのがいやなんでしょう」
「サッチも酔うでしょう?」
「酔うけど大丈夫だよ。マロも酔い止め飲んでいるでしょう。それさえ飲んでおけば大丈夫だよ」
「そうだね」
サッチと話していると本当に大丈夫と思えてくるから不思議だ。サッチといるだけで気持ちが明るく晴れ渡っていく。サッチが私の友達で本当によかったといつも思う。
「まだ出発まで時間あるよね。どう、うちの研究所が見たいってマロ言ってたでしょう。ちょっと見ていこうよ。今日はお父さんもお母さんも出張で朝からいないんだ。新しい機械も入ったって言ってたんだよね」サッチはいたずらっぽく笑った。
「いいの?」私は嬉しくてサッチの手を握ってぴょんぴょん跳ねた。
「私が許す。ちこうよれ、くるしゅうない」サッチはお殿様をイメージしたと思われる動きをしている。
その時、私の背後から誰かがぶつかってきた。
「お姉ちゃんばっかりずるーい。私も水族館に行く。絶対に行く」
私は振り返った。そこにはいつの間にかついてきた蒼子が腕組みをしてほっぺを膨らませて立っていた。
「蒼子、勝手についてきちゃだめでしょう」
「お姉ちゃん私も行きたい」
「だめだよ、蒼子は家に帰りなさい」
「じゃあさ、蒼子ちゃん、うちに探検しに行こうか。水族館のお魚よりすごいものがうちの研究所にはあるよ。たとえば空も飛べちゃうかもよ」
サッチが目をキラキラさせながら蒼子に魅力的なプレゼンを展開している。いいぞサッチ。私は心の中で応援した。
「見たい」蒼子も俄然乗り気になっている。
「でも見たら、お家に帰ろうね」サッチがやさしく囁いた。
「うん帰るよ」蒼子は嬉しそうにその場で飛び跳ねた。
「でもサッチ、時間は大丈夫かな」
「研究所はすぐ近くだからパッと見てパッと帰ろう。さあ、いこう」サッチは言い終わらないうちに駈け出した。
私と蒼子は「待って」と言いながら慌てて追いかけた。
サッチのお父さんとお母さんは一緒に同じ研究をしているという話をサッチから聞いていた。パソコンの計算速度を飛躍的に上げる事に成功して、ちょっとした有名人なのだ。
「こっちよ」サッチは私が曲がったことのない細い路地に入っていく。
そこには銀色に鈍く光る真四角の巨大な豆腐のような建物が三つ敷地の中に建っていた。その建物には窓というものが無いように見える。それどころかドアがどこにあるのかも分らなかった。
サッチは真ん中にある建物に近づいていく。そして壁に顔を近づけた。ピッという音がして、穴がぽっかりと開くようにドアが開いた。
「サッチすごいね」
「そうでしょう。顔認識システムなの。さあ、中に入って」
蒼子は遠慮なく靴を脱ぎ散らかして室内に走りこんでいった。
「ちょっと蒼子だめでしょう、待ちなさい。走っちゃだめ」
蒼子の後姿を見ながら、サッチは壁に手をかざした。一斉に電気がついた。暗かった空間が一気に明るくなった。床も壁もつるつると冷たく光る、まるで病院の廊下のようだ。この素材は確かリノリウムと言うのだろうか。私はそんなことを考えていた。
蒼子が一番手前のドアを開けて部屋の中に入ったのが見えた。
「ちょっと、先々行かないで。待ちなさい」
「いいのよ。見せたいものはあの部屋にあるはずだから」サッチに促されて一緒に部屋に入った。
そこには冷蔵庫のような機械がたくさん並んでいた。そして一台一台の機械はしきりに電球を点灯させていた。クリスマスのイルミネーションのように綺麗だった。その室内には機械の他にソファが三つ置いてあった。蒼子がすでに座ってくつろいでいた。
「空が飛べるってこれ?」私はサッチに聞いた。
「そう、これよ」さっちは微笑むとソファに座ってヘッドレストの裏側から赤色のレンズがはめ込まれたゴーグルを取り出して装着した。
「これを使うと空が飛べるのよ。さあ、マロも座って私と同じようにして」サッチは何だかうれしそうだ。
私は言われるままソファに腰かけた。意外にソファは堅かった。ゴーグルは持ち上げた瞬間に電源が入った。やさしく光っている。私はゴーグルを付けた。パチン。視界が真っ暗になった。あれ空を飛ぶんじゃないの。私は徐々に意識が遠くなっていった。
おじさん達が猫背気味にせかせかと歩いている。きれいなお姉さんや、高校生のお兄さん、お姉さんに抜かれていく。私は歩いている。
あれ、さっきと同じ光景だ。おかしい。私たち研究所にいたはずなのに。隣にはサッチが歩いていた。
「空を飛ぶんじゃなかったの?」私はサッチに食って掛かった。それを聞いたサッチは怪訝そうな表情を浮かべた。
「マロ、おかしなこと言わないで。今日は今から遠足に行くんじゃない。まだ寝ぼけてるの」
そんな、私どうかしちゃったのかしら。蒼子もいたはずなのに…。
「蒼子はどこにいったの」
「蒼子ちゃんは保育所でしょ。さっきお母さんと一緒に歩いている蒼子ちゃんを見たわよ。さあ、しゃきっと目を覚まして、海の世界にレッツゴーよ」サッチは全然おかしいと思っていないらしい。私がおかしいのかしら。
学童の建物は小学校の校庭の隅に立っているプレハブだ。
小学1年生から小学5年生までの学童が放課後、親の仕事が終わるまでここで過ごす。
現在、私とサッチの2人が学童での最高学年となっている。当然、下級生のお守りもしなくてはならない。
プレハブの外にまで子供達の騒ぐ声が響きわたっている。今日は特に騒がしい。
テンションの上がりまくった子供というのは本当にたちが悪い。
冗談ではなく建物の壁やドアが暴れる子供の勢いに負けて揺れているのが分かる。
クワバラクワバラと心の中で唱えながらドアを開けた。
「あら、マロちゃん、サッチおはよう。今日は本当にお願いね」
さっそく、道子先生に助けを求められた。
仕方が無い。道子先生は元は学校の先生だったらしい。子供達の人気者なのだ。だからすでに前後左右から子供が群がっている。
「はいはい、道子先生困っているだろう。離れて離れて」
唯一の男の先生、一二三先生が後ろからぬっと現れた。
額にうかべた汗を拭き、なおかつふーふー吐息を漏らしている。(何をそんなに息を切らしているのかは不明だ)
一二三先生の気配を察知した瞬間、蜘蛛の子を散らすように子供たちは逃げていった。
別に怖いわけでは無いのだが、一二三先生はどうも子供受けがあまり良くない。
「まったく」口の中でその次に続く言葉を飲み込みながら一二三先生は私たちに言った。
「サッチにマロちゃんおはよう。二人ともバス大丈夫?」
その一言でバスの事を思い出してしまう。
「はい酔い止めを飲んだので大丈夫と思いたいです」私はそう言うのが精一杯だった。
「下級生達をトイレに連れて行けばいいんですよね先生」サッチは言った。
「そうそう、悪いねえ」
一二三先生はそう言いながら新たにやってきた子供の世話をしに消えていった。
「ああ、やんなっちゃう。あなたの仕事でしょって言いたくなっちゃうね」
サッチは口をとがらせながら私に言った。でも彼女は頼りにされているのはまんざらでも無い様子だ。
ゆっくりと校庭に立派なバスが入ってきた。
「さあ、みなさんバスに乗りましょう。走らないでね、けがでもしたら大変よ」
道子先生は終始テンパっている。無理もない。
子供たちはゆっくりと言われて泥棒スタイルの抜き足差し足で歩いていた。道子先生はそれを見て笑っている。
全員が着席するまでまたしばらくの時間を要した。そしてようやくバスは発進した。
私は酔い止めの薬が効いてきたのか少しふわふわしていた。
バスの前の方の座席が車に酔いやすい生徒達の指定席となっている。サッチと私は並んで座っている。やはり彼女も少し口数が減っている。どうか酔いませんように。そう思いながら流れる外の景色を見た。
バスの座席の位置は周りの車に比べて少し高い。信号待ちでは隣の車の車内は丸見えだ。
私達は春休みだが、周りは仕事中のお父さんやお母さんが運転する車が多い。
伝票をチェックする若いお兄さん。
