それは真夏にしては湿度の低いからっとした朝だった。
俺はカフェの扉を開けて、外の見える席に座った。車が行き交う。鉄工所で使ってもおかしくない日焼け対策の面を着けた女性が子供を後ろに乗せて自転車をこいでいる。特に変わった様子のない夏の午前中。
夏休みのバイトであろう輝く未来に満ちた笑顔のウェイトレスにコーヒーを注文する。伝票に記入する彼女の手を俺はぼんやりと見つめる。右手の爪は黄色。左手の爪は赤に塗られていた。つややかに朝の光を反射している。
「黄色と赤か……」ウェイトレスが厨房へと消えた後、一人つぶやいた。まさに今の状況だな。イエローシグナルとレッドシグナルの狭間。
コーヒーが届く。
黄色と赤の両手で差し出されたホットコーヒーを何も入れずに一気に半分ほど飲んだ後、深く長い息を漏らした。今からやること。それは開店前のパチンコに並ぶ。しかも借金を元手に勝負なのだ。
どうしてこんなざまになったのか。
今から思うとサラリーマンとして不動産を扱っている間はよかった。気ままに適当に暮らしていた。ある朝、上司が俺を昼ご飯に誘った。いやな予感がしたんだ。今まで一度もごちそうなんてしてくれたことの無いけちで有名な上司だった。外回りに一緒に出かけても飲み物は家から持参した一リットルのでかい水筒にアイスコーヒーを入れていた。水筒のふたに注がれたコーヒーを勧められたこともあったが丁寧にお断りした。お昼ご飯は当然、愛妻弁当だった。
「僕は車中で食べるから、君どっかで食べてきなよ」
「はあ……」
その上司が昼食に誘うなんて悪い事しか考えられない。
「赤井君、君、好きなもの注文してね。僕は今朝食べ過ぎたから素うどんだけどね」
俺は面倒臭いと感じながら営業の呼吸で相手の欲する返答を即座にした。
「じゃあ同じものを」
「そう」
上司は俺のオーダーを確認して安堵の息をもらした後、店のおばさんに注文を誇らしげに言った。
お手拭きで顔を盛大に拭いた後、上司は心の無いすまなそうな演技の表情を浮かべて、彼の中で準備されていたであろうせりふを口にした。
「実は君に相談があるんだ」
「はい何でしょう」心臓が痛んだ。
「我が社の業績があまりよくないのは知っているね。社長はリストラで会社を存続させようとしている。君はいくつになったんだい。
「来年三十になります」
「君は社内で一番の若手だ。退職金は上乗せする。会社の為にやめてくれ」上司はテーブルに額をすりつけるように頭を下げた。
このうどん屋に来るまでに想像していた内容とほぼ一致していた。確かに同僚は俺以外は年上か子持ちの妻帯者だ。それよりも不動産が毎日飛ぶように売れるわけでもない事は働きだして七年だがイヤと言うほど理解している。潮時かな……そう思うのにそれほど時間はかからなかった。
仕事なんて簡単に見つかる。しばらく自堕落に過ごそう。そう決めていた。しかし、退職金、失業保険、貯金。貯金が底をつくのはあっという間だった。やりたいことは無かったが背に腹は代えられない。
仕事を探し出すと、働かなかった空白の時間が面接にもこぎ着けないほどのネックとなった。何もせずに遊んでいた事がばればれなのだ。
そして俺はフリーターになった。しかも最低限の生活費ができると、無断で仕事をやめる最悪のフリーターだ。
消費者金融からの魔法のカードを使い、収入以上のお金をギャンブルにつぎ込んだ。
午前中、はやくも消費者金融の端末にカードを差し込む。五万円が出てくる。
夕方、パチンコ台にプリペイドを流し込む。これで財布の中身は残り一万円になった。どうする。ここでやめるか。銀色の玉は目の前で踊る。ルーレットは無情にも停止する。喉が乾く。玉は残りわずか。どうする。
気がつくと朝とは別の魔法のカードを握りしめ違う場所の端末の前にいた。
新たな五万円が手にあった。
蛍の光がうつろに流れる店内。
手には連続して玉を打ち出す感触があった。しかし垂直に展開する釘の刺されたガラスの中の迷路には銀色の玉は踊らない。空打ちされる音だけが俺の耳の中で響いていた。
終わった。
返せるあてのない借金がまた加算された。
終わりだ。
イヤーセットをつけた店員に押し出されるように店外へと見送られる。俺の思考はまとまらない。金をどうにか工面しないと三日後には今月の利息の支払い日がやってくる。分かり切った事だがポケットの中にに手を入れる。数百円の小銭しか手には触れなかった。
もう犯罪に手を染めるしかないかもな。そう脳がささやいた。
