つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

小さくて鮮明

2014-04-13 03:00:49 | 日記
好きなことをそれなりに一生懸命追いかけていると、ある程度のところまでは誰でも行ける。
それは例えば、自分が大好きなその人やものの知り合いに会って直接話を聞くことができる、とかそういうこと。
確かにここまで来るのも、色んなものを漁って漁って、行動を起こして起こして、やってくるわけなのだけれど。
まあでもそれは努力とかそういうものではなくて、何かを見つめるとか考えることも必要なしに、それを好きだという活力だけで行ける領域。

木村充揮さんはやっぱり圧倒的存在感だった。
マーシーの「ハッピーソング」はもうすっかり木村さんに乗っ取られていた。

声も、ギターも、パフォーマンスも、確固たる“木村充揮”がそこにいて、“木村充揮”のショーをやっている。
そのことは回りまわってどんなに難しいことであるだろうか。
ギターが自在に弾けることよりも、もしかしたら難しいことなのではないかと思う。

ライブ中もお酒の席も、木村さんの屈託のない顔のような話を延々するわけだけれど、この人には確かに大衆に伝えたいことがあって、それはとてもとてもシンプルなひとつのことだということがよくわかった。
性癖のような本人的な満足はさておいてとしても、音楽に乗せて発射したいメッセージがある。
メッセージがあるから、ステージを下りたって、今度は音楽に乗せずにそのメッセージを発する。

時代の力とか、風潮の後押しとか、もちろんそういうものもあるわけだけれど、もっともっとゆるぎない普遍的な概念。
どんな時代の、どんな場所でも、同じように見える、そういうもの。
私はそういう概念に憑りつかれているのであって、その概念が好きなのであって、それが乗っているものだったら、ロックでもパンクでもクラシックでもジャズでも、ライブでもDVDでもYouTubeでも、絵でも書でも詩でも花でも、映画でもドラマでも漫画でも、とにかく何でもいい。

「自分が自分であること」は想像以上に困難だし、想像以上に面倒だし、想像以上に辛い。
それでもその概念が好きだからその道に行こうとするわけで、しかし道中で飽きてしまったり怖くなってしまったりもするわけだ。
そしてたぶん、「自分が自分であること」を諦めることは、高みを知りながら低空や中空を飛行することであって、そうなれば私は自分が大嫌いな終わらない愚痴を言うようになるだろう。
自分が大嫌いな自分、なんてどうやっても選べない。

今のところほとんど進めていない私にとって、勇気ある人を見て勇気をもらうのは少しの慰めでもある。
「解放」というテーマにおいては、ちょっと木村さんは参考にならないほど高レベルな人ではあるけれど。


普段から朝に寝るくせに、朝帰りすると次の日まで調子が悪い。
大して飲んではいないのに、翌日を全て持っていかれた。

そしてものすごく着ていた服と自分がタバコ臭い。

私は今まで1本もタバコを吸ったことがない。
でも、タバコを吸う人やタバコのあるシーンが結構好きだったりする。
タバコの箱も、火のついたタバコも、落ちそうな灰も、揺れる煙も、灰皿の吸い殻も。

「一服」しているその姿は気持ちよさそうだし、簡易的な悦楽のようなものなのだろうと想像する。
まあデメリットがありすぎて自分が吸おうとはならないけれど、私の周りにはタバコを吸う人が多いからひとりそのシーンを楽しんでいたりする。

しかし、タバコの煙で空気が悪いことや、自分がタバコ臭くなってしまうことは好きではない。

昨日の度合いは酷かった。
着ていたすべてのものにファブリーズをふりかけて寝たけれど、翌昼ストールを嗅いでみるとタバコの匂いとファブリーズの匂いがきっちり半々で残っていた。
仕方がないのでストールなど洗えるものは全て洗濯機に放り込む。
洗えない革ジャンにはもう一度ファブリーズをふりかけて干す。


パキラが新芽を芽吹いてきた。
すかすかの木が、夏にはわさわさになってくれたら嬉しい。