つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

そう言ってもらえるととても嬉しいです

2014-05-18 20:39:19 | 日記
水に浸けておいたパキラの幹から白いぷつぷつのものが出てきたので、土に植え替える。
白いぷつぷつは根っこらしい。

私は植物は好きだけれど、あくまで切り花派で土いじりは好まない。
しかし年中部屋に緑が欲しいと思ったことがあって、買ってきた土付きのポトスを球型の花瓶に植え替えたことがあった。

そのときの土がまだ残っていたので、素焼きの鉢植えを買ってきて土を入れ、根が出始めたパキラを植える。
こんなことで本当に根を生やしてくれるのだろうか。
いささか心配だけれど、最初は水挿しの状態と同じにするためにたっぷりの水をやる、などの情報をネットで仕入れてその通りにする。
あまり日は当たらない私の部屋の最も日当たりの良い場所に移す。
隣りにはクワズイモが成長期を迎えてどんどんと葉っぱを増やしている。

鉢を買いに行ったついでに小さなテーブル用の観葉植物に目が行ってしまって、100円という安価で買えるものだからつい3つも買ってしまった。
一つはテーブルヤシ。
それ以外は名前を忘れてしまった。

トイレに飾っている何かの枝もの、これも名前が分からない、も水に浸かっている部分の枝から根を吹き出し、水に浸かっていない部分の枝からは新緑を吹き出している。
さすがに植物が成長する季節なだけある。

大きな大きな百合の花も恐ろしいまでの満開で、息苦しいほどの匂いを発している。
百合の匂いを緩和するために茶香炉を炊いてしまったりする。

犬や猫も可愛いのだろうけれど、移動もできない植物が水だけで驚くべき動きを見せる。
時にその香りで意識を支配しようとしてきたり、花粉で色を染めようとしてきたりもする。
芽吹いたり、葉を枯らしたり、音を立てて朽ち落ちたり、見えないところで根を出したりもする。
新緑は驚くほどキラキラしているし、花は驚くほど色を発する。

その動きが、その変化が、たまらなく愛おしい。

かなり昔、大学生くらいの頃までだろうか、私は花をもらって嬉しい人の気持ちが全然分からなかった。
枯れて汚くなってしまうものをくれるなんてプレゼントに相応しくないし、あげる人の気が知れないと思っていた。
現に、そういう風に思う人も少なからずいるだろう。
会社などの退職記念などを見ていると、小さな花束でも迷惑そうな人の方が多いようにも思う。

確かに、水をあげたり変えたりしなければいけないとか、ゴミになるとか、そもそも花瓶がないとか、あと生き物だから無碍にするのは若干の罪悪感を生むとか、色々と困ることがあるのは容易に想像がつく。
合理さを求めるのであれば、人は花もましてやペットも要らない。

そうか、私はかつて合理性が最も重要だったのか。

しかし、花や植物があることで空気に圧倒的な潤いが出るのはものすごく明らかなことだし、彼らの動きは普遍的真理すらも含蓄しているように思える。
その動きは、植物の“意志”なのか“自然の摂理”なのかも興味深い。
彼らからもたらされる単純な感動もさることながら、結局のところ、私は彼らの変化による自分の思考を楽しんでいる面もある。
「私を楽しませてよ」と思っている節もある。

あと一週間もすれば、百合の花はハリと白さを失って朽ち、ぼたっとその花を落とすだろう。
そのころには、パキラを引っ張っても抜けないくらいに根付いてくれるといい。


友人の結婚祝いに、「スローバラード」