湯島天神は通っている書道教室の程近くにあって、菊まつりのときには毎度顔を出す。
もう4年連続で行っていると思うが、そう言えば一度もお参りをしていない。
今回もしていない。
神社の神様やら絵馬やらおみくじやらに、さっぱり興味がないのだ。
好ましくないと思う人もいるかもしれないが、「そんなことをするとバチが当たる」というようなこともさっぱり関心がないし、それが直接原因のバチなど当たらないと思っている。
もっと言うと、初詣もお墓参りもひとりでいたら絶対にしない。
菊まつりは、さすがに毎年見ているので、最初のときのような感動はないし、花に対する溢れんばかりの情熱は今はさほどない。
それでもパールのような色合いの白や、油絵のような黄色と赤のマーブル模様や、天然パーマみたいな花びらの丸まりにはうっとり見とれてしまう。
ふと花に触れると、冷たいのに柔らかな、生きている質感がして、はっとする。
毎年変わらぬ厚物や糸菊が見事に咲いている。
彼らは人の鑑賞用に作られた種類で、自分自身で野生できない。
頭が大きすぎて、花びらが大きすぎて、ひとりでは立ってもいられないし咲けもしないのである。
切り取りたいショットを探してiPhoneを向けながら見て回る。
一画に枯れた小菊の群生があって私はそれを写真に撮っていた。
岡村靖幸を聴きながらだったので、反応に遅れたが、ひとりのご婦人に話しかけられていた。
慌てて音楽を止めると、「それ枯れちゃってるけど、こっちに咲いているのあるわよ」と言っていた。
「はい、そうですね」とだけ答えて、岡村靖幸を復活させる。
岡村靖幸は「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」だけリピートして聴いていたことがあるけれど、アルバム全体を真剣に聴いたことはなかった。
なんだかちょっと久々に「音楽っていいね」という感想を持った。
ちなみに私はブルーハーツや奥田民生を聴いて「音楽っていいね」という感想はあまり持ったことがない。
というか、「音楽っていいね」という発言を、私はあまりしないようにしている節もある。
彼はきっと生きるのに自在な人ではないだろうけれど、音楽についてはある程度自在なんだろうと思う。
もちろん生みの苦しみみたいなものはあるとしても、描きたい世界観やイメージをある程度形にできるだけの技術とセンスがあるのだろうと思う。
だからたぶん、彼の音楽は「それがそれ」という雰囲気を持ち得ている。
ある人の言葉を借りると、ある構造とその人のマリアージュ、といったところか。
それはなんて好ましいことで、なんて羨ましいのだろう。
先日SMAP×SMAPに出ていたのを偶然見かけたけれど、詞もときどきとても気になることを言っている。
「愛はおしゃれじゃない」とか、勝手にワンフレーズ抜き出して独り歩きさせるものでもないとは思うし、的確な意味など分からないけれど、付箋か何かに書いてピン止めしておきたいような気持ちになる。
よく分からない何かが匂い立つ言葉を紡げるのは偉大だな、と思う。
自由であること、自在であること。
自由とは、全力疾走している状態から四方八方どこへでも瞬時に方向転換、あるいは静止ができる状態のこと。
自在とは、全てを意識化した上で、再度それを無意識化してその物事を扱える状態であること。
私はこの話が好きで、よく考える。
元は森博嗣であって、又聞きの上、私の意訳が入っているけれど。
大事なのは、イメージと意志なのだと思う。
11月夫婦電話で丸くなる
もう4年連続で行っていると思うが、そう言えば一度もお参りをしていない。
今回もしていない。
神社の神様やら絵馬やらおみくじやらに、さっぱり興味がないのだ。
好ましくないと思う人もいるかもしれないが、「そんなことをするとバチが当たる」というようなこともさっぱり関心がないし、それが直接原因のバチなど当たらないと思っている。
もっと言うと、初詣もお墓参りもひとりでいたら絶対にしない。
菊まつりは、さすがに毎年見ているので、最初のときのような感動はないし、花に対する溢れんばかりの情熱は今はさほどない。
それでもパールのような色合いの白や、油絵のような黄色と赤のマーブル模様や、天然パーマみたいな花びらの丸まりにはうっとり見とれてしまう。
ふと花に触れると、冷たいのに柔らかな、生きている質感がして、はっとする。
毎年変わらぬ厚物や糸菊が見事に咲いている。
彼らは人の鑑賞用に作られた種類で、自分自身で野生できない。
頭が大きすぎて、花びらが大きすぎて、ひとりでは立ってもいられないし咲けもしないのである。
切り取りたいショットを探してiPhoneを向けながら見て回る。
一画に枯れた小菊の群生があって私はそれを写真に撮っていた。
岡村靖幸を聴きながらだったので、反応に遅れたが、ひとりのご婦人に話しかけられていた。
慌てて音楽を止めると、「それ枯れちゃってるけど、こっちに咲いているのあるわよ」と言っていた。
「はい、そうですね」とだけ答えて、岡村靖幸を復活させる。
岡村靖幸は「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」だけリピートして聴いていたことがあるけれど、アルバム全体を真剣に聴いたことはなかった。
なんだかちょっと久々に「音楽っていいね」という感想を持った。
ちなみに私はブルーハーツや奥田民生を聴いて「音楽っていいね」という感想はあまり持ったことがない。
というか、「音楽っていいね」という発言を、私はあまりしないようにしている節もある。
彼はきっと生きるのに自在な人ではないだろうけれど、音楽についてはある程度自在なんだろうと思う。
もちろん生みの苦しみみたいなものはあるとしても、描きたい世界観やイメージをある程度形にできるだけの技術とセンスがあるのだろうと思う。
だからたぶん、彼の音楽は「それがそれ」という雰囲気を持ち得ている。
ある人の言葉を借りると、ある構造とその人のマリアージュ、といったところか。
それはなんて好ましいことで、なんて羨ましいのだろう。
先日SMAP×SMAPに出ていたのを偶然見かけたけれど、詞もときどきとても気になることを言っている。
「愛はおしゃれじゃない」とか、勝手にワンフレーズ抜き出して独り歩きさせるものでもないとは思うし、的確な意味など分からないけれど、付箋か何かに書いてピン止めしておきたいような気持ちになる。
よく分からない何かが匂い立つ言葉を紡げるのは偉大だな、と思う。
自由であること、自在であること。
自由とは、全力疾走している状態から四方八方どこへでも瞬時に方向転換、あるいは静止ができる状態のこと。
自在とは、全てを意識化した上で、再度それを無意識化してその物事を扱える状態であること。
私はこの話が好きで、よく考える。
元は森博嗣であって、又聞きの上、私の意訳が入っているけれど。
大事なのは、イメージと意志なのだと思う。
11月夫婦電話で丸くなる