後部座席のチャイルドシートに乗っている子供に話しかけているお母さん。そんな光景を観察しながら私は何とか気を紛らわせていた。
そのとき、通路を挟んだ席に座っている男の子がオレンジ色のハンカチを落とした。
ゆっくりと落下する。
そのまま空中にぴたりと止まった
私は言葉を失った。
夢中でサッチの肩をたたいて言った。
「サッチ見て」
うとうとしていたサッチがぱっと目を開けて私を見た。
「どうしたのマロ」
相変わらず空中で止まったままのハンカチを指さす。
「え、手品?」
オレンジの色が徐々に消えて灰色になった。
いや、ハンカチだけではない。私たち以外、バスの車内、車外の景色が灰色の濃淡でうめつくされた。
慌てて私は後ろを振り返る。灰色になってみんな止まっている。楽しそうに笑いながら止まっている。窓の外を見ると飛んでいる鳩も空中で止まっている。
周りの車も止まっている。
まるで私たち以外の時間が止まったようにすべての物がその場で止まっている。
サッチは立ち上がって道子先生のところに行った。私もついて行く。
道子先生は水族館のパンフレットを食い入るように見つめる姿勢のままだ。
私は心臓をきゅっと捕まれたような恐怖を感じた。
「何かの冗談なのかな」
「冗談で周りの車まで止まらないよ。見て隣の車のお兄さん。くしゃみした瞬間で止まってる」
見てみるとたしかにくしゃみの瞬間で止まっている。御丁寧に唾が宙に浮かんでいる。
「サッチどうしたらいいの」
「分からないけど道子先生なら連絡用の携帯電話ぐらい持ってないかな。家か警察に電話してみよう」
それはいいアイデアだと思った私は道子先生の上着のポケットをあさる。右ポケットには無い。左ポケットに手を差し込むとコツリと固いものが手に触れた。
あった。私はポケットからスマホを取り出した。
その瞬間着信ベルが鳴った。
あわてて落としそうになる。
「電話だよ。しかも非通知だよ。どうしようか」ドキドキしながら私は動けないでいた。それを見たサッチはさっと私の手からスマホを取り電話にでた。
「もしもし…」
サッチはスピーカーボタンを押して私にも相手の会話が聞こえるようにしてくれた。
「もしもーし?」
若い男の声がした。私達の緊迫した状況にそぐわない明るい声だ。
その緊張感の無い声が、私達の状況だけが異常で外の世界は普通なんだと思えて嬉しかった。私は言った。
「助けてください。私たちは春休みの遠足でバスに乗っています。みんな動かなくなったんです。」
電話の相手の反応は先ほどの脳天気な感じとは違い、重い重い沈黙だった。サッチと私は口々に言った。
「聞こえますか」
「あなたはだれですか」
声はうわずり、悲痛な叫びを二人は言った。
「あなたは誰ですかだって?」
思いもかけず相手の反応があった。どきりとした。
「君たちはサッチとマロだろう。知っているよ」
スマホの前で私たち二人は顔を見合わせた。
「どうして知っているの」
「どうしてって僕は何でも知っているさ、持ち場はこの世界だからね。まあ、いいや。とにかくこのままじゃあお互いらちがあかないでしょう。とりあえずバスの扉を開けるから一度バスから降りてくれる。そのスマホにメールで地図を送るからその場所に二人で来てくれる。じゃあ」
そう言って通話は切れた。その直後、バスの昇降口のドアが開いた。乗ったときには聞こえたプシューという音もなく、まったくの無音だった。
「何が起こるかわからないけど…とにかく行ってみよう」サッチは頼もしく車道に降りた。
私も後に続く。
相変わらず人々は止まっている。
チワワと散歩中のおじいさん。チワワが腰を下ろして今にもうんちをしようとしている。立ち話中のおばさん。
しげしげと周囲を眺めていると道子先生のスマホからメール着信のメロディが流れた。
私、この曲知っている。
「二十世紀少年」Tレックスの曲。お父さんが言っていた。マーク・ボランは世界一「イエー」を上手に言うボーカルだって。
お父さん、お母さんは大丈夫かな。そう思うと涙があふれてきた。サッチが肩に手をおいて私の顔をのぞき込む。
「マロ、泣いてる場合じゃないよ。地図を見よう。今はあの電話の男の言うとおりにすることが一番の解決法のような気がする」
「そうかもね。この止まった世界をもう一度動かさなきゃ」
メールを開く。
地図は蒼子の通う幼稚園の裏手にある公園を示している。ここから近い。画面を見て私は思った。蒼子は幼稚園にいるのかな?
「ねえ、サッチ。幼稚園に行って妹の様子見てもいい?」
私は蒼子の事が心配になった。
「もちろんよ」サッチはまっすぐ前を見たまま表情は変わらない。何かを考えている様子だ。
私たちは走った。
でも私はサッチについていけない。サッチも私を置き去りにしない程度に先行している。酒屋さんの角を曲がれば幼稚園がある。
曲がったとたん私は悲鳴を上げそうになった。制服を着た沢山の園児達がかけっこをしたり、ブランコをしたり滑り台を滑ったり遊んでいる。でも園児達の声は聞こえない。
ぴたりと止まっている。
「サッチどうしよう」不安な気持ちを抑えて私はサッチを見つめた。
「蒼子ちゃん今日は登園したはず。絶対この中にいるよ。顔だけでも確認してみよう」サッチは少し笑った。その笑顔を見て私もぎこちなく笑う。扉に手をかける。鍵がかかっている。門扉の鍵は先生が内部から外すシステムになっているのだ。
「どうしようか」もう私は完全にパニックになっていて思考停止状態だ。
サッチは無言でフェンスに飛びつき、フェンスを登りはじめた。
「ちょっとサッチ!先生に怒られるよ」
「今は非常事態なの。安否確認が優先。臨機応変に対応することも世の中大事なの」
するすると登って、フェンスの一番上でひらりと体を入れ替えて幼稚園の中に入っていった。私も意を決してフェンスに飛びつく。
こんな事をするのは初めてで腰は逃げ腰のへっぴり腰だ。サッチの度胸の良さには本当に舌を巻く。
フェンスの最上部に到達した。
下から見ている以上にその場所は高かった。
動けない私を見てサッチはもう一度あちら側からフェンスを登ってきた。そして最上部でフェンスにまたがったまま私に手を差し伸べる。
「ありがとうサッチ」
「どういたしまして、足下にお気をつけてお降りくださいませお嬢様」
支えられながら何とか幼稚園に入ることに成功した。
「一人一人、見ていくしかないね」サッチと私は園児達の顔を順々に覗き込んだ。
でも蒼子はいなかった。
「どうしてここにいないのかな」
サッチは見回している。
「分かったトイレだよ。あの子遊んでいる最中によくトイレに行くんだよ。私いつも付き合わされてるんだ」何となくだが、確信があった。
私は珍しく真っ先に走った。サッチが待ってと慌てている。園のトイレの場所は知っている。私もこの園に通っていたからだ。
ドアを開けるとかすかに泣き声が聞こえた。
私たちと同じ、止まっていない子がいるんだ。
「誰かいるの!蒼子!」私は叫んでいた。
どたどたー
慌ただしく駆け出す足音が聞こえて廊下の曲がり角から蒼子が私にぶつかってきた。
「おねえちゃーん」
蒼子が鼻水と涙でぐしゃぐしゃの顔を私に押し当てていた。いつもなら絶対に怒るけど、今日ほど嬉しいことはなかった。
「蒼子!怪我とかしてない?大丈夫?」
「うん、大丈夫。みんな動かなくなったの。どうして」
「お姉ちゃんにも分からないの。でもきっと何とかなるよ。今は元気だしてお姉ちゃん達と一緒に来て」
「うん、わかった」
蒼子は私のシャツの裾で涙を拭くとまっすぐ私を見上げている。
「さあ、次は電話に出た謎の男よ、急ごう」サッチは真剣な顔で私たち姉妹を交互に見ながら言った。
心配な点は、はたしてフェンスを登る事が出来るだろうかという事だ。私でも必死になってよじ登ったのに蒼子にはとうてい無理だ。
「フェンスどうしようか。蒼子には登れない」サッチならきっといいアイデアがあるはず。
