誰かに、その人自身について、物申す。
ということをもしかすると私はしたことがないかもしれない。
申す内容は、その人の人格や生き方に関わるようなとてつもなく大きな類のこと。
それは剣で心臓を突くようなことで、まともに食らった相手は、心を荒立てて怒るか眼を見開いたまま固まるどちらかになる。
私がそれを他人にしたことがないのは、小心者であることと、剣で突き刺した相手の返り血を浴びる勇気も血を流した責任も持てないことと、そもそも自分が剣の持ち主であるのか分からなかったからだ。
誰かに、「もっとこうやって生きた方がいいよ」なんて類のこと、口が裂けても言えない。
私は他人にしたことはないけれど、他人からそれをされたことが過去二度ほど、別々の人から、ある。
一人は私のことを思って、私への愛情でそうしたようだった。
もう一人は切ってみたら面白いかもしれないという好奇心でしたようだった。
一度目、私はその人の身に余る愛情を受け入れることはできなくて、というか今でもそういうふうな愛情なら欲しくない、その上荒立てられた心を納める術を知らなくて見ないフリをして遠くへ退けた。
二度目、より的確な言葉で心臓を突かれて、私は笑いながらとても怒った。
私は笑いながらでないと怒れない。
最初はその人も愛情で私にそうしているのかと思った。
「実はあなたも仲間なんでしょう?」と決めつけられているようで、その干渉を酷く嫌悪した。
怒ると同時に言われたことが気になって気になって仕方がなかった。
遠くへ葬るしか方法がなかった一度目とは違って、私は何かについて分かりかけていたようだった。
その後割と短いスパンで、私は突かれた心臓のダメージついてひとつの光を見つけた。
そしたら、その人は私への愛情で物申したのではないということがよく分かった。
その人の楽しみでやっていたのだった。
「あなたがそうであってくれたら私も少しばかり潤うし、嬉しいよ。そうでなくても剣の刺しごたえだけはありそうだ」という極めて自分本位に剣を刺してきたのだ。
剣の持ち主は、謙虚に大胆に突き刺す。
後日光が見えかけた私のことを「ドブネズミ」だと称してくれたのは、それはもしかしたら愛情だったのかもしれない。
時が経って、その人に今度は「キラキラしたクソ野郎」だとも言われて、何度思い出しても私は笑ってしまう。
瞬間的な愛情や信頼は、緻密にカットされたダイヤモンドのように、煌めきを発する。
「みんな違ってみんないい」というのは真実だと思う。
だけれども、その中にも自分を絶対基準とした、その時点での好きや嫌いはあってしかるべきで、「みんな違ってみんないい」と認め合った上で、猛烈な賛同や猛烈な批判がないと面白くない。
ただ場を穏便に行かせたい場合には、批判は理念を持たねばならないと思うけれど。
ただ「みんな違ってみんないい」ということで議論をしようとしなかったり、嫌いなものを容認したり、見たくないものを覆い隠したり、それ以上進むのを諦めたりしたくない。
「みんな違ってみんないい」という剣で向かってくる人とは戦えない。
「私のために面白い人でいてよ」というように、実際にはもっと相手を批判するやり方で、心臓を突き刺されたそのときに知れるのは、突き刺された感触はどんなか、ということだけだ。
その後、その感触の心地悪さを何度も再現して、そこには何があったのかを知る。

ということをもしかすると私はしたことがないかもしれない。
申す内容は、その人の人格や生き方に関わるようなとてつもなく大きな類のこと。
それは剣で心臓を突くようなことで、まともに食らった相手は、心を荒立てて怒るか眼を見開いたまま固まるどちらかになる。
私がそれを他人にしたことがないのは、小心者であることと、剣で突き刺した相手の返り血を浴びる勇気も血を流した責任も持てないことと、そもそも自分が剣の持ち主であるのか分からなかったからだ。
誰かに、「もっとこうやって生きた方がいいよ」なんて類のこと、口が裂けても言えない。
私は他人にしたことはないけれど、他人からそれをされたことが過去二度ほど、別々の人から、ある。
一人は私のことを思って、私への愛情でそうしたようだった。
もう一人は切ってみたら面白いかもしれないという好奇心でしたようだった。
一度目、私はその人の身に余る愛情を受け入れることはできなくて、というか今でもそういうふうな愛情なら欲しくない、その上荒立てられた心を納める術を知らなくて見ないフリをして遠くへ退けた。
二度目、より的確な言葉で心臓を突かれて、私は笑いながらとても怒った。
私は笑いながらでないと怒れない。
最初はその人も愛情で私にそうしているのかと思った。
「実はあなたも仲間なんでしょう?」と決めつけられているようで、その干渉を酷く嫌悪した。
怒ると同時に言われたことが気になって気になって仕方がなかった。
遠くへ葬るしか方法がなかった一度目とは違って、私は何かについて分かりかけていたようだった。
その後割と短いスパンで、私は突かれた心臓のダメージついてひとつの光を見つけた。
そしたら、その人は私への愛情で物申したのではないということがよく分かった。
その人の楽しみでやっていたのだった。
「あなたがそうであってくれたら私も少しばかり潤うし、嬉しいよ。そうでなくても剣の刺しごたえだけはありそうだ」という極めて自分本位に剣を刺してきたのだ。
剣の持ち主は、謙虚に大胆に突き刺す。
後日光が見えかけた私のことを「ドブネズミ」だと称してくれたのは、それはもしかしたら愛情だったのかもしれない。
時が経って、その人に今度は「キラキラしたクソ野郎」だとも言われて、何度思い出しても私は笑ってしまう。
瞬間的な愛情や信頼は、緻密にカットされたダイヤモンドのように、煌めきを発する。
「みんな違ってみんないい」というのは真実だと思う。
だけれども、その中にも自分を絶対基準とした、その時点での好きや嫌いはあってしかるべきで、「みんな違ってみんないい」と認め合った上で、猛烈な賛同や猛烈な批判がないと面白くない。
ただ場を穏便に行かせたい場合には、批判は理念を持たねばならないと思うけれど。
ただ「みんな違ってみんないい」ということで議論をしようとしなかったり、嫌いなものを容認したり、見たくないものを覆い隠したり、それ以上進むのを諦めたりしたくない。
「みんな違ってみんないい」という剣で向かってくる人とは戦えない。
「私のために面白い人でいてよ」というように、実際にはもっと相手を批判するやり方で、心臓を突き刺されたそのときに知れるのは、突き刺された感触はどんなか、ということだけだ。
その後、その感触の心地悪さを何度も再現して、そこには何があったのかを知る。

