久しぶりのテント泊 八ケ岳 山麓の森 これが八ケ岳の魅力の1つです。
「予測不可能な未来社会」とは、つながりすぎたグローバル社会がどうなっていくのか、と重なるだろう。
今回は、そのグローバル社会の未来像をほぼ引用のみで考えたい。
ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』河出書房
とは、えらくセンセーショナルな本だが、『サピエンス全史』、『ホモ・デウス』で、巨視的な人類史とその後の未来像を描いてきた歴史家のハラリさんが、この2冊をふまえて出した、現代へメッセージの本である。
そして、21章のレッスンの一つに「教育-変化だけが唯一の不変」という章がある。
今回は、ここから「風のみなもと」をさぐる。長い引用をはじめます。
人類は前代未聞の革命に直面しており、私たちの昔ながらの物語は皆崩れかけ、その代わりとなる新しい物語は、今のところ1つも現れていない。このような空前絶後の変化と根源的な不確実性を伴う世界に対して、私たちはどう備え、次の世代にはどんな準備をさせておけるのか?今日生まれた赤ん坊は、2050年には30代に入っている。万事が順調にいけば、その子供は2100年にも生きていて、2022世紀に入ってもはつらつと暮らしているかもしれない。2050年あるいは22世紀の世界で生き延び、活躍するのに役立ててもらうためには、子供に何を教えるべきなのか?その子は、仕事を得たり、周りで起こっていることを理解したり、人生の迷路をうまく通り抜けていったりするためには、どんな技能を必要とするのか?
あいにく、2100年は言うまでもなく、2050年の世界がどうなっているのかは誰にもわからないので、このような疑問の答えを私たちは知らない。もちろん、これまでも人間は未来を正確に予想することができなかった。だが今日、未来の予想かつてないほど難しくなっている。なぜなら、テクノロジーのおかげで一旦体と脳と心を作り替えられるようになってしまえば、もう何一つ確かに思えるものがなくなるからで、それには、これまで不変で永遠のように見えていたものも含まれる。
(大量の情報の断片を結び付けて、世の中の状況を幅広く捉える能力など)はこれまで何世紀にもわたって西洋の自由主義教育の理想だったが、今に至るまで、西洋の多くの学校でさえその実現を怠ってきた。教師は生徒の頭にデータを詰め込んでおいて、「自分で考えるように」生徒を促すばかりで良しとしてきた。自由主義の学校は、権威主義に陥るのを恐れていたので、単一の価値観に基づく包括的な「大きな物語」を特別に恐ろしがっていたので、教師たちは、生徒に多くのデータと少しばかりの自由を与えておきさえすれば、生徒は自分なりの世界観を作り出すだろうし、たとえこの世代が、すべてのデータを総合して、この世界についての首尾一貫した有意義な物語に仕立てあげられられなかったとしても、将来、真っ当な総合的物語を構築する時間はたっぷりあるだろうと思い込んでいた。ところが今や、私たちはその時間を使い果たしてしまった。
それでは、私たちは何を教えるべきなのか?多くの教育の専門家は、学校が方針を転換し、「4つのC」、すなわち「critical thinking(批判的思考)」「communication (コミニケーション)」
「collaboration(協働)」「creativity(創造性)」を教えるべきだと主張している。より一般的に言うと、学校は専門的な技能に重点おかず、汎用性のある生活の中するべきだと言う。中でも最も重要なのは、変化に対応し新しいことを学び、なじみのない状況下でも心の安定を保つ能力になるだろう。2050年の世界についていくためには、新しいアイディアや製品を考え作るだけでなく、何よりも自分自身を何度となく徹底的に作り直す必要がある。
人生の基本構造は一変し、不連続性がその最も目立つ特徴となるだろう。太古から、人生は補完し合う2つの部分に分割されていた。まず学習の時期がありそれに労働の時期が続いた。
だが21世紀の半ばには加速する変化に寿命の伸びが重なりこの従来のモデルは時代後れになる。人生はばらばらになり人生の各時期の間の連続性が次第に弱まる。「私は何者なのか?」という疑問は、かつてないほど切迫した、ややこしいものとなる。