「職員室に解錠するボタンがあるんじゃない」
「そうだ、行ってみよう」
扉を開けて職員室に入る。
ちょうど園長先生がせんべいをかじろうかという手前で止まっていた。
もう少しで食べれたのに残念。そう思いながら解錠ボタンを探す。
「あの壁にあるボタンがそうだよ。私、先生が誰かと電話で話した後それを押すのを見たことがあるよ」蒼子が得意満面のドヤ顔を見せた。なるほど蒼子の指さした先にボタンがある。
「押してみよう」
サッチと私は、ほぼ同時にボタンを押した。カチャッとかすかに外から動作音が聞こえた。
「でかした蒼子」私は妹の頭をくしゃくしゃとなでた。
蒼子もうれしそうだ。
運動場に出てもさっきと状況は変わっていなかった。マネキン人形の様に園児達が立ち尽くしている。蒼子は真っ青になって泣き出しそうになった。蒼子をなだめながら私達は大急ぎで幼稚園を飛び出した。泣いている場合ではないのだ。唯一の手がかりである公園に行く。今はそれしかない。
「ねえ、おねえちゃん。お菓子ないの?」
蒼子が私の背負っているリュックに熱い視線を送っている。
「いっぱいあるよ。サッチのリュックにも沢山お菓子あるよ。何ていってもお姉ちゃん達は本当は今日、遠足だったんだから。ポテチ食べようか」
「うん食べる食べる。やったあ!」
「蒼子ちゃんこれ知ってる?「はい」と「いいえ」を言葉に出さずに伝える方法。足を開いたら「はい」閉じたら「いいえ」ね。じゃあいくよ。ポテチ食べたいですか」
「ハーイ」
「そうじゃないのこうよ」サッチは足を勢いよく広げた。
「分かった」蒼子はうれしそうに足を広げた。
「ははは」なんとなく楽しくなって三人で笑った。
本当はこの先どうなるのか全く分からないし、不安でいっぱいだ。でもリュックからポテトチップスを出してみんなで食べながら歩いていると、なんだか幸せな気分になっていた。
なんとかなるよ。
私は、今はそう思うようにした。
世界は相変わらず灰色のまま止まっている。
「色の匂いがするね」
「うんするね、こっちだね。『青色』のソーダっぽい匂い。『オレンジ色』のみかんっぽい匂い。『黄色』のバナナっぽい匂いがするね」
背後からふいに声がした。話の内容は意味不明だが、私たち以外に動いている人がいると分かって嬉しくなって思わずサッチの手をぐいっと引っ張った。
だけど私達は声を出さないようにした。
何故かと言うと、『青色』は私が今着ているワンピースの色だし、『オレンジ色』はサッッチが今着ているパーカーの色、『黄色』は蒼子が今着ている制服の色なのだ。
私達は静かに声の主が出てくるのを待つしかなかった。
ゆっくりと現れたのはパンダが二匹。
体はピンク色で目のまわりが赤色のパンダが二本足で立って歩いていた。
私たちはパンダと目があった。
「色付き、だね」
パンダが別のパンダにささやいた。
「そうだね。色が許されているのは僕達だけなのに」
二匹のパンダ。いやこの場合、立って歩いて、会話しているパンダは二匹というより二人と表現した方がいいのかしら。恐怖で身がすくみながらも頭の隅ではそんなことを考えてていた。
ピンク色のパンダ達の気持ちは決まったらしい。
「つかまえよう」
「そうだね」
ううー
うなり声を上げながら、パンダは両手を前につきだして真っ直ぐこちらに向かって来た。
「マロ!逃げなきゃ」
「蒼子、走るよ」
「パンダちゃんかわいい!」
蒼子はのんきに後ろを振り返って見ている。パンダはたしかにかわいい。でも目が黄色に光って追いかけてくるピンク色のパンダはかわいくないの!そう思いながら蒼子の手を引っ張って走る。
呼び出された公園までもうすぐだったのに。今はあいつらをどうにかしなくちゃ。
三人は猛ダッシュで走った。なんとかピンクのパンダを引き離すことができた。散髪屋さんの角を曲がってすぐの路地をまた曲がって、民家の裏手の細い抜け道を走る。
このあたりは私たちの庭なのだ。サッチが先導して走っているけど現在地は私も把握している。
蒼子も私も息が切れてきた。
私達の様子を察知したサッチは電柱のそばで止まってくれた。ふふふ、察知したサッチだって…我ながらおもしろい。そんな事を考える余裕が少し出てきた。
耳をすましてパンダ達の気配をさぐる。
「匂いがするね」
「うん、色の匂いがね」
「こっちかな」
「こっちだね」
電柱の陰からそっと見る。
来た。パンダの足が見えた。
「だめだ、サッチ。あいつら色を匂いで感じることが出来るんだ。しかも遠くからでも分かるみたい」
先に走るサッチの後頭部めがけて、なかば叫ぶように話す。
「やっぱりこっちだ」
「こっちだね」
後ろを振り返るとパンダ達の姿がはっきり見えた。動きは緩慢で両手を前につきだしてやってくる。
「サッチ、あいつら動きはわりとのろいよ。でも色の匂いをどうにかしなくちゃ逃げられないと思う」私はサッチに自分の考えを身振り手振りで必死になって伝えた。
色を消さなくちゃ。
「マロ、私に考えがある。来て」
サッチは走った。
「さっちゃーん考えってなーに?考えってあるものなの?」
蒼子はのん気にサッチの言葉尻で遊んでいる。
「真剣に走って」私は妹をたしなめた。
「どうして?あのピンクのパンダさんと遊ばないの?」
「ばか、あいつらさっき私たちのこと捕まえようってはっきり言ってたよ。捕まったら食べられちゃう」
「ほんとう?パンダは笹しか食べないんじゃないの」
私は言葉に詰まる。
「パンダは普通、白黒でしょ。あいつらピンクなんだよ。しかもしゃべるんだよ。だから普通じゃないってこと。もうだまって走って」
サッチの足取りは迷いがない。
駄菓子屋に柴犬のフジノスケがいる。昼寝中だ。こんなことになるんだったら私も寝ている方が良かった。
次の角を曲がる
見覚えのあるアパートの敷地に入る。ここはサッチの家だ。
二階まで階段で駆け上がり角の部屋のドアに鍵をさす。
ドアを開けて、体を室内に滑り込ませる。そして素早く鍵をかけた。
サッチの家は平日の日中には誰もいない。
いつもサッチが一人で留守番をしている。サッチは玄関のコンクリート部分から躊躇なく靴のまま室内に入る。
「土足で入ってきて。靴にも色が付いてるでしょ」
廊下の突き当たりの部屋にそのまま入る。この部屋がサッチの部屋だ。私は何度もこの部屋に入ったことがある。
とても女の子の部屋とは思えない。例えば壁に貼ってあるポスターは手と足に手錠がかけられた裸のおじさん(脱出王のフーデーニという人らしい、私はよく知らない)もともとモノクロのポスターだから今もモノクロのまま。
人体の骨格標本。何故かコマネチのポーズで立っている。いや今はそれどころじゃなかった。
ガチャリ
うそっ、玄関のドアの鍵はかけたはずなのに。開いたドアの隙間からチラリとピンクの手が見えた。
「はやくこっちに来て!」
サッチは声には出さずに私たちをベッドに呼んだ。
私と蒼子はサッチのベッドに飛び乗る。サッチは両手を鞭のようにしならせて真っ白なシーツを広げた。
そのまま私達をくるみながら自分もすばやくシーツの中に入る。私達は呼吸をするのも苦しいくらい息を殺した。すぐそばをパンダが移動する気配がする。
「おかしいな、たしかに色の匂いがしたのにな。急に匂いが消えたね」
「そうだね、おかしいね。すぐそばだと思ったのに」
「どうしようか」
「どうしようか」
パンダ達は黙った。その沈黙は永遠に感じられた。怖い。
「こういうことじゃあないかなあ」
長い沈黙を破ってパンダその1はパンダその2に、自分たちが納得するすばらしい思いつきを伝えた。
「僕たちに悪いと思って色を身にまとうのをやめてくれたんじゃあないかな」
「ああ、そうだよ。まったくそのとおりだよ。この世界で色を僕たち以外が使うなんてもってのほか、自分たちの身の程をわきまえたんだよ。きっとそうだそうだ」
「じゃあどうしようか」
「そりゃあ帰ろうよ。帰っておいしいラーメン作ろうよ」
