東さんと椎木さんの写真展「2012 Flowers」があった。
フジフイルムの協賛で同時に1日だけワークショップも開かれるということで、行ってみるとお花が好きな人だけではなくカメラが好きな人がたくさん集まっていた。
実際に生で東さんがオアシスに花を挿していき、椎木さんがライトの具合の細かい調整までを説明してくれる。
今や世界的に活躍する彼らのこんな姿を見るのはとても貴重なことだ。
ただ、花の茎を短く切ってもしくは手で折り要らない葉っぱをもいでオアシスに生けていくのだが、目の前で見ていると、その茎が折れるぶちっという音が耳について仕方なかった。
植物を大事にしていない、とかそんなこと言うつもりは毛頭ない。
鋏を入れることも、余分な花びらを間引くことも、彼らのアート作品を作り上げるためでありそれは必要なことだ。
「殺して生かす」「朽ちたところまで想像できるような生け花を作りたい」ということは以前東さんが言っていたことだし、そもそも殺生全般、初めから人間側の力によって成り立つものだ。
そして、肉を食べ、野菜を食べる者にどうこういう資格は一切ない。
しかし私は人が殴られる音が嫌いで、銃の連射や医療シーンは平気なのに、なぐり合う映像を見ることがとても苦手だ。
茎が鈍い音を立ててちぎれるのはそれを連想させた。
できあがった作品は、いつもの東さんの作品で私はいつものようにどきどきした。
生きること、食べること、美しいこと、残酷なこと。
定義や意味は人間が付与するもので考え出すと巡りめぐってしまうものだけど、ときに自分のやっていることを棚に上げて不意に心を突かれるときがある。
エキゾチックで怖いほどに艶々した植物たちがたくさんあって、私は携帯のカメラをたくさん向ける。
私は、花たちが息づいていて彼らが出す色を吸い込んで、ありがとうと思うことだけに徹しようとする。
家にも新しい花を迎え入れた。
艶やかでハッピー色のカーネーションと、大きな百合と、名前を忘れたドライに近い夏の花。
やっぱり生花は部屋に潤いを与えてくれる。
だからやっぱり、花たちにありがとうと思うことで私は何度でも花を買う。
生ける器によって印象はとても異なる。
人が着る服のように、髪型や色合いや質感や、しっくりくるものがそれぞれ違う。
ぴったりなものは、器も同時に映える。
透明なガラスの花器は比較的なんでも合わせやすいけれど、少し遊んでみたくなる。
カメラがほしいなあと思いつつ、あらゆる電子機器と相性の悪い私が、携帯のカメラの域を超えるカメラの機能を使いこなせるか、またそれ以上のものが撮れるのかが不安で踏み切れずにいる。
『それでも恋するバルセロナ』の2回目。
ウッディアレンの映画はこれまでにたくさん観たけれど、結構出口がないものが多いし訴えかけるものが冷徹なことも多い。
スカーレット・ヨハンソンがペネロペ・クルスに食われていたなあと前回も同じことを思った。
新しいことは貴いと感じながら、滞っているものがある。
人からそれを指摘されると、マンガの一説のように「わかってるよ」とか「私の気持ちなんてわからないでしょ」とか青いことを言いそうになる。
ただ指摘している人が言うことの方が正しいことを、冷静な私は知っているから反論はしない。
過ぎたことを手放したいと願う一方で、要らない懐古の情ばかりを携えている。
アンテナは引っ込み気味で、たぶんこういうときこそインでなくてごく単純なアウトの行動を取るべきなんだろうとは思う。
フジフイルムの協賛で同時に1日だけワークショップも開かれるということで、行ってみるとお花が好きな人だけではなくカメラが好きな人がたくさん集まっていた。
実際に生で東さんがオアシスに花を挿していき、椎木さんがライトの具合の細かい調整までを説明してくれる。
今や世界的に活躍する彼らのこんな姿を見るのはとても貴重なことだ。
ただ、花の茎を短く切ってもしくは手で折り要らない葉っぱをもいでオアシスに生けていくのだが、目の前で見ていると、その茎が折れるぶちっという音が耳について仕方なかった。
植物を大事にしていない、とかそんなこと言うつもりは毛頭ない。
鋏を入れることも、余分な花びらを間引くことも、彼らのアート作品を作り上げるためでありそれは必要なことだ。
「殺して生かす」「朽ちたところまで想像できるような生け花を作りたい」ということは以前東さんが言っていたことだし、そもそも殺生全般、初めから人間側の力によって成り立つものだ。
そして、肉を食べ、野菜を食べる者にどうこういう資格は一切ない。
しかし私は人が殴られる音が嫌いで、銃の連射や医療シーンは平気なのに、なぐり合う映像を見ることがとても苦手だ。
茎が鈍い音を立ててちぎれるのはそれを連想させた。
できあがった作品は、いつもの東さんの作品で私はいつものようにどきどきした。
生きること、食べること、美しいこと、残酷なこと。
定義や意味は人間が付与するもので考え出すと巡りめぐってしまうものだけど、ときに自分のやっていることを棚に上げて不意に心を突かれるときがある。
エキゾチックで怖いほどに艶々した植物たちがたくさんあって、私は携帯のカメラをたくさん向ける。
私は、花たちが息づいていて彼らが出す色を吸い込んで、ありがとうと思うことだけに徹しようとする。
家にも新しい花を迎え入れた。
艶やかでハッピー色のカーネーションと、大きな百合と、名前を忘れたドライに近い夏の花。
やっぱり生花は部屋に潤いを与えてくれる。
だからやっぱり、花たちにありがとうと思うことで私は何度でも花を買う。
生ける器によって印象はとても異なる。
人が着る服のように、髪型や色合いや質感や、しっくりくるものがそれぞれ違う。
ぴったりなものは、器も同時に映える。
透明なガラスの花器は比較的なんでも合わせやすいけれど、少し遊んでみたくなる。
カメラがほしいなあと思いつつ、あらゆる電子機器と相性の悪い私が、携帯のカメラの域を超えるカメラの機能を使いこなせるか、またそれ以上のものが撮れるのかが不安で踏み切れずにいる。
『それでも恋するバルセロナ』の2回目。
ウッディアレンの映画はこれまでにたくさん観たけれど、結構出口がないものが多いし訴えかけるものが冷徹なことも多い。
スカーレット・ヨハンソンがペネロペ・クルスに食われていたなあと前回も同じことを思った。
新しいことは貴いと感じながら、滞っているものがある。
人からそれを指摘されると、マンガの一説のように「わかってるよ」とか「私の気持ちなんてわからないでしょ」とか青いことを言いそうになる。
ただ指摘している人が言うことの方が正しいことを、冷静な私は知っているから反論はしない。
過ぎたことを手放したいと願う一方で、要らない懐古の情ばかりを携えている。
アンテナは引っ込み気味で、たぶんこういうときこそインでなくてごく単純なアウトの行動を取るべきなんだろうとは思う。
