つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

前向きな変革

2012-08-15 13:40:33 | 日記
お盆だからと、お盆でなくてもしょっちゅう実家に帰る私は、また帰った。
新幹線は思ったほど混雑もしていなくて、降り立った地元の駅はいつものようにぱらぱらと人がいた。

ひと月半ほど前に生まれた姪を中心に、家は回っていた。
いもうとが授乳をしているのを見るのは不思議な気分で、新しい人間がここにいて、息づいていることもまた不思議でならなかった。

おっぱいに吸い付くその子はなんとも幸せで安心しきった顔をしている。
おっぱいに吸い付いたままあったかいことに気が抜けて、おかあさんの胸の中で夢うつつ。
よかったね、今しあわせなんだね。

いもうとが口にしたものをおっぱいとしてもらうことでこの子は生かされていて、ここにいることの疑いをただの少しも持っていない。
純粋無垢、とは、無知であり無邪気であり、その透明で青みがかった白目がそれを象徴的に表している。
その青さは、私の邪気みたいなところにすっと沁みてくる。

存在とは承認されるべきで、誰かにあからさまに大事にされることで自分の基盤を形成する。
それは過剰なくらいのあからさまでいい。
あからさまに愛してもらったらいい。

この子の人生はもう封を切られて、今は手足をばたばたとさせるだけで10cmと自分で移動をできない彼女は、じきに色んなことができるようになって自我を持つようになる。
赤ちゃんや子どもは、色んなことが自分の意志でできないという意味で、大人から見ると不自由だ。
その流れで、最近の私を虜にしているロックな音楽のことをふと考えると、びっくりするほど柔らかな赤ちゃんとロックは結びつかなくて、できれば聞かせたくないとさえ思う。
もしそれが必要なときには、自らほんの少し手を伸ばしてさえいれば出会えるから、それまでは知らなくていいんだよと。

ひと月半で丸々と太った姪を腕に抱くと、まだ私につかまることもできないから全体重を預けてくる。
ずっしりと重たいのにふわふわで、さっきまで眉間にしわを寄せて顔を“X”みたいにしてぐずっていたのに、ご機嫌そうな顔で私の顔を見ている。
いもうとと私の声は、電話で聞いたらわからないくらい似ているから、おかあさんと間違えている感じもする。

次に会うときには、彼女はもっと成長とともに動ける自由を手に入れて世界を広げているだろう。

それはそうと、姪がいようともいつものように一泊で東京に戻る。
私の体にはロックが必要で、新幹線の中でThe Strokesを聴きながらどんな花を買おうかと考える。
そして、またブルーハーツのDVDをかけながら、買った花の写真を撮る私の日常の楽しい部分。

DVDは3枚買って、繰り返しくりかえし、VHSだったら擦り切れてしまうくらい観ている。
ちょっとした一コマを何度も巻き戻してみたりもする。
よく飽きないね、と自分で言ってみるものの飽きるなんてことがあるだろうかと思うほど、毎日だって夜だって朝だって観られる。
これが観たくて早く家に帰りたいくらい。
自分と直接関わる人以外で、これまでの人生で出会えてよかったと思うものはいくつかあるけれど、最も出会えてよかったと思うものだ。

アルバム「DUG OUT」はマーシーの歌が特にすごい。

愛するあの娘のため
平和を守るために
死んだらそれでさようなら
不条理に不意打ちを食らわせられたらどうする?

やるか逃げるか、どうする?