「そうしよう、そうしよう」
ぱん!何かが弾けたような音がして、パンダ達の気配は消えた。
私達はパンダが消えたと思った。
でも、実はパンダの罠でシーツから顔を出したらいやらしい笑い顔のパンダと目が合う恐怖を想像すると動けないでいた。
どれくらいシーツの中にいただろう。10分か、20分か、はたまた1分かもしれない。
「もうきっと大丈夫だよ」
蒼子がこらえきれずにシーツをめくって立ち上がった。
「だめだよ蒼子!」
私はあわてて蒼子を押さえたがもう遅い。私もサッチも歯を噛みしめながら目をぎゅっと閉じた。もうだめだ、そう思った。静まりかえる室内。
薄目を開けて部屋の中を見た。
そこにピンクのパンダはいない。私とサッチは手を取り合って、ベッドの上に座り込んだ。
「なんだか分からないけど、とりあえず助かったみたいね」
サッチは自分の立てた作戦の思いもよらない効果に満足げにつぶやいた。
そしてすっくと立ち上がって自分の本棚の前に立つと、一冊のノートを抜き出した。
「実は私、このノートを取りに来たの」
そのノートの表紙はサッチの手がさわった部分だけ、しばらくキラキラと光っていた。
「そのノート変わってるね」
「お父さんとお母さんが研究の息抜きで作った材質だって言ってた。原理も聞いたけどなんだか分からなかったの。それよりも書いてある内容が大事なの」
「書いてある内容?」
私は何の事か分らずおうむ返しに聞いた。
「そう、内容なの」
サッチはいきいきと話し出した。
「去年の誕生日、ケーキの横にこのノートがあったの。困ったことが起きたら、読みなさいって二人から言われたわ。その時は真剣に聞いてなかったんだけど、そのノートの題名が、これだったのを思い出したの」
サッチはノートの表紙を私に見せた。そこには「動かない世界と色のない世界」と書かれていた。
その時、バックの中に入れていたスマホから「二十世紀少年」の曲が流れた。
メールだ。事情の分からない蒼子は「ねえ、何の音?見せて。見せてくれないともう行かない」とだだをこね出した。
「何でもないよ。ただのメールだよほらね」
私はメールの内容を確認する前にキッチンに向かった。あるアイデアを思いついたのだ。突然の私の行動に二人はぽかんとしている。あるものを捜し当てた私はかばんに押し込んで部屋に戻った。
私はサッチに見せながらメールを開いた。三人で必死に画面をのぞき込む。
「遅いですねえ。待ちくたびれてます。あと5分でここに来ない場合、まあ時間は止まっていますから何だか変ですが、あと5分で私は消えます。それは永遠に時が動かないのと同じ意味です」
しばしの沈黙。サッチは蒼子を背負った。
「今、ノートを読む時間は無いわ。あの公園から私の部屋までの距離はギリギリ5分で間に合うかどうか。行くわよ」サッチは蒼子を背中に背負って駆けだした。
「サッチは凄いや。お姉ちゃんとは全然違うね」蒼子は嬉しそうだ。
(悪かったわね)そう思いながら、待って!と言いたくなったが、私もがんばって走った。あと5分しかない。
6分後に公園に到着してもそれは意味が無い。唯一のヒントが消え失せてしまう。世界が沈黙しては本当の本当に手詰まりになってしまう。
あと4分。六十まで心の中で数えた数字を一に戻した。目安でもなんでも時間を計るしかない。
サッチは階段を駆け下り、電柱に当たってもおかしくないくらいのギリギリで曲がる。背負っている蒼子の体重を全く感じない。私は自分の体の重みがうらめしい。足を踏み出しても前になかなか進まない。
また六十を数えた。
あと3分。前方から蒼子の笑い声が聞こえる。そんなに離れていないところにまだサッチはいる。でも笑い声と「静かにして」と怒る声は遠ざかっていく。汗が吹き出る。もう走っているとはいえないスピードになってきた。でも歩くわけにはいかない。
あと2分。もう数を数えるのはやめた。花屋さんの角を曲がれば公園だ。あと少し。
公園が見えた。サッチが公園の中の砂場で立っているのが見える。サッチなら間に合ったはず。でもここから見てもサッチと蒼子の姿しか見えない。蒼子は滑り台の階段を上っている。
ふと私に、疑問がわき上がった。はたして、この不思議な現象は現実に起こっている事なのだろうか?次の瞬間、何か目の前にチカチカとするものが見えたような気がした。今のは何かしら。
メールの送り主らしき姿は見えない。心拍数がさらに早くなる。
間に合わなかったのかな…。
サッチの横にやっと並んだ私は両手をひざにおいて肩で息をしながら話しかける。
「誰かいた?」
「誰もいなかった」
誰もいなかったということは、間に合わなかったということ?ちょっとぐらい待ってくれてもいいでしょう。
これで少なくとも私たちよりこの世界について知っているであろう人物の話は聞けなくなった。もしかして一生このまま?お父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんと二度と話せないってこと?思考はぐるぐる回りだした。とたんに不安がおしよせてきて立っているのがやっとになった。
私は苦しくて地面の一点を見つめた。
ぽたり。
えっ、私はどきっとしてサッチの顔を見上げた。声を殺しているが、サッチは泣いていた。
「サッチ、メールに返信してみよう。送り主は絶対まだ近くにいるにきまっているよ。やってみようよ」
私はサッチの涙を見て逆に冷静になることができた。なんとかしなくちゃ。
手と足を使って鉄棒にぶら下がっている蒼子が視界のはしに入る。あの技は豚の丸焼きだ。出来るようになったのね。思わず泣きそうになる。
私たちの異変に気づいた蒼子は走って来て、私達に見て見てと言うと、下を向いた。一拍の沈黙の後、おもむろに顔をがばっと上げた。蒼子の得意技「変顔」が炸裂した。私とサッチは吹き出して笑うしかなかった。
そのとき、バイクの音が聞こえてきた。エンジン音がするという事はそのバイクは止まっていない。動いてる。
私はサッチを見た。サッチは手の甲で涙をぐいと拭いてから音のする方に目をやった。現れたバイクは、新聞配達やそば屋さんの出前で使うようなバイクだ。
トコトコトコとかわいらしい音を立てながらやってくる。男の人が運転している。オフロードで使うタイプのヘルメットをかぶっている。段差を乗り越えるショックを最小限にするためにスピードを殺していたが、段差を乗り越えたあとはふわふわといつまでも車体が上下する。そのバイクはずいぶんとオンボロのように見えた。
公園の中にゆっくりと入ってくる。バイクの荷台には何かの木箱が乗っている。
「サッチあの箱って紙芝居かな?」
「あの雰囲気は紙芝居だね。でも紙芝居の箱にしては少し厚みがあると思う」
たしかに紙芝居ならもう少し厚みの薄い箱が乗っているかもと思った。その男はエンジニアブーツに黒い革で出来たズボンを履いていた。上着がおじいちゃんが着ている下着のようなシャツ、そしてラクダの腹巻きを巻いている。ひもに結ばれた朱色のお守りを首から吊しているのが見えた。
「メールの送り主かな、気をつけようね」私は緊張で口の中がからからになっている。冷たい緑茶をごくごくと飲みたかった。サッチもきっとそう思っているに違いない。
さすがの蒼子も私達のそばに戻ってきて後ろに隠れた。そして首だけを伸ばしてそのバイクを見ている。
三メートルほど離れた場所でバイクは止まった。その男はバイクのスタンドを「よいしょ」と言いながら立てた。
そして荷台から黄金色に鈍く光るハンドベルを取り出した。ヘルメットの奥で光る目はまっすぐこちらを見ている。そして皮手袋をはめた手でベルを盛大に鳴らした。
「人形劇が始まるよー、はいもう少し前に来てね」
怖い。そう思った。
「真白(ましろ)起きろ」
私は眠いのだ。出来るだけ寝ていたい。だから起きないフリをする。
父は無言で私の布団をむしりとった。
(さ、寒い!)
