日本が大反対していたにも拘らず、ユネスコは中国の申請していた「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録してしまった。日本が申請していた「シベリア抑留」に関する文書は50万人に上る抑留者の過酷な環境下での強制労働、それによる死者(事故死の他に大多数の栄養失調に依る病死)を出しているのに、「ユネスコを政治的に利用するものではない」との理由で却下された。それなら、中国の申請はどうなのだと云いたい。
サラリーマンになりたての頃、中国への従軍経験のある大先輩に南京事件の事を聞いた事があった。「お前さん、俺たちは一人に銃弾を5発しか渡されていなかったんだ。2万の兵で、どうやれば30万人も殺せるんだ?」と仰った。「日本刀で切ったのでは?」「バカ、日本刀なんて将校しか持っていない。ごぼう剣(小銃の先に刺す銃剣の俗称、野菜のごぼうに似ていたのでそのように云われた)で無抵抗の人間を刺せる程の度胸のある奴は俺の周りには居なかった」。これで話は終り、中国の云っていることは「白髪三千丈」の類であろうと、そのまま忘れていた。
「南京大虐殺文書」の登録のニュースを耳にし、気になって調べてみた。以下にその一部を記したい。激しい戦闘を勝ち抜いた日本兵が南京に入って行くと、中国の敗残兵が多くの親日派の中国人を殺し、同胞の民家に押し入り、食料と金目のものを強奪し、強姦し、殺人まで犯して逃げて行った。また日本の部隊別の公文書によると、「処断」の項目に交じり「釈放」と「収容」の項目が多く混じっていた。この、「処断」の項目の数字を全て足しても2万に満たなかった。処刑したのは大多数が便衣兵(民間人に偽装して敵対行為をする兵)であるが、軍服を着ていない軍人は国際法違反であり、裁判にかけられて全て処刑されている。
以前にユネスコ事務局長をしていらした松浦氏によると「南京大虐殺文書」のように政治的な狙いを持ち、日中の意見が並行していても、ユネスコにはそれを公正に吟味するメカニズムがないそうだ。何とか日本が食い止めないと中国ばかりか韓国までが慰安婦の問題を出してくると警告なさっている。彼等は何年も前から陰湿に準備を進めてきたのである。
日本国内では、ユネスコは国連と同様に公明正大な組織であると認識してきた。だが、実際のユネスコは各国のエゴがぶつかり合う場であると聞いた。日本政府の調査不足と外交の手ぬるさがこのような事態を引き起こしたのであろう。
シカゴデイリー・ニュースやニューヨーク・タイムスは中国から多額の献金(賄賂?)を受けて「南京大虐殺事件」を報じたことがあったようだ。而し、ニューヨーク・タイムスのティルマン・ダーディン通信員は、「文藝春秋」(1989年10月号)のインタビュー記事に於いて以下のように語った。「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした」。とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」と、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。また南京の「安全地区」には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。またニューヨーク・タイムスは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した。
ユネスコへの拠出金はアメリカが第一位で22%、日本が第二位で20%弱(約84億円)である。アメリカはパレスチナのユネスコ加盟に反対して拠出金を停止してしまっている。日本が拠出金を停止するとユネスコを恫喝していると云うが、日本の意見も聞かずに一方的に「南京大虐殺文書」を正確に調査もしないで登録してしまうようなところに一円たりとも拠出したくない、と私も思う。何も云わずに支払いを停めてしまえばいいのだ。
先週に続いてお台場の夜景である。私が撮影地点にしているビルの6階には三脚を立てても全く他の人に迷惑がかからないほどの広さがある。だが、背後からビルの光が強く届くので、シャッターを切っている間にファインダーから光が入らないようにファインダーを覆う必要があった。
以下の写真は10月12日(月)に撮ったものである。前日の日曜日には28羽もいたカルガモが19羽になっていた。暫く観察していたが、印象として最初からいた一家の9羽がいなくなっていたようだ。母ガモが8羽の子ガモを引き連れて他に移動してしまったのだ。羽を痛めていた子ガモも癒えたので一緒に移動出来たのであろう。カルガモの顔は皆同じ、羽の色も同じ、全く区別のつけようがない。肝っ玉母さんの一家は、統率が取れていた。子ガモ同士で争うこともなく、常に固まっていた。
