つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

AOI

2012-08-20 14:37:14 | 日記
西芳寺でお願い事を木の札に書いて、鈴虫寺でありがたいお説法を聞いて、詩仙堂で雨が止むまで枯山水を眺める。

苔寺とも呼ばれる西芳寺の庭は、汗なのか水滴なのかわからなくなるほど湿度が高くて、明るい黄緑の苔が美しくみっちりと生えていた。
ぽこぽこと小さな丘陵になっていて、小さなゴルフ上が広大にあるみたいだった。

京都は町全体が盆地特有の暑さに蒸されていて、終わりなきモッシュを思わせる。
詩仙堂で雷鳴が轟きはじめて、それまで一定の感覚で鳴っていたししおとしの音やみんみん蝉やつくつくぼうしの声は雨音に変わった。
大粒の雨は枯山水の砂の引っ掻き跡を消し、雨粒は砂を抱き込んで小さな泥団子みたいになって庭全体を濡らしていく。
濡れて鮮やかになった緑の葉っぱの影から湿った砂地に雨蛙が顔を出し、長い後ろ足を蹴りあげて目の前をジャンプして通り過ぎていく。

雨宿りを兼ねて一時間以上を畳に座って足を投げ出してうつらうつら過ごす。
こういう場所は考え事をしてしまうものだけど、不思議とそのシチュエーションと佇まいに考え事を吸いとられて、珍しくトランス状態でもないのに「無」を体感する。
私の場合、トランス状態よりも「無」の方がたぶん珍しい。
ここもロックが似つかわしくない場所だ。

ただ凪の「無」の状態とトランス状態というのは、雑念のない、という意味でその在り方は似ている。
時々このような状態に陥りたいのであって、それには何がそうさせるのかと、その状態に入れるまでの自分の成り行きを知らなければならない。

私はお寺も神様も宗教も特段興味はない。
ただ、鈴虫寺で聞いたお説法は、お笑いや落語の要素を含みそして真を突いていてやたらありがたかった。
笑顔でいること。
そして、感謝すること。

社会統制のため以外の宗教や信仰・悟りなどは全て各人の心の平穏を目指しているように思う。
そのために自分を律したり禁欲したりするのだろう。
心の平穏はそれだけになってしまったらつまらないと今の私なんかは思ってしまうものだけれど、とても重要なことである。
読経も、トランス状態へ入る一手法としての効果もあるんだろうと想像する。
一種のランナーズハイ。

放っておくと排他的を良しとしてしまいがちな自分を戒めながら、自分の内側に入り込む。

昨日のお昼もタイ料理を食べて、今日のお昼もタイ料理を食べた。
まとわりつくような柔らかな刺激は心地よい疲労感と眠気を連れてくる。