3月末。桜も咲こうかという時期だが朝はまだ寒い。私たち二人は仕方なく起きあがる。
「おはよう」
父、靖(やすし)44歳。
寝起きの父の顔は決して見れたものではない。しかめっ面、眉間には深いしわ、口元にはヨダレの跡、目やにがついた目をうすく開けて私を見て言う。
「おはよう」
私も似たような惨憺たる外見で目を覚ます。毎朝こうしていつもの一日が始まる。
階下の台所からソプラノの声で「まーしーろーちゃーん」と目覚ましボイスが聞こえてくる。圭子おばあちゃんだ。
圭子おばあちゃんは毎朝、私のご飯を用意し終わると早く起きろとばかりに目覚めの声をかける。
(あ、今日から春休みじゃない。小学校はお休み。早起きする必要ないじゃない。損した。)
もう一度横になり、布団に潜り込む。次の瞬間、布団が引きはがされる。今度は母だ。
「なんでもう一度寝るの。今日は学童の遠足でしょ」
(そうだった。学校は春休みだけど、放課後に通っている学童クラブの遠足だった!水族館に行くのかぁ。楽しそうだけどバスで吐いたらどうしよう。)母は私に厳しい。紀子(のりこ)42歳。脇をがばっとつかみ「起きなさーい!」
私はびっくりしてエビ反りしながら奇声をあげる。
「もう、うるさーい!」
母の隣でこんもりとした物体が声を荒げた。しまった、暴れん坊が目覚めてしまった。いつもは私の身支度が出来るまでおとなしく眠らしておくのだ。妹の蒼子(あおこ)5歳が悪態をつきながら起きた。捲くし立てるように猛スピードで蒼子が話しだした。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさーい!」
私は二度寝をあきらめ、のっそりと起き上がり、階下の台所に降りた。
先ほどのソプラノ声で階下から私を起こしてくれる、おばあちゃんがいた。
おばあちゃんはくるくるパーマをかけたかわいらしい出で立ちをしている。おじいちゃんの幸一にお茶を入れている。
「行ってきます」
空は青く高く快晴、雀が数羽おいかけっこするように飛び去る。
本日の私の出で立ちは、フード付き青色のワンピースにスパッツ。ほぼ母が一方的に決めた一張羅だ。
値段の安さとデザインのせめぎ合いによって母が熟考を経て先日購入したものだ。
新しい服はなんだか気持ちがいい。それにしてもトイレは大丈夫だったかって?私が耐えうるギリギリまで待ったわ。
出勤するおじさん達が猫背気味に、早歩きでセカセカと私を追い抜いていく。高校生のお兄さんお姉さんは自転車で私を抜く。きれいなお姉さんはスマホを片手に軽やかに私を抜き去る。
突然、背中をたたかれた。
「よっ、おはよう。今日は楽しみだねえ。イルカもいるかもよ。アザラシに会ったら、あざらしい(新しい)発見があるかも」
短い髪の毛。前髪はおでこでぱっつんとそろっている。
同級生の女の子、山崎佐知子。
通称サッチがリュックを背負ってそこにいた。
今日はデニムの短パンとオレンジ色のウインドブレーカーという出で立ち。格好だけではなく、サッチは私とは性格も正反対。活発で快活。
どうして私と友達なのか分からないぐらい、クラスでも人気者なのだ。
「なんだがか元気ないねえマロ(ちなみにサッチは私の事をマロと呼んでいる)水族館、楽しみじゃないの?、分かった。バスに酔うのがいやなんでしょう」
「サッチも酔うでしょう?」
「酔うけど大丈夫だよ。マロも酔い止め飲んでいるでしょう。それさえ飲んでおけば大丈夫だよ」
「そうだね」
サッチと話していると本当に大丈夫と思えてくるから不思議だ。サッチといるだけで気持ちが明るく晴れ渡っていく。サッチが私の友達で本当によかったといつも思う。
「まだ出発まで時間あるよね。どう、うちの研究所が見たいってマロ言ってたでしょう。ちょっと見ていこうよ。今日はお父さんもお母さんも出張で朝からいないんだ。新しい機械も入ったって言ってたんだよね」サッチはいたずらっぽく笑った。
「いいの?」私は嬉しくてサッチの手を握ってぴょんぴょん跳ねた。
「私が許す。ちこうよれ、くるしゅうない」サッチはお殿様をイメージしたと思われる動きをしている。
その時、私の背後から誰かがぶつかってきた。
「お姉ちゃんばっかりずるーい。私も水族館に行く。絶対に行く」
私は振り返った。そこにはいつの間にかついてきた蒼子が腕組みをしてほっぺを膨らませて立っていた。
「蒼子、勝手についてきちゃだめでしょう」
「お姉ちゃん私も行きたい」
「だめだよ、蒼子は家に帰りなさい」
「じゃあさ、蒼子ちゃん、うちに探検しに行こうか。水族館のお魚よりすごいものがうちの研究所にはあるよ。たとえば空も飛べちゃうかもよ」
サッチが目をキラキラさせながら蒼子に魅力的なプレゼンを展開している。いいぞサッチ。私は心の中で応援した。
「見たい」蒼子も俄然乗り気になっている。
「でも見たら、お家に帰ろうね」サッチがやさしく囁いた。
「うん帰るよ」蒼子は嬉しそうにその場で飛び跳ねた。
「でもサッチ、時間は大丈夫かな」
「研究所はすぐ近くだからパッと見てパッと帰ろう。さあ、いこう」サッチは言い終わらないうちに駈け出した。
私と蒼子は「待って」と言いながら慌てて追いかけた。
サッチのお父さんとお母さんは一緒に同じ研究をしているという話をサッチから聞いていた。パソコンの計算速度を飛躍的に上げる事に成功して、ちょっとした有名人なのだ。
「こっちよ」サッチは私が曲がったことのない細い路地に入っていく。
そこには銀色に鈍く光る真四角の巨大な豆腐のような建物が三つ敷地の中に建っていた。その建物には窓というものが無いように見える。それどころかドアがどこにあるのかも分らなかった。
サッチは真ん中にある建物に近づいていく。そして壁に顔を近づけた。ピッという音がして、穴がぽっかりと開くようにドアが開いた。
「サッチすごいね」
「そうでしょう。顔認識システムなの。さあ、中に入って」
蒼子は遠慮なく靴を脱ぎ散らかして室内に走りこんでいった。
「ちょっと蒼子だめでしょう、待ちなさい。走っちゃだめ」
蒼子の後姿を見ながら、サッチは壁に手をかざした。一斉に電気がついた。暗かった空間が一気に明るくなった。床も壁もつるつると冷たく光る、まるで病院の廊下のようだ。この素材は確かリノリウムと言うのだろうか。私はそんなことを考えていた。
蒼子が一番手前のドアを開けて部屋の中に入ったのが見えた。
「ちょっと、先々行かないで。待ちなさい」
「いいのよ。見せたいものはあの部屋にあるはずだから」サッチに促されて一緒に部屋に入った。
そこには冷蔵庫のような機械がたくさん並んでいた。そして一台一台の機械はしきりに電球を点灯させていた。クリスマスのイルミネーションのように綺麗だった。その室内には機械の他にソファが三つ置いてあった。蒼子がすでに座ってくつろいでいた。
「空が飛べるってこれ?」私はサッチに聞いた。
「そう、これよ」さっちは微笑むとソファに座ってヘッドレストの裏側から赤色のレンズがはめ込まれたゴーグルを取り出して装着した。
「これを使うと空が飛べるのよ。さあ、マロも座って私と同じようにして」サッチは何だかうれしそうだ。
私は言われるままソファに腰かけた。意外にソファは堅かった。ゴーグルは持ち上げた瞬間に電源が入った。やさしく光っている。私はゴーグルを付けた。パチン。視界が真っ暗になった。あれ空を飛ぶんじゃないの。私は徐々に意識が遠くなっていった。
おじさん達が猫背気味にせかせかと歩いている。きれいなお姉さんや、高校生のお兄さん、お姉さんに抜かれていく。私は歩いている。
あれ、さっきと同じ光景だ。おかしい。私たち研究所にいたはずなのに。隣にはサッチが歩いていた。
「空を飛ぶんじゃなかったの?」私はサッチに食って掛かった。それを聞いたサッチは怪訝そうな表情を浮かべた。
「マロ、おかしなこと言わないで。今日は今から遠足に行くんじゃない。まだ寝ぼけてるの」
そんな、私どうかしちゃったのかしら。蒼子もいたはずなのに…。
「蒼子はどこにいったの」
「蒼子ちゃんは保育所でしょ。さっきお母さんと一緒に歩いている蒼子ちゃんを見たわよ。さあ、しゃきっと目を覚まして、海の世界にレッツゴーよ」サッチは全然おかしいと思っていないらしい。私がおかしいのかしら。
学童の建物は小学校の校庭の隅に立っているプレハブだ。
小学1年生から小学5年生までの学童が放課後、親の仕事が終わるまでここで過ごす。
現在、私とサッチの2人が学童での最高学年となっている。当然、下級生のお守りもしなくてはならない。
プレハブの外にまで子供達の騒ぐ声が響きわたっている。今日は特に騒がしい。
テンションの上がりまくった子供というのは本当にたちが悪い。