後ろから肩をたたかれて俺は声を上げた。振り返るとそこに頭のシルエットが大きすぎるジャージの男が立っていた。ドレッドヘヤーというのだろうか、ラスタカラーの毛糸の帽子もかぶっているので余計に頭部のシルエットが大きい。その男が口を開いた。
「どうです、一杯やりませんか」 「……」俺はその男から逃げるように一歩下がる。
「まあ、そう邪険にしなさんな。あまり持ち合わせもないんでしょう。どうです酒代くらいだしますよ」愛想笑いを浮かべてドレッドが静かにつぶやいた。
この男の胡散臭さはどうだ。そして何を考えているのか見当もつかない。
腹が減っているのは事実だ。今夜の食事代は無い。酒も飲みたい。
「何をたくらんでいる」
「何もたくらんでいませんよ。今夜、パチスロで私がバカ勝ちした。ただそれだけです。誰かと一緒に酒を飲みたい気分なだけです。どうですか」
「おごってくれるのか?」
「それぐらい屁でもありません」
「本心はありがたい。今は悪魔にでも頼りたい所なんだ」
「そうですか、その辺のお話も飲みながら話しましょう」
酒が入ると話しは弾んだ。
「もう俺の人生は詰んでるってこと」俺は完全にドレッドに心を開いていた。静かにドレッドは俺のグラスに焼酎をついだ。
ドレッドは不思議な男で職業は不明だった。
「私はほとんど働かなくても良いのには秘密があるのです。そしてあなたが望むのならそれを手に入れる事は可能です。私の見立てなら借金を返しても十分なお金も手に入ります」
俺は身を乗り出してドレッドの肩をつかんだ。
「頼む。教えてくれ。俺はもう破滅の一歩手前なんだ。何だってするよ」
ドレッドの瞳には歓喜の色が浮かんだ。そしてラスタカラーの帽子を脱ぎ、俺にかぶせた。かぶせられた瞬間、俺の体の中がはじけ出すような感触に襲われた。
「これで大丈夫です。今夜の支払いはすませておきます。楽しかったですよ。では」
ドレッドはイスからゆっくりと立ち上がり店の出口に向かっている。俺はその背中に叫んだ。
「おい、話は終わってない」
俺は立ち上がりドレッドを追いかけようとしたが、足がからまりうまく立ち上がれなかった。
「いえ、話は終わりました。期限は一年です。私の言っている意味はそのうちわかります。では」
俺は狐に化かされたような心境でしばらく呆然とした。頭に手をやると先ほどまでドレッドがかぶっていた毛糸の帽子は俺の頭にのっている。まあ、いい。奴が支払いをしているのを確認したし、今夜はただ酒を飲めただけ良しとしよう。
テーブルに置かれた酒をつぎ直し、俺は再び飲み始めた。
次の朝、自分の部屋で目が覚めた。例によってどうやって帰ったのかまったく覚えが無い。
消し忘れたテレビの占いがちょうど俺の星座のラッキーカラーはゴールドだと告げた。
水が飲みたい。
声にならないうめき声を出しながらはうように立ち上がった。自分が帽子をかぶったままなのに気づく。まだ俺は帽子をかぶったままなのか。一人苦笑いをしながら帽子に手をかける。瞬間、頭蓋骨に痛みが走る。慌てて手を引っ込める。うめき声と共に洗面台の鏡に向かう。ラスタカラーの似合わない帽子をかぶったくたびれた中年が映る。もう一度帽子を引っ張る。やはり帽子と接触する部分全体が痛む。痛みを無視して帽子をめくりあげて鏡をのぞき込む。
俺はそれを見てめまいがした。
帽子の裏側から無数のファイバー状の繊維が伸びていて、頭髪の奥の地肌に消えていた。目の前が暗くなり床に崩れ落ちた。
机がありイスに座っている自分に気づく。白紙の原稿用紙が大量にある。どれほど大量かというとその原稿用紙は辞書ほどの厚みがあった。その横には恐ろしく太い万年筆とインク瓶がある。俺は誰に命じられた
訳でもなく万年筆を手に取り原稿用紙の升目をうめる。金色に輝くペン先から藍色の濃淡を描きつつ文字があらわれる。不思議な感覚だった。自分の手であって自分の手ではないように文字があふれてくる。
生まれた瞬間の描写から文章は始まっていた。まぶしすぎて何も見えないが、両手で抱え上げられる感触があった。体を洗われて母の横に少しの間寝かされた。
記憶などあるはずは無いのだが、さも見てきたかのように書かれている。我ながら不思議だ。
不思議と言えばここははたしてどこなのだろう。窓が一つある。しかしドアは無い。手の動きは止まらないが、視線を窓の外に向ける。夜だった。遮る物のない漆黒の闇の中で星が全面に瞬いている。全面?