この写真でお分かりのように、餌の取り合いで喧嘩になる。肝っ玉母さんの一家は決してこのようにならなかった。今は全く統率がとれていない。それで、あの一家が他の池に飛び立ってしまったのであろうと想像した。写真を撮っていて高揚感がなく、餌を与える楽しもなくなった。
こいつだけは人間の餌に目もくれず。飽きることなく池の底の水草を食っていた。
サラリーマンになりたての頃、中国への従軍経験のある大先輩に南京事件の事を聞いた事があった。「お前さん、俺たちは一人に銃弾を5発しか渡されていなかったんだ。2万の兵で、どうやれば30万人も殺せるんだ?」と仰った。「日本刀で切ったのでは?」「バカ、日本刀なんて将校しか持っていない。ごぼう剣(小銃の先に刺す銃剣の俗称、野菜のごぼうに似ていたのでそのように云われた)で無抵抗の人間を刺せる程の度胸のある奴は俺の周りには居なかった」。これで話は終り、中国の云っていることは「白髪三千丈」の類であろうと、そのまま忘れていた。
「南京大虐殺文書」の登録のニュースを耳にし、気になって調べてみた。以下にその一部を記したい。激しい戦闘を勝ち抜いた日本兵が南京に入って行くと、中国の敗残兵が多くの親日派の中国人を殺し、同胞の民家に押し入り、食料と金目のものを強奪し、強姦し、殺人まで犯して逃げて行った。また日本の部隊別の公文書によると、「処断」の項目に交じり「釈放」と「収容」の項目が多く混じっていた。この、「処断」の項目の数字を全て足しても2万に満たなかった。処刑したのは大多数が便衣兵(民間人に偽装して敵対行為をする兵)であるが、軍服を着ていない軍人は国際法違反であり、裁判にかけられて全て処刑されている。
以前にユネスコ事務局長をしていらした松浦氏によると「南京大虐殺文書」のように政治的な狙いを持ち、日中の意見が並行していても、ユネスコにはそれを公正に吟味するメカニズムがないそうだ。何とか日本が食い止めないと中国ばかりか韓国までが慰安婦の問題を出してくると警告なさっている。彼等は何年も前から陰湿に準備を進めてきたのである。
日本国内では、ユネスコは国連と同様に公明正大な組織であると認識してきた。だが、実際のユネスコは各国のエゴがぶつかり合う場であると聞いた。日本政府の調査不足と外交の手ぬるさがこのような事態を引き起こしたのであろう。
シカゴデイリー・ニュースやニューヨーク・タイムスは中国から多額の献金(賄賂?)を受けて「南京大虐殺事件」を報じたことがあったようだ。而し、ニューヨーク・タイムスのティルマン・ダーディン通信員は、「文藝春秋」(1989年10月号)のインタビュー記事に於いて以下のように語った。「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした」。とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」と、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。また南京の「安全地区」には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。またニューヨーク・タイムスは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した。
ユネスコへの拠出金はアメリカが第一位で22%、日本が第二位で20%弱(約84億円)である。アメリカはパレスチナのユネスコ加盟に反対して拠出金を停止してしまっている。日本が拠出金を停止するとユネスコを恫喝していると云うが、日本の意見も聞かずに一方的に「南京大虐殺文書」を正確に調査もしないで登録してしまうようなところに一円たりとも拠出したくない、と私も思う。何も云わずに支払いを停めてしまえばいいのだ。
先週に続いてお台場の夜景である。私が撮影地点にしているビルの6階には三脚を立てても全く他の人に迷惑がかからないほどの広さがある。だが、背後からビルの光が強く届くので、シャッターを切っている間にファインダーから光が入らないようにファインダーを覆う必要があった。
以下の写真は10月12日(月)に撮ったものである。前日の日曜日には28羽もいたカルガモが19羽になっていた。暫く観察していたが、印象として最初からいた一家の9羽がいなくなっていたようだ。母ガモが8羽の子ガモを引き連れて他に移動してしまったのだ。羽を痛めていた子ガモも癒えたので一緒に移動出来たのであろう。カルガモの顔は皆同じ、羽の色も同じ、全く区別のつけようがない。肝っ玉母さんの一家は、統率が取れていた。子ガモ同士で争うこともなく、常に固まっていた。
この写真でお分かりのように、餌の取り合いで喧嘩になる。肝っ玉母さんの一家は決してこのようにならなかった。今は全く統率がとれていない。それで、あの一家が他の池に飛び立ってしまったのであろうと想像した。写真を撮っていて高揚感がなく、餌を与える楽しもなくなった。
こいつだけは人間の餌に目もくれず。飽きることなく池の底の水草を食っていた。