展覧会の作品締め切りが4月末なので、重い腰を上げて取り掛かる。
重い腰も、やり始めれば夢中になれるし、3時間くらいは続けていられる。
今回の作品は「月の爆撃機」
「月の爆撃機」も「ナビゲーター」も「歩く花」もそうだけれど、ヒロトの描いている詞の世界は、“ひとりでない”ということが読み取られがちだと思う。
ともすれば体として恋愛ソングの成りをしているものもあるから、余計にそう取られがちだと思う。
もちろんマーシーの存在も、ヒロトの誰か愛する人の存在もとてもとても重要なことではあるけれど、しかしながらヒロトは、“ひとりなんだ、自分なんだ”ということを一貫して歌っている。
マーシーが体制について叫んでいるときも、ヒロトはずっとそれについてを歌っている。
本人に聞いたことはもちろんないけれど、私のその解釈が大きく間違っていることはないのではと思う。
“ひとりなんだ、自分なんだ”ということは良いとか悪いとかも越えて、ただもうそういうことであって、圧倒的な孤独さの同情を買われるのも少し変だ。
根源的に、基盤的に、愛情に枯渇している人間であるかもしれないことを認識したり想像したりもするけれど、もっとより深層根底にただただ圧倒的な静かさで存在している透明な真水みたいなものだ。
まだ踏ん切りがつかないけれど、彼らの詞を展覧会の作品で使うのはこれで最後にしようかなと思っている。
展覧会でなくてもさんざん書いているわけで、ようやく少しばかり飽きてきたというのもあるし、これをやっている限り私は前に進めないと思うことが一番の理由だ。
飽きてきたと言っても、やっぱり全然飽きていない面もあって、もうこうして文章に書くのも飽き飽きなほど、私は彼らの詞を書くたびにぎゅうっとなる。
だってもう、それがそういうことなんだから、となる。
彼らの詞を借りて書くのは、私にとっての写経や読経のようなものでとてもありがたい。
本当は、展覧会でなくても書かない方がいいのかもしれないと思ったりもするけれど、現段階の小心者の私はそれを止めることはたぶんできない。
それならば楽しめる間は十分に楽しんだらいいか、とも思う。
久しぶりにみかんの缶詰を買った。
私はみかんの缶詰がすごく好きなのだけれど、皮を何か薬剤で溶かしていると聞いてからあまり食べなくなった。
その皮を溶かす薬剤が将来的に体に悪いかなど到底知り得たことではないし、オーガニックにこだわりがあるわけでも健康オタクでも全然ないし化学調味料は大好きだけれど、どうしてもみかんの皮だけきれいに溶かす薬剤のことが奇妙で危険に思えてしまって避けるようになった。
大量のみかんが得体のしれない白濁した奇妙な薬剤に浸けられて、5分もしないうちにみかんは味も風味も損なって、丸裸になって、みかん風味の甘いシロップと一緒に缶詰めに詰められている一連の映像が私の頭の中で何度も再生されるのだ。
そのことを考えるといつも小川洋子の小説の世界観を思い出す。
もうしばらく彼女の小説を読んでいないけれど、そのうっすら埃をかぶったアンティークの家具のような奇妙な手触りが、私の中のみかんの缶詰のイメージに通じてしまう。
何はともあれやっぱりみかんの缶詰が好きで、久しぶりに食べたくなってしまった。
缶切りで開けると、オレンジ色の裸のみかん。
とろっとしたシロップは缶の内側の色が染み出たみたいにうっすら黄金がかった色をしている。
みかんそのものの味なのか、シロップの味なのか。
その奇妙さは、現実にはみかんの缶詰の思い出はほとんどないはずの子ども時代の奇妙さへもリンクする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/2d/884fbf92553d58afd84ce7c422b88015.jpg)
重い腰も、やり始めれば夢中になれるし、3時間くらいは続けていられる。
今回の作品は「月の爆撃機」
「月の爆撃機」も「ナビゲーター」も「歩く花」もそうだけれど、ヒロトの描いている詞の世界は、“ひとりでない”ということが読み取られがちだと思う。
ともすれば体として恋愛ソングの成りをしているものもあるから、余計にそう取られがちだと思う。
もちろんマーシーの存在も、ヒロトの誰か愛する人の存在もとてもとても重要なことではあるけれど、しかしながらヒロトは、“ひとりなんだ、自分なんだ”ということを一貫して歌っている。
マーシーが体制について叫んでいるときも、ヒロトはずっとそれについてを歌っている。
本人に聞いたことはもちろんないけれど、私のその解釈が大きく間違っていることはないのではと思う。
“ひとりなんだ、自分なんだ”ということは良いとか悪いとかも越えて、ただもうそういうことであって、圧倒的な孤独さの同情を買われるのも少し変だ。
根源的に、基盤的に、愛情に枯渇している人間であるかもしれないことを認識したり想像したりもするけれど、もっとより深層根底にただただ圧倒的な静かさで存在している透明な真水みたいなものだ。
まだ踏ん切りがつかないけれど、彼らの詞を展覧会の作品で使うのはこれで最後にしようかなと思っている。
展覧会でなくてもさんざん書いているわけで、ようやく少しばかり飽きてきたというのもあるし、これをやっている限り私は前に進めないと思うことが一番の理由だ。
飽きてきたと言っても、やっぱり全然飽きていない面もあって、もうこうして文章に書くのも飽き飽きなほど、私は彼らの詞を書くたびにぎゅうっとなる。
だってもう、それがそういうことなんだから、となる。
彼らの詞を借りて書くのは、私にとっての写経や読経のようなものでとてもありがたい。
本当は、展覧会でなくても書かない方がいいのかもしれないと思ったりもするけれど、現段階の小心者の私はそれを止めることはたぶんできない。
それならば楽しめる間は十分に楽しんだらいいか、とも思う。
久しぶりにみかんの缶詰を買った。
私はみかんの缶詰がすごく好きなのだけれど、皮を何か薬剤で溶かしていると聞いてからあまり食べなくなった。
その皮を溶かす薬剤が将来的に体に悪いかなど到底知り得たことではないし、オーガニックにこだわりがあるわけでも健康オタクでも全然ないし化学調味料は大好きだけれど、どうしてもみかんの皮だけきれいに溶かす薬剤のことが奇妙で危険に思えてしまって避けるようになった。
大量のみかんが得体のしれない白濁した奇妙な薬剤に浸けられて、5分もしないうちにみかんは味も風味も損なって、丸裸になって、みかん風味の甘いシロップと一緒に缶詰めに詰められている一連の映像が私の頭の中で何度も再生されるのだ。
そのことを考えるといつも小川洋子の小説の世界観を思い出す。
もうしばらく彼女の小説を読んでいないけれど、そのうっすら埃をかぶったアンティークの家具のような奇妙な手触りが、私の中のみかんの缶詰のイメージに通じてしまう。
何はともあれやっぱりみかんの缶詰が好きで、久しぶりに食べたくなってしまった。
缶切りで開けると、オレンジ色の裸のみかん。
とろっとしたシロップは缶の内側の色が染み出たみたいにうっすら黄金がかった色をしている。
みかんそのものの味なのか、シロップの味なのか。
その奇妙さは、現実にはみかんの缶詰の思い出はほとんどないはずの子ども時代の奇妙さへもリンクする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/2d/884fbf92553d58afd84ce7c422b88015.jpg)
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