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つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

揺らげ!

2014-08-23 20:22:29 | 日記
とある用があって、そのための場所としてルノアールを最寄駅で探していた。
ルノアールはとてもたくさんの場所にあるから、あの一旦書いた文字を縦に縮めたような「喫茶室」というロゴと、マジックで書いたような太い「ルノアール」のロゴは思い浮かぶけれど、それがどこのものだったのか判然としない。

私がいろいろな場所を覚えられず方向音痴なのは、場所そのものの映像はなんとなく記憶するのだけれど、付近の道はおろか、他に何があったのかをさっぱり記憶していないことにも原因がある。
再訪でも辿り着かないことが多々あるのだけれど、店や建物の雰囲気やイメージがないわけではない。
しかし、そのイメージは再訪にはまったく役立たない。

iPhoneでgoogleマップを広げて、場所を確かめる。
相当に駅近なはずだし、ストリートビューもしてみると既知の光景なのだけれど、見つからない。
もしやなくなったのか、と一度家まで帰ってPCで情報を確かめてみる。
そのような気配はない。

まあたぶん、ただ単に道が間違っていて見つけられなかっただけのことだとは思う。
このような類のことは私にはよくあって、人に話すとはたと理解不能と言われる。

方向音痴、地図が読めないことを一種のアイデンティティの一部のように持っている側面もあるのだけれど、いい加減自分が面倒になるので、このあたりの能力は訓練できるものなのであれば訓練したい、とは思っている。


夜な夜なかぼちゃを煮る。
野菜や果物を食べていないわけではないと思うけれど、緑黄色野菜不足だなとは思っていたので。

一旦冷まして味を含ませた方が良さそうな煮物は、最近は深夜に作ることが多い。
その場では味見をせずに、翌日の朝ごはん、というか昼ごはん、というか、昼下がりごはんの楽しみにする。

かぼちゃの煮物は今までにも何度も作ったことがあるけれど、劇的に美味しいと思ったことがない。
というか、どこで食べても劇的に美味しいかぼちゃの煮物にはあったことがない。

かぼちゃ本体が十分に甘味があるし、多少醤油が多くても、砂糖が多くても、あまり重要な感じで作用はしない。
別にいつもそれなりに美味しいけれど、お味噌汁みたいにしみじみ美味しいと言うこともない。
それは顆粒の和風だしを入れても、だ。
かぼちゃはそのままで他の影響を受けにくいほど強いのだ。
そして、もしかすると私はかぼちゃがそんなに好きではないのかもしれない。

劇的に美味しくするには、おそらく大学芋、あれはサツマイモだけれど、のようにするか、肉の力を借りるかしかない。
私の言う、劇的に美味しい、とは、油であり砂糖であり肉である、ということになる。
前提として、この、劇的に美味しい、という状態を受け入れられる私の余裕も必要である。

ついでに砂肝とマッシュルームの醤油煮も作る。
脂肪分が少ない砂肝とは言え、肉はやっぱり肉である。


今度の書作展は、正式に中原中也の「憔悴」にすることに決めた。
どうにもこうにも文字数が多いので、非常に疲れる。

「それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!」というのは実に印象的だし、すごく我がことのように身に沁みる。
その前の文は「ぼくは美の核心を知ってゐると思ふのですが」。

“美の核心”が己の中に存在するものであるならば、私も知っているような気がする。
というか、己の中に存在するものであるならば、もう何とでも言えるけれど。
まあそれでも己の中に存在するものであるとしか思っていないけれど。

中原中也は「怠惰を逭れるすべがない」と言いながら、こんな詩を滔々と書いている。
私もそれをとても身に沁みながら、全文を書で滔々と書いている。
中原中也がどうであったのか知らないけれど、私の場合、誰に頼まれるでもなく、お金をもらうわけでもなく。
見方を変えると、それは全然怠惰でないようにも思える。

しなしながら、ものすごい怠惰であることを私はよくよく分かっている。
私の中で、怖がりと怠惰がタッグを組んでいて、それは屈強である。