幼い頃、稲妻を窓から見るのが好きだった。
稲妻が空を割って、遠くで轟き響いた音が分厚い曇り空を波打って伝っていく。
次第に近づいてきた雷は、光ると同時に巨大な何かが一瞬で弾けるように、爆発的な音を立てた。
家の隣の隣が中部電力で、避雷針が立っているから家の傍には落ちない、と祖父から教わっていた。
どんなに大きな音が鳴ろうとも、わくわくするだけで怖くはなかった。
そのうちに土砂降りになるのを見るのも好きだった。
夕立のあとの雨上がり、しっとりと涼しくなった庭に出るのも好きだった。
今の東京の狭い部屋のカーテンが光る。
窓の外は建物で、見上げる空はしゃがんでも両手に収まるくらいの大きさくらいしかなくて。
遠くから音は伝ってきたけれど、空を裂く稲妻は見えなかった。
あるところから回りまわって、ブルーハーツについて日本社会や宗教といったことに視点を置いて論じられた本を読んだ。
社会学・心理学・民俗学・宗教学などの学問をかじったジャーナリストが書いている。
私はこの本にブルーハーツのことが書かれていると知らずに買った。
メインテーマはJ-POPについてであり、ブルーハーツというかほぼ甲本ヒロトに焦点を当て、それはその一節としてある。
他には「サザンオールスターズ」や「スピッツ」「浜崎あゆみ」「B'z」といった80~90年代に流行った歌手やバンドが取り上げられていた。
ブルーハーツのメンバー、川ちゃんが幸福の科学の信者であることや梶くんが熱心な阿含宗であることは割と有名なことのようだし、音楽やアートへの猛烈な傾倒は一種の宗教的意味を持つことを認めるが、本当にいい気がしなかった。
反論しようと思えば突っ込みどころもなくはないが大方まあそうだろうといった内容にも関わらず、なんだかものすごい嫌悪感を抱いた。
物事を分析的に論じるとき、温度を抜いて、多少の小難しさを入れるのは別に普通のことだけれど。
かつて社会学を専攻し、様々な物事をカテゴライズして論じていたわけだけれど、その中でも私の興味は元々個にあった。
だから誰かの人生に興味があってライフコース論を取ったのだが、社会学で個に落としっぱなしの分析など意味を成さないから、それぞれの人生の物語を集約して社会風潮などと照らし合わせることもした。
今でも自分の人生の話や、だれかの人生の話はとても面白く興味深いと思う。
それと社会の関わり、在り様などもそうだ。
しかし私が感じた衝撃というのは、もっと感情的な響きであり、意図しない心のずっと奥の方のことだった。
便宜上一括りにして、ありがちな言葉で表現されたりすると、その大事な心のずっと奥の方を軽んじられているような気になってしまう。
個人的な体験というのは本人の中にしか真実がないから、その一番柔らかくて硬い部分についてはカテゴライズすべきではなくそれ単体として見るべきである。
だからブルーハーツが社会に与えたインパクトや社会現象を論じるのはいいけれど、ヒロト本人やそれが響いた誰か個人にフォーカスして社会や宗教と結び付けて論じるのは意味がない。
私もヒロトやマーシーのことを、たぶんこんな人間だろうと想像したり語ったりする。
でもそれをでき得る限り唯一のものとして見たいと思うし、一人のおそらく繊細な人間のことを尊敬して見たいと思う。
宗教的な意味での「救済」と酷似しているような現象がそこにあったとしても。
それにしても最近自分の中の猛獣がますます元気で、ちょっとだけ俯瞰視している私を出動させたりする。
そう、何度も思うが、たぶん放出が必要なんだと思う。
稲妻が空を割って、遠くで轟き響いた音が分厚い曇り空を波打って伝っていく。
次第に近づいてきた雷は、光ると同時に巨大な何かが一瞬で弾けるように、爆発的な音を立てた。
家の隣の隣が中部電力で、避雷針が立っているから家の傍には落ちない、と祖父から教わっていた。
どんなに大きな音が鳴ろうとも、わくわくするだけで怖くはなかった。
そのうちに土砂降りになるのを見るのも好きだった。
夕立のあとの雨上がり、しっとりと涼しくなった庭に出るのも好きだった。
今の東京の狭い部屋のカーテンが光る。
窓の外は建物で、見上げる空はしゃがんでも両手に収まるくらいの大きさくらいしかなくて。
遠くから音は伝ってきたけれど、空を裂く稲妻は見えなかった。
あるところから回りまわって、ブルーハーツについて日本社会や宗教といったことに視点を置いて論じられた本を読んだ。
社会学・心理学・民俗学・宗教学などの学問をかじったジャーナリストが書いている。
私はこの本にブルーハーツのことが書かれていると知らずに買った。
メインテーマはJ-POPについてであり、ブルーハーツというかほぼ甲本ヒロトに焦点を当て、それはその一節としてある。
他には「サザンオールスターズ」や「スピッツ」「浜崎あゆみ」「B'z」といった80~90年代に流行った歌手やバンドが取り上げられていた。
ブルーハーツのメンバー、川ちゃんが幸福の科学の信者であることや梶くんが熱心な阿含宗であることは割と有名なことのようだし、音楽やアートへの猛烈な傾倒は一種の宗教的意味を持つことを認めるが、本当にいい気がしなかった。
反論しようと思えば突っ込みどころもなくはないが大方まあそうだろうといった内容にも関わらず、なんだかものすごい嫌悪感を抱いた。
物事を分析的に論じるとき、温度を抜いて、多少の小難しさを入れるのは別に普通のことだけれど。
かつて社会学を専攻し、様々な物事をカテゴライズして論じていたわけだけれど、その中でも私の興味は元々個にあった。
だから誰かの人生に興味があってライフコース論を取ったのだが、社会学で個に落としっぱなしの分析など意味を成さないから、それぞれの人生の物語を集約して社会風潮などと照らし合わせることもした。
今でも自分の人生の話や、だれかの人生の話はとても面白く興味深いと思う。
それと社会の関わり、在り様などもそうだ。
しかし私が感じた衝撃というのは、もっと感情的な響きであり、意図しない心のずっと奥の方のことだった。
便宜上一括りにして、ありがちな言葉で表現されたりすると、その大事な心のずっと奥の方を軽んじられているような気になってしまう。
個人的な体験というのは本人の中にしか真実がないから、その一番柔らかくて硬い部分についてはカテゴライズすべきではなくそれ単体として見るべきである。
だからブルーハーツが社会に与えたインパクトや社会現象を論じるのはいいけれど、ヒロト本人やそれが響いた誰か個人にフォーカスして社会や宗教と結び付けて論じるのは意味がない。
私もヒロトやマーシーのことを、たぶんこんな人間だろうと想像したり語ったりする。
でもそれをでき得る限り唯一のものとして見たいと思うし、一人のおそらく繊細な人間のことを尊敬して見たいと思う。
宗教的な意味での「救済」と酷似しているような現象がそこにあったとしても。
それにしても最近自分の中の猛獣がますます元気で、ちょっとだけ俯瞰視している私を出動させたりする。
そう、何度も思うが、たぶん放出が必要なんだと思う。