2か月に1度、参加させていただいている句会。
今回から友人も誘って参加した。
参加者は皆、言葉に慣れていて多彩なボキャブラリーをお持ちの方ばかりで、態度には出ていないかもしれないが、私は結構いつも恐縮している。
それに、ただ何かを味わうのと、批評を述べるのと、実際に創るというのは全然違うことをここでもまた思い知る。
創作は、どこまで行っても、何をやっても、結局のところ自分に対する「で、どうしたいの?」というところに戻ってくる。
どんなにたくさんのことを知ろうとも、どんなにすごいことができるようになろうとも、自分に「で?」と問うていくしか進む方法はないのである。
ただ何度も巡ってくるその地点の道のりには、技術の習得・研鑽も、他人の目線も必要になる。
俳句は私にとってそれほどの労力を今のところかけられていないので、やっぱり回り道をせずに自分らしい句を、と思ってできたのが今回の3句。
蚊をパチン と潰して見る 手と血と死
帰省して 将来の夢 風来坊
小さな手 ふたりで顔で 食べるスイカ
句会の良いところは、作り手の思いを答え合わせのように直にその場で聞けることだ。
もちろん解釈の幅はあって良いものだけれど、作り手がどんなシチュエーションで、どんな心情で作ったのか、それがギャグや遊びだったとしても、それを知れるのは面白いものである。
途中何度かスコールのような雨が降っていた。
外に出ると息苦しいほどの湿度。
氷あずきがおいしかった。
9月締め切りの東京書作展の出品に向けて作品作りを始める。
この書作展の出品は、出品も、出品点数も任意であるので、今回はいつもの仮名まじり文と、余力があれば漢字作品でも出してみようかと思う。
今回は、ヒロトの詞もマーシーの詞も書かない。
見るなら彼らの詞が良い、と思ってくれている人ももしかすると1人や2人いてくれるかもしれないけれど、でも書かない。
彼らの詞でないなら見に行かない、と言われても、書かない。
すごく切ないけれど、書かない。
でも、家で書く分には、たぶん、書く。
これまで“思い”の体現を目指してやってきたつもりで、私は自分の中にあるその“思い”に触れることが嬉しくて心地よかったし、できるだけその“思い”を真空パックして誰かの胸で生の近い状態のまま開封されればいいなと思った。
私はそれを前作の「月の爆撃機」で、あの形においての一つの限界を見た気がした。
限界、だなんて、己の限界の低さに辟易とするし、たいそうな物言いだけれど、あの形においてのそれ以上が、作品を馬鹿でかくするとかの方法以外に今の私にできそうにないし、何よりそこを掘る気がない。
決してその“思い”に飽きたということはないので、その方法は色々と探りたいと思っているが、全然間に合いそうにないので今回の書作展は中原中也の詩でも書こうかと思う。
書の構想として、大きな紙1枚に小さな字を淡墨で埋め尽くしたいというのがあって、長い詩が良いと思っていたので、「憔悴」という詩にしようかと思っている。
中原中也と萩原朔太郎、ボードレールを取り上げたフランス文学の授業を受けたことがあるけれど、それほど興味はなかった。
しかしちょうど先日、「僕は美の核心を知つてゐると思ふのですが、それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!」という一説に心打たれたという人がいて、調べてみるといい具合に長い。
それに、なんだか私はこの詩を読んで笑ってしまうのである。
なんだか少し、分かるような気がしてしまうのである。
私はうだうだと愚痴をこぼすのは好きではないのだけれど、これは所謂私が嫌いな愚痴でない。
たぶん中原中也も、そして私も、彼が題材にしていることの解決の糸口を的確には掴めていないのだ。
しかし、中原中也のことはよく知らないし本人が言うところの怠惰な人なのだと思うけれど、それでもなおこんな詩を書いているわけで。
自分に対して焦り苛立ち、そして憔悴しているのだろうが、どこか怠惰を含めた自分に向けられる最終的な愛おしさみたいなものを感じてしまう。
そしてたぶん、謙虚でフラットな目線を持っている人なのだろうなとも思う。
そんなわけで早速2枚ほど書いてみたが、長い。
1枚書くのに1時間強。
書き込むというよりは、1日2枚を限度に7日くらいしかできないだろう。
淡墨にすることも決めているので、墨を余分に磨ってペットボトルに入れておく。
墨を磨るのは、疲れる。
それに、“いい色”がなかなか出ない。
ようやく書がブログに記事に追いついたけれど、これではまたすぐなくなってしまう。
(ところどころ拝借させていただいております)