産業革命が私たちに起こしたのが、教育の生産ライン理論だ。町の真ん中に大きなコンクリートの建物があり、中には全く同じ造りの部屋が並び、それぞれ机と椅子が何列も置かれている。ベルが鳴ると各部屋30人かそこらの、同じ年に生まれた子供たちが入っていく。毎時間、誰かしら大人が入って来て、話し始める。大人たちはみな、政府からお金をもらっていてそうしている。地球の形について語る人もあれば、人間の過去について語る人や、人体について語る人もいる。このモデルを笑うのは簡単だしそれが過去にどれだけの実績を上げたとしても、今や破綻していると言うことで、ほとんどの人が一致している一致する。だが私たちは今のところ、実用的な代案を見出せずにいる。
哲学も宗教も科学も揃って時間切れになりつつある。人は何千年にわたって人生の意味を論じてきたが、この議論を果てしなく続けるわけにはいかない。迫りくる生態系の危機や、増大する大量破壊兵器の脅威、台頭する破壊的技術がそれを許さないだろう。そしてそれが最も重要かもしれないが、生命を設計し直し、作り変える力を、AIとバイオテクノロジーが人間に与えつつある。程なく誰かが、この力をどう使うか決めざるをえなくなる-生命の意味についての、何らかの暗黙の、あるいは明白な物語に基づいて。哲学と言う恐ろしく辛抱強いものだが、それに比べると技術者がずっと気が短く、投資家はいちばん性急だ。もしあなたが、生命を設計する力をどう使うべきかわからなかったとしても、答えを思いつくまで、市場の需要と供給の原理は1000年も待っていてはくれない。
そして、最後は、『サピエンス全史』(あとがき-神になった人間)からの引用である。
人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進化してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいのかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのしあがった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に合わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでも決して満足できずにいる。自分が何を望んでいるのかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?
私たちにはこういう面があることは、どうやらすべての議論の根本になるようだ。
この本を紹介して下さった読書会のみなさんありがとうございました。
「予測不可能な未来社会」とは、つながりすぎたグローバル社会がどうなっていくのか、と重なるだろう。
今回は、そのグローバル社会の未来像をほぼ引用のみで考えたい。
ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』河出書房
とは、えらくセンセーショナルな本だが、『サピエンス全史』、『ホモ・デウス』で、巨視的な人類史とその後の未来像を描いてきた歴史家のハラリさんが、この2冊をふまえて出した、現代へメッセージの本である。
そして、21章のレッスンの一つに「教育-変化だけが唯一の不変」という章がある。
今回は、ここから「風のみなもと」をさぐる。長い引用をはじめます。
人類は前代未聞の革命に直面しており、私たちの昔ながらの物語は皆崩れかけ、その代わりとなる新しい物語は、今のところ1つも現れていない。このような空前絶後の変化と根源的な不確実性を伴う世界に対して、私たちはどう備え、次の世代にはどんな準備をさせておけるのか?今日生まれた赤ん坊は、2050年には30代に入っている。万事が順調にいけば、その子供は2100年にも生きていて、2022世紀に入ってもはつらつと暮らしているかもしれない。2050年あるいは22世紀の世界で生き延び、活躍するのに役立ててもらうためには、子供に何を教えるべきなのか?その子は、仕事を得たり、周りで起こっていることを理解したり、人生の迷路をうまく通り抜けていったりするためには、どんな技能を必要とするのか?