冗談ではなく建物の壁やドアが暴れる子供の勢いに負けて揺れているのが分かる。
クワバラクワバラと心の中で唱えながらドアを開けた。
「あら、マロちゃん、サッチおはよう。今日は本当にお願いね」
さっそく、道子先生に助けを求められた。
仕方が無い。道子先生は元は学校の先生だったらしい。子供達の人気者なのだ。だからすでに前後左右から子供が群がっている。
「はいはい、道子先生困っているだろう。離れて離れて」
唯一の男の先生、一二三先生が後ろからぬっと現れた。
額にうかべた汗を拭き、なおかつふーふー吐息を漏らしている。(何をそんなに息を切らしているのかは不明だ)
一二三先生の気配を察知した瞬間、蜘蛛の子を散らすように子供たちは逃げていった。
別に怖いわけでは無いのだが、一二三先生はどうも子供受けがあまり良くない。
「まったく」口の中でその次に続く言葉を飲み込みながら一二三先生は私たちに言った。
「サッチにマロちゃんおはよう。二人ともバス大丈夫?」
その一言でバスの事を思い出してしまう。
「はい酔い止めを飲んだので大丈夫と思いたいです」私はそう言うのが精一杯だった。
「下級生達をトイレに連れて行けばいいんですよね先生」サッチは言った。
「そうそう、悪いねえ」
一二三先生はそう言いながら新たにやってきた子供の世話をしに消えていった。
「ああ、やんなっちゃう。あなたの仕事でしょって言いたくなっちゃうね」
サッチは口をとがらせながら私に言った。でも彼女は頼りにされているのはまんざらでも無い様子だ。
ゆっくりと校庭に立派なバスが入ってきた。
「さあ、みなさんバスに乗りましょう。走らないでね、けがでもしたら大変よ」
道子先生は終始テンパっている。無理もない。
子供たちはゆっくりと言われて泥棒スタイルの抜き足差し足で歩いていた。道子先生はそれを見て笑っている。
全員が着席するまでまたしばらくの時間を要した。そしてようやくバスは発進した。
私は酔い止めの薬が効いてきたのか少しふわふわしていた。
バスの前の方の座席が車に酔いやすい生徒達の指定席となっている。サッチと私は並んで座っている。やはり彼女も少し口数が減っている。どうか酔いませんように。そう思いながら流れる外の景色を見た。
バスの座席の位置は周りの車に比べて少し高い。信号待ちでは隣の車の車内は丸見えだ。
私達は春休みだが、周りは仕事中のお父さんやお母さんが運転する車が多い。
伝票をチェックする若いお兄さん。
後部座席のチャイルドシートに乗っている子供に話しかけているお母さん。そんな光景を観察しながら私は何とか気を紛らわせていた。
そのとき、通路を挟んだ席に座っている男の子がオレンジ色のハンカチを落とした。
ゆっくりと落下する。
そのまま空中にぴたりと止まった
私は言葉を失った。
夢中でサッチの肩をたたいて言った。
「サッチ見て」
うとうとしていたサッチがぱっと目を開けて私を見た。
「どうしたのマロ」
相変わらず空中で止まったままのハンカチを指さす。
「え、手品?」
オレンジの色が徐々に消えて灰色になった。
いや、ハンカチだけではない。私たち以外、バスの車内、車外の景色が灰色の濃淡でうめつくされた。
慌てて私は後ろを振り返る。灰色になってみんな止まっている。楽しそうに笑いながら止まっている。窓の外を見ると飛んでいる鳩も空中で止まっている。
周りの車も止まっている。
まるで私たち以外の時間が止まったようにすべての物がその場で止まっている。
サッチは立ち上がって道子先生のところに行った。私もついて行く。
道子先生は水族館のパンフレットを食い入るように見つめる姿勢のままだ。
私は心臓をきゅっと捕まれたような恐怖を感じた。
「何かの冗談なのかな」
「冗談で周りの車まで止まらないよ。見て隣の車のお兄さん。くしゃみした瞬間で止まってる」
見てみるとたしかにくしゃみの瞬間で止まっている。御丁寧に唾が宙に浮かんでいる。
「サッチどうしたらいいの」
「分からないけど道子先生なら連絡用の携帯電話ぐらい持ってないかな。家か警察に電話してみよう」
それはいいアイデアだと思った私は道子先生の上着のポケットをあさる。右ポケットには無い。左ポケットに手を差し込むとコツリと固いものが手に触れた。
あった。私はポケットからスマホを取り出した。
その瞬間着信ベルが鳴った。
あわてて落としそうになる。
「電話だよ。しかも非通知だよ。どうしようか」ドキドキしながら私は動けないでいた。それを見たサッチはさっと私の手からスマホを取り電話にでた。
「もしもし…」
サッチはスピーカーボタンを押して私にも相手の会話が聞こえるようにしてくれた。
「もしもーし?」
若い男の声がした。私達の緊迫した状況にそぐわない明るい声だ。
その緊張感の無い声が、私達の状況だけが異常で外の世界は普通なんだと思えて嬉しかった。私は言った。
「助けてください。私たちは春休みの遠足でバスに乗っています。みんな動かなくなったんです。」
電話の相手の反応は先ほどの脳天気な感じとは違い、重い重い沈黙だった。サッチと私は口々に言った。
「聞こえますか」
「あなたはだれですか」
声はうわずり、悲痛な叫びを二人は言った。
「あなたは誰ですかだって?」
思いもかけず相手の反応があった。どきりとした。
「君たちはサッチとマロだろう。知っているよ」
スマホの前で私たち二人は顔を見合わせた。
「どうして知っているの」
「どうしてって僕は何でも知っているさ、持ち場はこの世界だからね。まあ、いいや。とにかくこのままじゃあお互いらちがあかないでしょう。とりあえずバスの扉を開けるから一度バスから降りてくれる。そのスマホにメールで地図を送るからその場所に二人で来てくれる。じゃあ」
そう言って通話は切れた。その直後、バスの昇降口のドアが開いた。乗ったときには聞こえたプシューという音もなく、まったくの無音だった。
「何が起こるかわからないけど…とにかく行ってみよう」サッチは頼もしく車道に降りた。
私も後に続く。
相変わらず人々は止まっている。
チワワと散歩中のおじいさん。チワワが腰を下ろして今にもうんちをしようとしている。立ち話中のおばさん。
しげしげと周囲を眺めていると道子先生のスマホからメール着信のメロディが流れた。
私、この曲知っている。
「二十世紀少年」Tレックスの曲。お父さんが言っていた。マーク・ボランは世界一「イエー」を上手に言うボーカルだって。
お父さん、お母さんは大丈夫かな。そう思うと涙があふれてきた。サッチが肩に手をおいて私の顔をのぞき込む。
「マロ、泣いてる場合じゃないよ。地図を見よう。今はあの電話の男の言うとおりにすることが一番の解決法のような気がする」
「そうかもね。この止まった世界をもう一度動かさなきゃ」
メールを開く。
地図は蒼子の通う幼稚園の裏手にある公園を示している。ここから近い。画面を見て私は思った。蒼子は幼稚園にいるのかな?
「ねえ、サッチ。幼稚園に行って妹の様子見てもいい?」
私は蒼子の事が心配になった。
「もちろんよ」サッチはまっすぐ前を見たまま表情は変わらない。何かを考えている様子だ。
私たちは走った。
でも私はサッチについていけない。サッチも私を置き去りにしない程度に先行している。酒屋さんの角を曲がれば幼稚園がある。
曲がったとたん私は悲鳴を上げそうになった。制服を着た沢山の園児達がかけっこをしたり、ブランコをしたり滑り台を滑ったり遊んでいる。でも園児達の声は聞こえない。
ぴたりと止まっている。
「サッチどうしよう」不安な気持ちを抑えて私はサッチを見つめた。
「蒼子ちゃん今日は登園したはず。絶対この中にいるよ。顔だけでも確認してみよう」サッチは少し笑った。その笑顔を見て私もぎこちなく笑う。扉に手をかける。鍵がかかっている。門扉の鍵は先生が内部から外すシステムになっているのだ。
「どうしようか」もう私は完全にパニックになっていて思考停止状態だ。
サッチは無言でフェンスに飛びつき、フェンスを登りはじめた。
「ちょっとサッチ!先生に怒られるよ」
「今は非常事態なの。安否確認が優先。臨機応変に対応することも世の中大事なの」
するすると登って、フェンスの一番上でひらりと体を入れ替えて幼稚園の中に入っていった。私も意を決してフェンスに飛びつく。
こんな事をするのは初めてで腰は逃げ腰のへっぴり腰だ。サッチの度胸の良さには本当に舌を巻く。
フェンスの最上部に到達した。
下から見ている以上にその場所は高かった。
動けない私を見てサッチはもう一度あちら側からフェンスを登ってきた。そして最上部でフェンスにまたがったまま私に手を差し伸べる。
「ありがとうサッチ」
「どういたしまして、足下にお気をつけてお降りくださいませお嬢様」
