つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

グロサリオ、燃える

2014-04-25 15:15:37 | 日記
私はずっと、自分の名前に違和感があった。

私の名前は、小学生くらいでも簡単な漢字が読めれば読みを間違えることはまずない。
その由来は母の名前の一字を取ったもので、あとは双子なのでセットになるような名前であれば良かったらしく、特段思考を練られたものではない。
ごく普通で、その平坦さゆえなのか何なのか、昔から自分自身と名前との乖離感があった。

自分の名前を名乗るのがどことなく気恥ずかしいように思え、自分のものではない気がしていた。
自分の名前が載っているものを直視できなかった。
自己紹介などをするときも、名前のところはなるべくさらっと何事もなかったかのように流すようにしていたと思う。
これは特に嫌悪というほどのものから来るわけでもなく、かと言って少しの愛着もなく、意識的無意識的に“見て見ぬふり”をしていた、ということが正しいかもしれない。

友人が昔、「私は○○(友人の名)ブランドと言えるような人生を送りたい」と言っていた。
またある友人は自分のことを今でも名前で呼ぶ。
またある友人は自分の名前をアレンジしたサインなのか記号なのかを作っていた。

私は、私にはそんなことできない、と思って見ていた。

また他の名前への憧れもあって、中学生や高校生の頃、友達間の手紙には偽名、といってもギャグのようにだけれど、を名乗っていた。
その時に使っていた名前は「美咲」。
そんなに深い意味はなくて、ただ美しくて女らしい名前だなと思っていたくらいだ。
思えばこの頃から「咲」という字が好きだったことになる。

あるとき、私の名前と同じくらいありふれた名前を持つ人と出会った。
その時には分からなかったけれど、私は自分の名前に抱く感じと似ていたからか、その人のことを長らく名前で呼ぶことができなかった。
しかしその人は、自分の名前や苗字をインターネットで検索するなどというものだから、とても驚いた。
その人の名前に私が抱く違和感の原因に気付いたとき、私は自分の名前に向き合わなければならないと思ったし、少し何かが氷解したような感じがした。
その少し後、それ自体は他人からすればあまりにも些細なことなので、ばれないように思い切ってその人のことを名前で呼んでみた。

名前を持ってから30年経とうとしている今、ようやくその乖離が埋まろうとしている。
良し悪しでも、好き嫌いでもなくて、ただ自分がそれであるという事実を認めようとしている。
自分を自分の名前で名乗ること、ただそれだけのことがようやく今になって腹落ちしてきたのだ。

要するに、今まで私は自分自身のことを背負えていなかったのだと思う。
“見て見ぬふり”をすることは、何か見たくない元凶への責任をどこかになすりつけていることでもある。
そうしてきた認識すら今はある。

もうすぐ結婚する友人が、姓が変わってしまうことに少しの不安を感じている。
語感や字面が変わるわけだから、それまでの姓で確立されてきたアイデンティティにも関わるだろうし、それは当然のことのように思う。
しかし私からしてみれば、そんなに自分の名前に愛着があってすごいなあという感覚なので、あまり的確に何かを言ってあげることはできない。
「私はあなたの中身を信じているから、姓が変わるくらい何だというのだ」と言うくらいなのだけれど、確かに影響範囲の大きなことだろうと思う。

そんなことを考えている矢先、ちょうど借りたGODIEGOのアルバムの「ビューティフル・ネーム」という曲を聴いた。
温かで、爽やかで、まっすぐで、強い歌。
ついでに「GODIEGO」のバンド名の意味を見てまた心を打たれる。
詞はメンバーでない人が書いているようだけれど、とても素晴らしい。

普遍的な真実のようなことは耳障りにはあまりに普通で心地よく、聞き流してしまいそうになるけれど、そのことへの深い理解と覚悟がないとできないよなあと思う。