今回から友人も誘って参加した。
参加者は皆、言葉に慣れていて多彩なボキャブラリーをお持ちの方ばかりで、態度には出ていないかもしれないが、私は結構いつも恐縮している。
それに、ただ何かを味わうのと、批評を述べるのと、実際に創るというのは全然違うことをここでもまた思い知る。
創作は、どこまで行っても、何をやっても、結局のところ自分に対する「で、どうしたいの?」というところに戻ってくる。
どんなにたくさんのことを知ろうとも、どんなにすごいことができるようになろうとも、自分に「で?」と問うていくしか進む方法はないのである。
ただ何度も巡ってくるその地点の道のりには、技術の習得・研鑽も、他人の目線も必要になる。
俳句は私にとってそれほどの労力を今のところかけられていないので、やっぱり回り道をせずに自分らしい句を、と思ってできたのが今回の3句。
蚊をパチン と潰して見る 手と血と死
帰省して 将来の夢 風来坊
小さな手 ふたりで顔で 食べるスイカ
句会の良いところは、作り手の思いを答え合わせのように直にその場で聞けることだ。
もちろん解釈の幅はあって良いものだけれど、作り手がどんなシチュエーションで、どんな心情で作ったのか、それがギャグや遊びだったとしても、それを知れるのは面白いものである。
途中何度かスコールのような雨が降っていた。
外に出ると息苦しいほどの湿度。
氷あずきがおいしかった。
9月締め切りの東京書作展の出品に向けて作品作りを始める。
この書作展の出品は、出品も、出品点数も任意であるので、今回はいつもの仮名まじり文と、余力があれば漢字作品でも出してみようかと思う。
今回は、ヒロトの詞もマーシーの詞も書かない。
見るなら彼らの詞が良い、と思ってくれている人ももしかすると1人や2人いてくれるかもしれないけれど、でも書かない。
彼らの詞でないなら見に行かない、と言われても、書かない。
すごく切ないけれど、書かない。
でも、家で書く分には、たぶん、書く。
これまで“思い”の体現を目指してやってきたつもりで、私は自分の中にあるその“思い”に触れることが嬉しくて心地よかったし、できるだけその“思い”を真空パックして誰かの胸で生の近い状態のまま開封されればいいなと思った。
私はそれを前作の「月の爆撃機」で、あの形においての一つの限界を見た気がした。
限界、だなんて、己の限界の低さに辟易とするし、たいそうな物言いだけれど、あの形においてのそれ以上が、作品を馬鹿でかくするとかの方法以外に今の私にできそうにないし、何よりそこを掘る気がない。
決してその“思い”に飽きたということはないので、その方法は色々と探りたいと思っているが、全然間に合いそうにないので今回の書作展は中原中也の詩でも書こうかと思う。
書の構想として、大きな紙1枚に小さな字を淡墨で埋め尽くしたいというのがあって、長い詩が良いと思っていたので、「憔悴」という詩にしようかと思っている。
中原中也と萩原朔太郎、ボードレールを取り上げたフランス文学の授業を受けたことがあるけれど、それほど興味はなかった。
しかしちょうど先日、「僕は美の核心を知つてゐると思ふのですが、それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!」という一説に心打たれたという人がいて、調べてみるといい具合に長い。
それに、なんだか私はこの詩を読んで笑ってしまうのである。
なんだか少し、分かるような気がしてしまうのである。
私はうだうだと愚痴をこぼすのは好きではないのだけれど、これは所謂私が嫌いな愚痴でない。
たぶん中原中也も、そして私も、彼が題材にしていることの解決の糸口を的確には掴めていないのだ。
しかし、中原中也のことはよく知らないし本人が言うところの怠惰な人なのだと思うけれど、それでもなおこんな詩を書いているわけで。
自分に対して焦り苛立ち、そして憔悴しているのだろうが、どこか怠惰を含めた自分に向けられる最終的な愛おしさみたいなものを感じてしまう。
そしてたぶん、謙虚でフラットな目線を持っている人なのだろうなとも思う。
そんなわけで早速2枚ほど書いてみたが、長い。
1枚書くのに1時間強。
書き込むというよりは、1日2枚を限度に7日くらいしかできないだろう。
淡墨にすることも決めているので、墨を余分に磨ってペットボトルに入れておく。
墨を磨るのは、疲れる。
それに、“いい色”がなかなか出ない。
ようやく書がブログに記事に追いついたけれど、これではまたすぐなくなってしまう。
(ところどころ拝借させていただいております)

