1週間に1度書道の教室に通っているわけだから、その近くのツタヤで7泊8日でDVDをレンタルするのはありではないかと、そんな至極当然のことを今さら発見したように思いついて上野のツタヤに意気揚揚と向かう。
旧作はいつでも7泊8日100円だし、準新作が5枚セット7泊8日で1,000円という安さ。
Huluなどが台頭してきている今、そうでもしないとわざわざ店頭に来てまたそれを返しに来ないといけない手間を取ってもらえないのだろう。
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
「ツリーオブライフ」
「BIUTIFUL」
「マネーボール」
「モテキ」
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」以外はその場で適当に決めた。
洋画ばかりは疲れるからと、邦画ラブコメも入れてみる。
家に着いて、9月22日が祝日で書道の教室が休みだということと更には朝から予定があったことに気が付いて、平日に返しに行くのは億劫だしと、実質1日半で5本を観なければならなくなった。
やってみると意外に行けるもので、途中何度か寝ながら実際にはさらに短縮して24時間で5本を観きった。
休みの日に一日中家にいると決め込んで、5本くらい映画を観るというのもたまにはいい。
というか、なんだか少しの達成感と充実感があって、1か月に1度くらいはやりたい気分だ。
インプットすることが特に何にもならないことだって多いのだが、それでもしないよりはした方がいいように思えるし、というかそれより、心を揺さぶられたいのなら多少筋肉痛を起こすくらいに手を伸ばしていないと出会えるものにも出会えない。
「愛を読むひと」の監督スティーブン・ダルドリーの作品であることは後で知ったが、やはり5本の中では「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」が一番良かった。
9.11で父親を亡くした男の子と、その家族、またニューヨーク市に住む人々の話。
子どもは色んなことを知らないから、未知に立ち向かっていける。
でも子どもだって全くの怖いもの知らずなわけではなくて怖いものはストレスだし単純に怖い。
それに、あんなにパパが大好きで仕方のない子供がある日突然、しかも自分を責め続けてしまうような出来事を残して、失くしてしまったストレスとはどれほどのものだろう。
オスカーが振っていたタンバリンの音は、ものすごくうるさい自分の周囲をかき消すためのうるささであり自分を鼓舞するためのものでもある。
後に読んだレビューで、物語があれこれと都合良く出来過ぎているという批判が少々見られたが、映画の良さとはそういう点にも見出せるのではないかと思う。
完全なるファンタジーではなくあくまで現実社会に起こり得る内容で、でも現実にはそんなにうまくはいかないというプロット。
確かにそうかもしれないが、物語だから成せる、現実的ファンタジー感。
生と死、父と子、という点では「BIUTIFUL」も同じ内容であり、私がそんなものを積極的に観てしまうことも、案の定泣かされてしまうことも自分でしてやっていることだ。
泣かされることによって得られる安心感のようなものだって、なんだか少し卑怯なくらいに、あるのかもしれない。
しばらく実家にいた姪が予防注射を機にこちらに戻ってくるというので会いに行く。
丸々と大きくなった姪は、ますますその顔を私の2番目の兄の顔に似せてきた。
ゆすってあやすと、顔をほころばせて笑う。
まだこの世に降り立って3か月も経っていないけれど、この世にいることには慣れました、という感じがする。
人は人に大きな影響を与えるし、受ける。
人は人を変えられると思うけれど、「人が変わる」ということは、多岐さまざまな要因があろうが、自分の子どもによってのケースが最も多いのではないかという気さえする。
ここで言う「人が変わる」というのは、それまでの核を成していた人格が大きく変わる、細胞が入れ替わったように改心する、といった割と大げさな部類の変化だ。
もちろん、生涯を通してこのような人格再構築、みたいなことを経験しない人が多いことを前提に。
加えて、人格再構築、みたいなことの経験の有無は一概に良し悪しと言えないことも前提に。
大人が大人によって変わるとき、それは変わる側の人間の意志なくしてはあり得ない。
しかしながら、赤ちゃんや子供の無垢で明確な言葉を持たない存在によっての変化は大人が及ぼすそれよりももう少し優しくて全身に染み渡るようなものなのだと思う。
私のお腹の上で、顔をすりすりとして手足をばたばたさせる。
いもうとと私の声はとても似ているから、私をお母さんと勘違いしているかのように、安心と不思議の顔を交互にする。
1か月前と同じように、私のおっぱいに吸い付こうと口をぱくぱくさせる。
けいこはちびまる子ちゃんの踊るポンぽコリンやらサザエサンの歌やら、オーバーザレインボーのオルゴールに自作の「ピンクの豚のうた」やらを歌って初孫をあやしている。
子どもを産むことが偉い、なんて言われると私はまた卑屈になってしまいそうだけど、確実に赤ちゃんは私たち家族を柔和させた。
まだ私の心の中に蟠りみたいなものがあるとしたら、もうどうしようもなく、このあたりのことだ。
ものすごく客観的で冷静な自分の中にある芯の部分がやたらに熱を持っていて、芯のまわりがその熱で溶け出してくる。