立ち上がって窓をのぞきこんだ。部屋を支える物は無く、宇宙に浮かんでいた。ここはどこだろう。
再び机に向かう。そんな事はささいな事のように感じられた。自身の自伝ではあるが、生やさしい密度ではなかった。人生の記録が原稿用紙に刻まれていく。
この部屋にいると一切の生理現象、を感じなかった。眠ることも必要なかった。
何日経過しただろうか。一週間?一ヶ月?もしかすると一年近くの時間が経過したかもしれない。
原稿用紙の厚みはとうとう自分の背丈を越えていた。
文章は自身の未来を書き始め、とうとう寿命を迎え終わった。
「ご苦労様でした。締め切りギリギリで原稿をいただく事が出来ました」
原稿用紙に向かう俺の頭上から声が聞こえた。ドレッドヘヤーの男が机をはさんで立っていた。
「おまえは」
「私、実はこういうものだったのです」
そっと名刺を差し出した。「週刊ノンフィクション編集ジャッジ・ドレッド」
「編集者?」
「そうです。私達の世界の一週間
はちょうど人間界の一年になります。まさに締め切りギリギリで記事にまとめることができます。うちの読者は生の人間の実話しかうけつけませんのでね。あなたの人生の一分一秒すべて書き出しました。ではそういうことですのでお疲れさまでした。すばらしい記事になりますよ。報酬は金の卵でお渡しします」ブンという音と共にドレッドが消え、俺も消えた。
洗面台の前に横たわっている自分に気づく。
テレビの占いは今日のラッキーカラーはゴールドだと告げている。頭が痛い。二日酔いだ。水を飲む為に立ち上がる。
洗面台のシンクには水が張られていた。水の中に金色に輝く金の卵があった。
俺はカフェの扉を開けて、外の見える席に座った。車が行き交う。鉄工所で使ってもおかしくない日焼け対策の面を着けた女性が子供を後ろに乗せて自転車をこいでいる。特に変わった様子のない夏の午前中。
夏休みのバイトであろう輝く未来に満ちた笑顔のウェイトレスにコーヒーを注文する。伝票に記入する彼女の手を俺はぼんやりと見つめる。右手の爪は黄色。左手の爪は赤に塗られていた。つややかに朝の光を反射している。
「黄色と赤か……」ウェイトレスが厨房へと消えた後、一人つぶやいた。まさに今の状況だな。イエローシグナルとレッドシグナルの狭間。
コーヒーが届く。
黄色と赤の両手で差し出されたホットコーヒーを何も入れずに一気に半分ほど飲んだ後、深く長い息を漏らした。今からやること。それは開店前のパチンコに並ぶ。しかも借金を元手に勝負なのだ。
どうしてこんなざまになったのか。
今から思うとサラリーマンとして不動産を扱っている間はよかった。気ままに適当に暮らしていた。ある朝、上司が俺を昼ご飯に誘った。いやな予感がしたんだ。今まで一度もごちそうなんてしてくれたことの無いけちで有名な上司だった。外回りに一緒に出かけても飲み物は家から持参した一リットルのでかい水筒にアイスコーヒーを入れていた。水筒のふたに注がれたコーヒーを勧められたこともあったが丁寧にお断りした。お昼ご飯は当然、愛妻弁当だった。
「僕は車中で食べるから、君どっかで食べてきなよ」
「はあ……」
その上司が昼食に誘うなんて悪い事しか考えられない。
「赤井君、君、好きなもの注文してね。僕は今朝食べ過ぎたから素うどんだけどね」
俺は面倒臭いと感じながら営業の呼吸で相手の欲する返答を即座にした。
「じゃあ同じものを」
「そう」
上司は俺のオーダーを確認して安堵の息をもらした後、店のおばさんに注文を誇らしげに言った。
お手拭きで顔を盛大に拭いた後、上司は心の無いすまなそうな演技の表情を浮かべて、彼の中で準備されていたであろうせりふを口にした。
「実は君に相談があるんだ」
「はい何でしょう」心臓が痛んだ。
「我が社の業績があまりよくないのは知っているね。社長はリストラで会社を存続させようとしている。君はいくつになったんだい。
「来年三十になります」
「君は社内で一番の若手だ。退職金は上乗せする。会社の為にやめてくれ」上司はテーブルに額をすりつけるように頭を下げた。