支えられながら何とか幼稚園に入ることに成功した。
「一人一人、見ていくしかないね」サッチと私は園児達の顔を順々に覗き込んだ。
でも蒼子はいなかった。
「どうしてここにいないのかな」
サッチは見回している。
「分かったトイレだよ。あの子遊んでいる最中によくトイレに行くんだよ。私いつも付き合わされてるんだ」何となくだが、確信があった。
私は珍しく真っ先に走った。サッチが待ってと慌てている。園のトイレの場所は知っている。私もこの園に通っていたからだ。
ドアを開けるとかすかに泣き声が聞こえた。
私たちと同じ、止まっていない子がいるんだ。
「誰かいるの!蒼子!」私は叫んでいた。
どたどたー
慌ただしく駆け出す足音が聞こえて廊下の曲がり角から蒼子が私にぶつかってきた。
「おねえちゃーん」
蒼子が鼻水と涙でぐしゃぐしゃの顔を私に押し当てていた。いつもなら絶対に怒るけど、今日ほど嬉しいことはなかった。
「蒼子!怪我とかしてない?大丈夫?」
「うん、大丈夫。みんな動かなくなったの。どうして」
「お姉ちゃんにも分からないの。でもきっと何とかなるよ。今は元気だしてお姉ちゃん達と一緒に来て」
「うん、わかった」
蒼子は私のシャツの裾で涙を拭くとまっすぐ私を見上げている。
「さあ、次は電話に出た謎の男よ、急ごう」サッチは真剣な顔で私たち姉妹を交互に見ながら言った。
心配な点は、はたしてフェンスを登る事が出来るだろうかという事だ。私でも必死になってよじ登ったのに蒼子にはとうてい無理だ。
「フェンスどうしようか。蒼子には登れない」サッチならきっといいアイデアがあるはず。
「職員室に解錠するボタンがあるんじゃない」
「そうだ、行ってみよう」
扉を開けて職員室に入る。
ちょうど園長先生がせんべいをかじろうかという手前で止まっていた。
もう少しで食べれたのに残念。そう思いながら解錠ボタンを探す。
「あの壁にあるボタンがそうだよ。私、先生が誰かと電話で話した後それを押すのを見たことがあるよ」蒼子が得意満面のドヤ顔を見せた。なるほど蒼子の指さした先にボタンがある。
「押してみよう」
サッチと私は、ほぼ同時にボタンを押した。カチャッとかすかに外から動作音が聞こえた。
「でかした蒼子」私は妹の頭をくしゃくしゃとなでた。
蒼子もうれしそうだ。
運動場に出てもさっきと状況は変わっていなかった。マネキン人形の様に園児達が立ち尽くしている。蒼子は真っ青になって泣き出しそうになった。蒼子をなだめながら私達は大急ぎで幼稚園を飛び出した。泣いている場合ではないのだ。唯一の手がかりである公園に行く。今はそれしかない。
「ねえ、おねえちゃん。お菓子ないの?」
蒼子が私の背負っているリュックに熱い視線を送っている。
「いっぱいあるよ。サッチのリュックにも沢山お菓子あるよ。何ていってもお姉ちゃん達は本当は今日、遠足だったんだから。ポテチ食べようか」
「うん食べる食べる。やったあ!」
「蒼子ちゃんこれ知ってる?「はい」と「いいえ」を言葉に出さずに伝える方法。足を開いたら「はい」閉じたら「いいえ」ね。じゃあいくよ。ポテチ食べたいですか」
「ハーイ」
「そうじゃないのこうよ」サッチは足を勢いよく広げた。
「分かった」蒼子はうれしそうに足を広げた。
「ははは」なんとなく楽しくなって三人で笑った。
本当はこの先どうなるのか全く分からないし、不安でいっぱいだ。でもリュックからポテトチップスを出してみんなで食べながら歩いていると、なんだか幸せな気分になっていた。
なんとかなるよ。
私は、今はそう思うようにした。
世界は相変わらず灰色のまま止まっている。
「色の匂いがするね」
「うんするね、こっちだね。『青色』のソーダっぽい匂い。『オレンジ色』のみかんっぽい匂い。『黄色』のバナナっぽい匂いがするね」
背後からふいに声がした。話の内容は意味不明だが、私たち以外に動いている人がいると分かって嬉しくなって思わずサッチの手をぐいっと引っ張った。
だけど私達は声を出さないようにした。
何故かと言うと、『青色』は私が今着ているワンピースの色だし、『オレンジ色』はサッッチが今着ているパーカーの色、『黄色』は蒼子が今着ている制服の色なのだ。
私達は静かに声の主が出てくるのを待つしかなかった。
ゆっくりと現れたのはパンダが二匹。
体はピンク色で目のまわりが赤色のパンダが二本足で立って歩いていた。
私たちはパンダと目があった。
「色付き、だね」
パンダが別のパンダにささやいた。
「そうだね。色が許されているのは僕達だけなのに」
二匹のパンダ。いやこの場合、立って歩いて、会話しているパンダは二匹というより二人と表現した方がいいのかしら。恐怖で身がすくみながらも頭の隅ではそんなことを考えてていた。
ピンク色のパンダ達の気持ちは決まったらしい。
「つかまえよう」
「そうだね」
ううー
うなり声を上げながら、パンダは両手を前につきだして真っ直ぐこちらに向かって来た。
「マロ!逃げなきゃ」
「蒼子、走るよ」
「パンダちゃんかわいい!」
蒼子はのんきに後ろを振り返って見ている。パンダはたしかにかわいい。でも目が黄色に光って追いかけてくるピンク色のパンダはかわいくないの!そう思いながら蒼子の手を引っ張って走る。
呼び出された公園までもうすぐだったのに。今はあいつらをどうにかしなくちゃ。
三人は猛ダッシュで走った。なんとかピンクのパンダを引き離すことができた。散髪屋さんの角を曲がってすぐの路地をまた曲がって、民家の裏手の細い抜け道を走る。
このあたりは私たちの庭なのだ。サッチが先導して走っているけど現在地は私も把握している。
蒼子も私も息が切れてきた。
私達の様子を察知したサッチは電柱のそばで止まってくれた。ふふふ、察知したサッチだって…我ながらおもしろい。そんな事を考える余裕が少し出てきた。
耳をすましてパンダ達の気配をさぐる。
「匂いがするね」
「うん、色の匂いがね」
「こっちかな」
「こっちだね」
電柱の陰からそっと見る。
来た。パンダの足が見えた。
「だめだ、サッチ。あいつら色を匂いで感じることが出来るんだ。しかも遠くからでも分かるみたい」
先に走るサッチの後頭部めがけて、なかば叫ぶように話す。
「やっぱりこっちだ」
「こっちだね」
後ろを振り返るとパンダ達の姿がはっきり見えた。動きは緩慢で両手を前につきだしてやってくる。
「サッチ、あいつら動きはわりとのろいよ。でも色の匂いをどうにかしなくちゃ逃げられないと思う」私はサッチに自分の考えを身振り手振りで必死になって伝えた。
色を消さなくちゃ。
「マロ、私に考えがある。来て」
サッチは走った。
「さっちゃーん考えってなーに?考えってあるものなの?」
蒼子はのん気にサッチの言葉尻で遊んでいる。
「真剣に走って」私は妹をたしなめた。
「どうして?あのピンクのパンダさんと遊ばないの?」
「ばか、あいつらさっき私たちのこと捕まえようってはっきり言ってたよ。捕まったら食べられちゃう」
「ほんとう?パンダは笹しか食べないんじゃないの」
私は言葉に詰まる。
「パンダは普通、白黒でしょ。あいつらピンクなんだよ。しかもしゃべるんだよ。だから普通じゃないってこと。もうだまって走って」
サッチの足取りは迷いがない。
駄菓子屋に柴犬のフジノスケがいる。昼寝中だ。こんなことになるんだったら私も寝ている方が良かった。
次の角を曲がる
見覚えのあるアパートの敷地に入る。ここはサッチの家だ。
二階まで階段で駆け上がり角の部屋のドアに鍵をさす。
ドアを開けて、体を室内に滑り込ませる。そして素早く鍵をかけた。
サッチの家は平日の日中には誰もいない。
いつもサッチが一人で留守番をしている。サッチは玄関のコンクリート部分から躊躇なく靴のまま室内に入る。
「土足で入ってきて。靴にも色が付いてるでしょ」
廊下の突き当たりの部屋にそのまま入る。この部屋がサッチの部屋だ。私は何度もこの部屋に入ったことがある。
とても女の子の部屋とは思えない。例えば壁に貼ってあるポスターは手と足に手錠がかけられた裸のおじさん(脱出王のフーデーニという人らしい、私はよく知らない)もともとモノクロのポスターだから今もモノクロのまま。
人体の骨格標本。何故かコマネチのポーズで立っている。いや今はそれどころじゃなかった。
ガチャリ
うそっ、玄関のドアの鍵はかけたはずなのに。開いたドアの隙間からチラリとピンクの手が見えた。
「はやくこっちに来て!」
サッチは声には出さずに私たちをベッドに呼んだ。
私と蒼子はサッチのベッドに飛び乗る。サッチは両手を鞭のようにしならせて真っ白なシーツを広げた。