それが驚くほどに単純で純粋で青臭くて子供らしくわがままな感情であることを知っていながら、自分が一番、それを認めてあげなければいけないとも思う。
旧作はいつでも7泊8日100円だし、準新作が5枚セット7泊8日で1,000円という安さ。
Huluなどが台頭してきている今、そうでもしないとわざわざ店頭に来てまたそれを返しに来ないといけない手間を取ってもらえないのだろう。
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
「ツリーオブライフ」
「BIUTIFUL」
「マネーボール」
「モテキ」
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」以外はその場で適当に決めた。
洋画ばかりは疲れるからと、邦画ラブコメも入れてみる。
家に着いて、9月22日が祝日で書道の教室が休みだということと更には朝から予定があったことに気が付いて、平日に返しに行くのは億劫だしと、実質1日半で5本を観なければならなくなった。
やってみると意外に行けるもので、途中何度か寝ながら実際にはさらに短縮して24時間で5本を観きった。
休みの日に一日中家にいると決め込んで、5本くらい映画を観るというのもたまにはいい。
というか、なんだか少しの達成感と充実感があって、1か月に1度くらいはやりたい気分だ。
インプットすることが特に何にもならないことだって多いのだが、それでもしないよりはした方がいいように思えるし、というかそれより、心を揺さぶられたいのなら多少筋肉痛を起こすくらいに手を伸ばしていないと出会えるものにも出会えない。
「愛を読むひと」の監督スティーブン・ダルドリーの作品であることは後で知ったが、やはり5本の中では「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」が一番良かった。
9.11で父親を亡くした男の子と、その家族、またニューヨーク市に住む人々の話。
子どもは色んなことを知らないから、未知に立ち向かっていける。
でも子どもだって全くの怖いもの知らずなわけではなくて怖いものはストレスだし単純に怖い。
それに、あんなにパパが大好きで仕方のない子供がある日突然、しかも自分を責め続けてしまうような出来事を残して、失くしてしまったストレスとはどれほどのものだろう。
オスカーが振っていたタンバリンの音は、ものすごくうるさい自分の周囲をかき消すためのうるささであり自分を鼓舞するためのものでもある。
後に読んだレビューで、物語があれこれと都合良く出来過ぎているという批判が少々見られたが、映画の良さとはそういう点にも見出せるのではないかと思う。
完全なるファンタジーではなくあくまで現実社会に起こり得る内容で、でも現実にはそんなにうまくはいかないというプロット。
確かにそうかもしれないが、物語だから成せる、現実的ファンタジー感。
生と死、父と子、という点では「BIUTIFUL」も同じ内容であり、私がそんなものを積極的に観てしまうことも、案の定泣かされてしまうことも自分でしてやっていることだ。
泣かされることによって得られる安心感のようなものだって、なんだか少し卑怯なくらいに、あるのかもしれない。
しばらく実家にいた姪が予防注射を機にこちらに戻ってくるというので会いに行く。
丸々と大きくなった姪は、ますますその顔を私の2番目の兄の顔に似せてきた。
ゆすってあやすと、顔をほころばせて笑う。
まだこの世に降り立って3か月も経っていないけれど、この世にいることには慣れました、という感じがする。
人は人に大きな影響を与えるし、受ける。
人は人を変えられると思うけれど、「人が変わる」ということは、多岐さまざまな要因があろうが、自分の子どもによってのケースが最も多いのではないかという気さえする。
ここで言う「人が変わる」というのは、それまでの核を成していた人格が大きく変わる、細胞が入れ替わったように改心する、といった割と大げさな部類の変化だ。
もちろん、生涯を通してこのような人格再構築、みたいなことを経験しない人が多いことを前提に。
加えて、人格再構築、みたいなことの経験の有無は一概に良し悪しと言えないことも前提に。
大人が大人によって変わるとき、それは変わる側の人間の意志なくしてはあり得ない。
しかしながら、赤ちゃんや子供の無垢で明確な言葉を持たない存在によっての変化は大人が及ぼすそれよりももう少し優しくて全身に染み渡るようなものなのだと思う。
私のお腹の上で、顔をすりすりとして手足をばたばたさせる。
いもうとと私の声はとても似ているから、私をお母さんと勘違いしているかのように、安心と不思議の顔を交互にする。
1か月前と同じように、私のおっぱいに吸い付こうと口をぱくぱくさせる。
けいこはちびまる子ちゃんの踊るポンぽコリンやらサザエサンの歌やら、オーバーザレインボーのオルゴールに自作の「ピンクの豚のうた」やらを歌って初孫をあやしている。
子どもを産むことが偉い、なんて言われると私はまた卑屈になってしまいそうだけど、確実に赤ちゃんは私たち家族を柔和させた。
まだ私の心の中に蟠りみたいなものがあるとしたら、もうどうしようもなく、このあたりのことだ。
ものすごく客観的で冷静な自分の中にある芯の部分がやたらに熱を持っていて、芯のまわりがその熱で溶け出してくる。
それが驚くほどに単純で純粋で青臭くて子供らしくわがままな感情であることを知っていながら、自分が一番、それを認めてあげなければいけないとも思う。