このうどん屋に来るまでに想像していた内容とほぼ一致していた。確かに同僚は俺以外は年上か子持ちの妻帯者だ。それよりも不動産が毎日飛ぶように売れるわけでもない事は働きだして七年だがイヤと言うほど理解している。潮時かな……そう思うのにそれほど時間はかからなかった。
仕事なんて簡単に見つかる。しばらく自堕落に過ごそう。そう決めていた。しかし、退職金、失業保険、貯金。貯金が底をつくのはあっという間だった。やりたいことは無かったが背に腹は代えられない。
仕事を探し出すと、働かなかった空白の時間が面接にもこぎ着けないほどのネックとなった。何もせずに遊んでいた事がばればれなのだ。
そして俺はフリーターになった。しかも最低限の生活費ができると、無断で仕事をやめる最悪のフリーターだ。
消費者金融からの魔法のカードを使い、収入以上のお金をギャンブルにつぎ込んだ。
午前中、はやくも消費者金融の端末にカードを差し込む。五万円が出てくる。
夕方、パチンコ台にプリペイドを流し込む。これで財布の中身は残り一万円になった。どうする。ここでやめるか。銀色の玉は目の前で踊る。ルーレットは無情にも停止する。喉が乾く。玉は残りわずか。どうする。
気がつくと朝とは別の魔法のカードを握りしめ違う場所の端末の前にいた。
新たな五万円が手にあった。
蛍の光がうつろに流れる店内。
手には連続して玉を打ち出す感触があった。しかし垂直に展開する釘の刺されたガラスの中の迷路には銀色の玉は踊らない。空打ちされる音だけが俺の耳の中で響いていた。
終わった。
返せるあてのない借金がまた加算された。
終わりだ。
イヤーセットをつけた店員に押し出されるように店外へと見送られる。俺の思考はまとまらない。金をどうにか工面しないと三日後には今月の利息の支払い日がやってくる。分かり切った事だがポケットの中にに手を入れる。数百円の小銭しか手には触れなかった。
もう犯罪に手を染めるしかないかもな。そう脳がささやいた。
後ろから肩をたたかれて俺は声を上げた。振り返るとそこに頭のシルエットが大きすぎるジャージの男が立っていた。ドレッドヘヤーというのだろうか、ラスタカラーの毛糸の帽子もかぶっているので余計に頭部のシルエットが大きい。その男が口を開いた。
「どうです、一杯やりませんか」 「……」俺はその男から逃げるように一歩下がる。
「まあ、そう邪険にしなさんな。あまり持ち合わせもないんでしょう。どうです酒代くらいだしますよ」愛想笑いを浮かべてドレッドが静かにつぶやいた。
この男の胡散臭さはどうだ。そして何を考えているのか見当もつかない。
腹が減っているのは事実だ。今夜の食事代は無い。酒も飲みたい。
「何をたくらんでいる」
「何もたくらんでいませんよ。今夜、パチスロで私がバカ勝ちした。ただそれだけです。誰かと一緒に酒を飲みたい気分なだけです。どうですか」
「おごってくれるのか?」
「それぐらい屁でもありません」
「本心はありがたい。今は悪魔にでも頼りたい所なんだ」
「そうですか、その辺のお話も飲みながら話しましょう」
酒が入ると話しは弾んだ。
「もう俺の人生は詰んでるってこと」俺は完全にドレッドに心を開いていた。静かにドレッドは俺のグラスに焼酎をついだ。
ドレッドは不思議な男で職業は不明だった。
「私はほとんど働かなくても良いのには秘密があるのです。そしてあなたが望むのならそれを手に入れる事は可能です。私の見立てなら借金を返しても十分なお金も手に入ります」
俺は身を乗り出してドレッドの肩をつかんだ。
「頼む。教えてくれ。俺はもう破滅の一歩手前なんだ。何だってするよ」
ドレッドの瞳には歓喜の色が浮かんだ。そしてラスタカラーの帽子を脱ぎ、俺にかぶせた。かぶせられた瞬間、俺の体の中がはじけ出すような感触に襲われた。
「これで大丈夫です。今夜の支払いはすませておきます。楽しかったですよ。では」
ドレッドはイスからゆっくりと立ち上がり店の出口に向かっている。俺はその背中に叫んだ。
「おい、話は終わってない」
