諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

65 ファーブルのその後

2020年02月08日 | エッセイ
箱根旧街道 芦ノ湖から箱根峠に上がる

 今朝もフランスの農夫たちがなだらかな丘陵の向こう側の農場へ向かっていく。
農具を担いぎ、取りとめもない会話をしている。

 すると、途中の草むらに人影がある。背中を丸めて草むらをのぞき込んでいる。動かない。
「ああ、またあの人か」
と農夫たちはこの人に慣れている。

 夕方、仕事を終えた農夫たちが同じ道を戻ってくると、その人はまだ同じ姿勢ままそこにいて背中だけ見える。
これが昆虫記の作者 ファーブルである。

 昆虫記を読むと、昆虫を至近距離で長時間、長期に渡って観察しないと分かりえない克明で迫真的な内容である。
彼の「背中」の意味もよく理解できる。
ほとんど意識されていない昆虫の生態を見て、誰も知らない世界があることを記述せずにはいられなかったことだろう。
だから私たちは彼の視線でその場にいるように読書しなら、だんだん昆虫と彼自身の気持ちに近づいていく。

 一方、この観察者は、かならずしもアカデミックには評価されていない。

 「彼が見ていないこと、想像したことをも、実際に見たかのように思える書き方をしている場合があることである。このような点で、科学者としてのファーブルを支持しない向きもある」(ウイキペディア)
ノーベル賞候補から外れた。

 これについて、ファーブルは、
 「私はこの目で昆虫を見ているんだからね。反対する人は自分で観察してみればいいのだ。きっと私と同じ結果が得られることだろう」
と一蹴する。
見るのは人なのであって、立証的な事実の積み上げではないと言っているかのようである。
 
 後年、彼のこの記述が日本の図書館にならび、多くの読者を得た。
たぶん、ファーブルというフランス人に100年の時を経て好感をもつ人は多いだろう。
そして彼の記述を通じて昆虫の世界の豊かさ不思議さを知った人も多いはずだ。

 個人としてまっすぐに見て、記述し伝えることが普遍性をもった。

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