つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

蜜蜂不適格

2014-08-13 01:56:26 | 日記
2歳になって所謂イヤイヤ期に突入し、俄然面倒さが増した姪。
なんでもかんでも自分でやると言って聞かないし、気に入らないと癇癪を起こす。
着るものも食べるものも、こうと言ったら聞かない。

全力で訴えるその姿はとても清々しくもあり、時々鬱陶しくもある。
清々しいのは要求に対する表現が極めてストレートであるから、鬱陶しいのはその時の私の要求と異なるから。

子どもの頃の「社会化」というのは一通りされなければならないものだと思うけれど、どこまで「自由」なのかということを教えることは非常に非常に難しいことだと思う。
まあ私の子どもではないから、口出しは一切しないけれども。

おばあちゃんの家に行くと、2歳の甥と、もうすぐ3歳と5カ月のいとこの子どももいた。
「じゅんばんこ」でおもちゃを使うのだけれど、上手に待てないので取り合いになったり、一方が泣き出したりする。

子どもの中で一番年上の3歳のいとこの子どもは、「お姉ちゃんだで貸したげにゃかん」と曾爺さんに何度も言われたりして、私は胸がぎゅっとなった。
こうやって「お姉ちゃんだから」と何度も何度もすり込まれ、我慢をすることを覚え、「お姉ちゃんらしく」なっていく。
それが良いのか良くないのか、子どもの素質にもよるし、その後の経験にもよるのだろうけれども、彼女はその場では明らかに怒っているような顔をしたし、寂しそうな目をした。
妹が生まれて、お母さんの愛情を独り占めできなくなったどころか、あまりかまってもらえなくなったフラストレーションもあるように見えた。

そのことは、私の胸を結構強く、締め付ける。

誰もが一心に親の愛情を受けたいのだと思う。
自分が自分であることの存在意義を、親に認めてもらいたいものなのだと思う。

「お姉ちゃん」というレッテルは、双子の私にも貼られていたし、いつしかそれを役割として意識的にも無意識的にも演技するようになった。
「自分らしく」ではなく「お姉ちゃんらしく」することで、周りの人は満足するわけで、そうした周囲のあらゆる期待に応えることはこれから社会で生きていくことの基本となる。

そう考えると、とても切なくて本当に涙が出そうになる。
しかし、人間など全く野放しにしたらモンスターのようなものだし、幼い頃に限ってはおそらく社会の大枠は教え込まねばならないものだとも思う。
それは大部分は子ども本人のために。
親とは言え、どこまでが本人のためと言えるかは非常に微妙なところだと思うけれど、あらゆることを考えるための素養は身に付けるべきだと思うし、そもそも考える力を養ってあげなければならない。

子どもを見ていると、子ども目線で自分のことを色々と思う。
これ以上書くことが憚られるくらいに、原点的なことを。

私がどんな私になっていけばいいかなと考えるのはずっと続くとして、私は姪にとってどんなおばさんになった良いかな、とちょっと考えてみたい。
そして、どんな姪の我が儘もさておき、スマートフォンで撮った姪の写真を見返して、かわいいなあもう、と思ってしまう私である。