俺は立ち上がりドレッドを追いかけようとしたが、足がからまりうまく立ち上がれなかった。
「いえ、話は終わりました。期限は一年です。私の言っている意味はそのうちわかります。では」
俺は狐に化かされたような心境でしばらく呆然とした。頭に手をやると先ほどまでドレッドがかぶっていた毛糸の帽子は俺の頭にのっている。まあ、いい。奴が支払いをしているのを確認したし、今夜はただ酒を飲めただけ良しとしよう。
テーブルに置かれた酒をつぎ直し、俺は再び飲み始めた。
次の朝、自分の部屋で目が覚めた。例によってどうやって帰ったのかまったく覚えが無い。
消し忘れたテレビの占いがちょうど俺の星座のラッキーカラーはゴールドだと告げた。
水が飲みたい。
声にならないうめき声を出しながらはうように立ち上がった。自分が帽子をかぶったままなのに気づく。まだ俺は帽子をかぶったままなのか。一人苦笑いをしながら帽子に手をかける。瞬間、頭蓋骨に痛みが走る。慌てて手を引っ込める。うめき声と共に洗面台の鏡に向かう。ラスタカラーの似合わない帽子をかぶったくたびれた中年が映る。もう一度帽子を引っ張る。やはり帽子と接触する部分全体が痛む。痛みを無視して帽子をめくりあげて鏡をのぞき込む。
俺はそれを見てめまいがした。
帽子の裏側から無数のファイバー状の繊維が伸びていて、頭髪の奥の地肌に消えていた。目の前が暗くなり床に崩れ落ちた。
机がありイスに座っている自分に気づく。白紙の原稿用紙が大量にある。どれほど大量かというとその原稿用紙は辞書ほどの厚みがあった。その横には恐ろしく太い万年筆とインク瓶がある。俺は誰に命じられた
訳でもなく万年筆を手に取り原稿用紙の升目をうめる。金色に輝くペン先から藍色の濃淡を描きつつ文字があらわれる。不思議な感覚だった。自分の手であって自分の手ではないように文字があふれてくる。
生まれた瞬間の描写から文章は始まっていた。まぶしすぎて何も見えないが、両手で抱え上げられる感触があった。体を洗われて母の横に少しの間寝かされた。
記憶などあるはずは無いのだが、さも見てきたかのように書かれている。我ながら不思議だ。
不思議と言えばここははたしてどこなのだろう。窓が一つある。しかしドアは無い。手の動きは止まらないが、視線を窓の外に向ける。夜だった。遮る物のない漆黒の闇の中で星が全面に瞬いている。全面?
立ち上がって窓をのぞきこんだ。部屋を支える物は無く、宇宙に浮かんでいた。ここはどこだろう。
再び机に向かう。そんな事はささいな事のように感じられた。自身の自伝ではあるが、生やさしい密度ではなかった。人生の記録が原稿用紙に刻まれていく。
この部屋にいると一切の生理現象、を感じなかった。眠ることも必要なかった。
何日経過しただろうか。一週間?一ヶ月?もしかすると一年近くの時間が経過したかもしれない。
原稿用紙の厚みはとうとう自分の背丈を越えていた。
文章は自身の未来を書き始め、とうとう寿命を迎え終わった。
「ご苦労様でした。締め切りギリギリで原稿をいただく事が出来ました」
原稿用紙に向かう俺の頭上から声が聞こえた。ドレッドヘヤーの男が机をはさんで立っていた。
「おまえは」
「私、実はこういうものだったのです」
そっと名刺を差し出した。「週刊ノンフィクション編集ジャッジ・ドレッド」
「編集者?」
「そうです。私達の世界の一週間
はちょうど人間界の一年になります。まさに締め切りギリギリで記事にまとめることができます。うちの読者は生の人間の実話しかうけつけませんのでね。あなたの人生の一分一秒すべて書き出しました。ではそういうことですのでお疲れさまでした。すばらしい記事になりますよ。報酬は金の卵でお渡しします」ブンという音と共にドレッドが消え、俺も消えた。
洗面台の前に横たわっている自分に気づく。
テレビの占いは今日のラッキーカラーはゴールドだと告げている。頭が痛い。二日酔いだ。水を飲む為に立ち上がる。
洗面台のシンクには水が張られていた。水の中に金色に輝く金の卵があった。