あいにく、2100年は言うまでもなく、2050年の世界がどうなっているのかは誰にもわからないので、このような疑問の答えを私たちは知らない。もちろん、これまでも人間は未来を正確に予想することができなかった。だが今日、未来の予想かつてないほど難しくなっている。なぜなら、テクノロジーのおかげで一旦体と脳と心を作り替えられるようになってしまえば、もう何一つ確かに思えるものがなくなるからで、それには、これまで不変で永遠のように見えていたものも含まれる。
(大量の情報の断片を結び付けて、世の中の状況を幅広く捉える能力など)はこれまで何世紀にもわたって西洋の自由主義教育の理想だったが、今に至るまで、西洋の多くの学校でさえその実現を怠ってきた。教師は生徒の頭にデータを詰め込んでおいて、「自分で考えるように」生徒を促すばかりで良しとしてきた。自由主義の学校は、権威主義に陥るのを恐れていたので、単一の価値観に基づく包括的な「大きな物語」を特別に恐ろしがっていたので、教師たちは、生徒に多くのデータと少しばかりの自由を与えておきさえすれば、生徒は自分なりの世界観を作り出すだろうし、たとえこの世代が、すべてのデータを総合して、この世界についての首尾一貫した有意義な物語に仕立てあげられられなかったとしても、将来、真っ当な総合的物語を構築する時間はたっぷりあるだろうと思い込んでいた。ところが今や、私たちはその時間を使い果たしてしまった。
それでは、私たちは何を教えるべきなのか?多くの教育の専門家は、学校が方針を転換し、「4つのC」、すなわち「critical thinking(批判的思考)」「communication (コミニケーション)」
「collaboration(協働)」「creativity(創造性)」を教えるべきだと主張している。より一般的に言うと、学校は専門的な技能に重点おかず、汎用性のある生活の中するべきだと言う。中でも最も重要なのは、変化に対応し新しいことを学び、なじみのない状況下でも心の安定を保つ能力になるだろう。2050年の世界についていくためには、新しいアイディアや製品を考え作るだけでなく、何よりも自分自身を何度となく徹底的に作り直す必要がある。
人生の基本構造は一変し、不連続性がその最も目立つ特徴となるだろう。太古から、人生は補完し合う2つの部分に分割されていた。まず学習の時期がありそれに労働の時期が続いた。
だが21世紀の半ばには加速する変化に寿命の伸びが重なりこの従来のモデルは時代後れになる。人生はばらばらになり人生の各時期の間の連続性が次第に弱まる。「私は何者なのか?」という疑問は、かつてないほど切迫した、ややこしいものとなる。
産業革命が私たちに起こしたのが、教育の生産ライン理論だ。町の真ん中に大きなコンクリートの建物があり、中には全く同じ造りの部屋が並び、それぞれ机と椅子が何列も置かれている。ベルが鳴ると各部屋30人かそこらの、同じ年に生まれた子供たちが入っていく。毎時間、誰かしら大人が入って来て、話し始める。大人たちはみな、政府からお金をもらっていてそうしている。地球の形について語る人もあれば、人間の過去について語る人や、人体について語る人もいる。このモデルを笑うのは簡単だしそれが過去にどれだけの実績を上げたとしても、今や破綻していると言うことで、ほとんどの人が一致している一致する。だが私たちは今のところ、実用的な代案を見出せずにいる。
哲学も宗教も科学も揃って時間切れになりつつある。人は何千年にわたって人生の意味を論じてきたが、この議論を果てしなく続けるわけにはいかない。迫りくる生態系の危機や、増大する大量破壊兵器の脅威、台頭する破壊的技術がそれを許さないだろう。そしてそれが最も重要かもしれないが、生命を設計し直し、作り変える力を、AIとバイオテクノロジーが人間に与えつつある。程なく誰かが、この力をどう使うか決めざるをえなくなる-生命の意味についての、何らかの暗黙の、あるいは明白な物語に基づいて。哲学と言う恐ろしく辛抱強いものだが、それに比べると技術者がずっと気が短く、投資家はいちばん性急だ。もしあなたが、生命を設計する力をどう使うべきかわからなかったとしても、答えを思いつくまで、市場の需要と供給の原理は1000年も待っていてはくれない。
そして、最後は、『サピエンス全史』(あとがき-神になった人間)からの引用である。
人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進化してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいのかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのしあがった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に合わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでも決して満足できずにいる。自分が何を望んでいるのかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?
私たちにはこういう面があることは、どうやらすべての議論の根本になるようだ。
この本を紹介して下さった読書会のみなさんありがとうございました。