そのまま私達をくるみながら自分もすばやくシーツの中に入る。私達は呼吸をするのも苦しいくらい息を殺した。すぐそばをパンダが移動する気配がする。
「おかしいな、たしかに色の匂いがしたのにな。急に匂いが消えたね」
「そうだね、おかしいね。すぐそばだと思ったのに」
「どうしようか」
「どうしようか」
パンダ達は黙った。その沈黙は永遠に感じられた。怖い。
「こういうことじゃあないかなあ」
長い沈黙を破ってパンダその1はパンダその2に、自分たちが納得するすばらしい思いつきを伝えた。
「僕たちに悪いと思って色を身にまとうのをやめてくれたんじゃあないかな」
「ああ、そうだよ。まったくそのとおりだよ。この世界で色を僕たち以外が使うなんてもってのほか、自分たちの身の程をわきまえたんだよ。きっとそうだそうだ」
「じゃあどうしようか」
「そりゃあ帰ろうよ。帰っておいしいラーメン作ろうよ」
「そうしよう、そうしよう」
ぱん!何かが弾けたような音がして、パンダ達の気配は消えた。
私達はパンダが消えたと思った。
でも、実はパンダの罠でシーツから顔を出したらいやらしい笑い顔のパンダと目が合う恐怖を想像すると動けないでいた。
どれくらいシーツの中にいただろう。10分か、20分か、はたまた1分かもしれない。
「もうきっと大丈夫だよ」
蒼子がこらえきれずにシーツをめくって立ち上がった。
「だめだよ蒼子!」
私はあわてて蒼子を押さえたがもう遅い。私もサッチも歯を噛みしめながら目をぎゅっと閉じた。もうだめだ、そう思った。静まりかえる室内。
薄目を開けて部屋の中を見た。
そこにピンクのパンダはいない。私とサッチは手を取り合って、ベッドの上に座り込んだ。
「なんだか分からないけど、とりあえず助かったみたいね」
サッチは自分の立てた作戦の思いもよらない効果に満足げにつぶやいた。
そしてすっくと立ち上がって自分の本棚の前に立つと、一冊のノートを抜き出した。
「実は私、このノートを取りに来たの」
そのノートの表紙はサッチの手がさわった部分だけ、しばらくキラキラと光っていた。
「そのノート変わってるね」
「お父さんとお母さんが研究の息抜きで作った材質だって言ってた。原理も聞いたけどなんだか分からなかったの。それよりも書いてある内容が大事なの」
「書いてある内容?」
私は何の事か分らずおうむ返しに聞いた。
「そう、内容なの」
サッチはいきいきと話し出した。
「去年の誕生日、ケーキの横にこのノートがあったの。困ったことが起きたら、読みなさいって二人から言われたわ。その時は真剣に聞いてなかったんだけど、そのノートの題名が、これだったのを思い出したの」
サッチはノートの表紙を私に見せた。そこには「動かない世界と色のない世界」と書かれていた。
その時、バックの中に入れていたスマホから「二十世紀少年」の曲が流れた。
メールだ。事情の分からない蒼子は「ねえ、何の音?見せて。見せてくれないともう行かない」とだだをこね出した。
「何でもないよ。ただのメールだよほらね」
私はメールの内容を確認する前にキッチンに向かった。あるアイデアを思いついたのだ。突然の私の行動に二人はぽかんとしている。あるものを捜し当てた私はかばんに押し込んで部屋に戻った。
私はサッチに見せながらメールを開いた。三人で必死に画面をのぞき込む。
「遅いですねえ。待ちくたびれてます。あと5分でここに来ない場合、まあ時間は止まっていますから何だか変ですが、あと5分で私は消えます。それは永遠に時が動かないのと同じ意味です」
しばしの沈黙。サッチは蒼子を背負った。
「今、ノートを読む時間は無いわ。あの公園から私の部屋までの距離はギリギリ5分で間に合うかどうか。行くわよ」サッチは蒼子を背中に背負って駆けだした。
「サッチは凄いや。お姉ちゃんとは全然違うね」蒼子は嬉しそうだ。
(悪かったわね)そう思いながら、待って!と言いたくなったが、私もがんばって走った。あと5分しかない。
6分後に公園に到着してもそれは意味が無い。唯一のヒントが消え失せてしまう。世界が沈黙しては本当の本当に手詰まりになってしまう。
あと4分。六十まで心の中で数えた数字を一に戻した。目安でもなんでも時間を計るしかない。
サッチは階段を駆け下り、電柱に当たってもおかしくないくらいのギリギリで曲がる。背負っている蒼子の体重を全く感じない。私は自分の体の重みがうらめしい。足を踏み出しても前になかなか進まない。
また六十を数えた。
あと3分。前方から蒼子の笑い声が聞こえる。そんなに離れていないところにまだサッチはいる。でも笑い声と「静かにして」と怒る声は遠ざかっていく。汗が吹き出る。もう走っているとはいえないスピードになってきた。でも歩くわけにはいかない。
あと2分。もう数を数えるのはやめた。花屋さんの角を曲がれば公園だ。あと少し。
公園が見えた。サッチが公園の中の砂場で立っているのが見える。サッチなら間に合ったはず。でもここから見てもサッチと蒼子の姿しか見えない。蒼子は滑り台の階段を上っている。
ふと私に、疑問がわき上がった。はたして、この不思議な現象は現実に起こっている事なのだろうか?次の瞬間、何か目の前にチカチカとするものが見えたような気がした。今のは何かしら。
メールの送り主らしき姿は見えない。心拍数がさらに早くなる。
間に合わなかったのかな…。
サッチの横にやっと並んだ私は両手をひざにおいて肩で息をしながら話しかける。
「誰かいた?」
「誰もいなかった」
誰もいなかったということは、間に合わなかったということ?ちょっとぐらい待ってくれてもいいでしょう。
これで少なくとも私たちよりこの世界について知っているであろう人物の話は聞けなくなった。もしかして一生このまま?お父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんと二度と話せないってこと?思考はぐるぐる回りだした。とたんに不安がおしよせてきて立っているのがやっとになった。
私は苦しくて地面の一点を見つめた。
ぽたり。
えっ、私はどきっとしてサッチの顔を見上げた。声を殺しているが、サッチは泣いていた。
「サッチ、メールに返信してみよう。送り主は絶対まだ近くにいるにきまっているよ。やってみようよ」
私はサッチの涙を見て逆に冷静になることができた。なんとかしなくちゃ。
手と足を使って鉄棒にぶら下がっている蒼子が視界のはしに入る。あの技は豚の丸焼きだ。出来るようになったのね。思わず泣きそうになる。
私たちの異変に気づいた蒼子は走って来て、私達に見て見てと言うと、下を向いた。一拍の沈黙の後、おもむろに顔をがばっと上げた。蒼子の得意技「変顔」が炸裂した。私とサッチは吹き出して笑うしかなかった。
そのとき、バイクの音が聞こえてきた。エンジン音がするという事はそのバイクは止まっていない。動いてる。
私はサッチを見た。サッチは手の甲で涙をぐいと拭いてから音のする方に目をやった。現れたバイクは、新聞配達やそば屋さんの出前で使うようなバイクだ。
トコトコトコとかわいらしい音を立てながらやってくる。男の人が運転している。オフロードで使うタイプのヘルメットをかぶっている。段差を乗り越えるショックを最小限にするためにスピードを殺していたが、段差を乗り越えたあとはふわふわといつまでも車体が上下する。そのバイクはずいぶんとオンボロのように見えた。
公園の中にゆっくりと入ってくる。バイクの荷台には何かの木箱が乗っている。
「サッチあの箱って紙芝居かな?」
「あの雰囲気は紙芝居だね。でも紙芝居の箱にしては少し厚みがあると思う」
たしかに紙芝居ならもう少し厚みの薄い箱が乗っているかもと思った。その男はエンジニアブーツに黒い革で出来たズボンを履いていた。上着がおじいちゃんが着ている下着のようなシャツ、そしてラクダの腹巻きを巻いている。ひもに結ばれた朱色のお守りを首から吊しているのが見えた。
「メールの送り主かな、気をつけようね」私は緊張で口の中がからからになっている。冷たい緑茶をごくごくと飲みたかった。サッチもきっとそう思っているに違いない。
さすがの蒼子も私達のそばに戻ってきて後ろに隠れた。そして首だけを伸ばしてそのバイクを見ている。
三メートルほど離れた場所でバイクは止まった。その男はバイクのスタンドを「よいしょ」と言いながら立てた。
そして荷台から黄金色に鈍く光るハンドベルを取り出した。ヘルメットの奥で光る目はまっすぐこちらを見ている。そして皮手袋をはめた手でベルを盛大に鳴らした。
「人形劇が始まるよー、はいもう少し前に来てね」
怖い。そう思った。
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