つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

今日のポスト

2012-09-13 22:09:20 | 日記
紅葉でもなくて赤い葉をした枝に気を引かれて、大きな枝を家に連れ帰ってしまった。
胴体が重すぎて、手持ちのどの花器に入れても一人立ちできないので、壁にもたれ掛けさせる。
こんな大きなものどうするのだ。
と思いつつも、丈夫そうなので全く日の当たらない玄関に立てかける。

枝を水に浸けていただけなのに、しばらくすると水が薄い赤色に染まった。
赤色の血が枝中を流れていることを知る。

あとスプレーカーネーションと、名前は忘れたがアマゾンの方でありそうな奇怪な植物。
スプレー薔薇や、スプレー菊やスプレーカーネーションの、「スプレー」の意味が自然と降りてきた。
考えてみれば大した話ではないが、考えてもいないことが降りてきた。

気になるバンドについては名前や生い立ちまで追ってしまう私だけど、花については名前や原産地などほとんど気にならない。
気になるのは、最も旬な姿のその色と様、どれだけ動いて朽ちるのか散るのか。


「ロックの神様が私に降りてきて・・」という話を人にすると、結構音楽が好きだという人は多くて、あれこれ聞いてみてとおすすめを紹介される。
だいたい、バンドの名前も映画の名前も、一度聞いただけで覚えられることはなく、その時は覚えるつもりで実際に何度も反芻して記憶に留めようとするけれど、翌日に二日酔いの頭で記憶の欠片を探してみたって、思い出せる気配すらもないことがほとんどだ。
ただそれが私に何かいいことを起こしてくれるのではと興味はあるものだから、「昨日勧めてくれたのはなんだっけ」と問合せをする。

私は、音楽の歴史において多大なる影響を及ぼしたバンド、とか、ある時代を作った先駆者としてのバンド、とか、社会現象を巻き起こした数少ないバンド、とか、イギリスのとかアメリカのとかオーストラリアのとか、そういうことに特に興味はない。
もちろん、社会的重要性や影響力の大きさや、何かにおいて最初にやったという新しさなどは偉大であるし本当に尊敬するし、そういうことをベースにした聞き方もあるだろう。
しかしその音楽が、たとえ私以外の誰もに響いたとしても、それはもう私には響かないということなら、あまり意味を成さない。
今の私はその音楽そのものと、それを産み出す人にしか興味がない。
時代も順序も、ジャンルでさえも、後付けで括られてはくるものの、どうでも良い。
だから、私のロックの歴史が、期間だけみれば浅すぎることも、私があらゆるロックな音楽など知り得ないことも、薄っぺらいことにはならない。
薄っぺらくなんてない。

私は「これがこんな風にいいと思う、こんな風に大好きだ」という自分の感情と、相手のそれについてしか音楽の話ができない。
しかし、明らかな聞き下手というだけのことな気もする。
ただ新しく私の心を揺さぶってくれるものが欲しいから、音楽や映画に詳しい人の話は聞きたい。

「あれもこれも聴かずにロックっていうのは浅はかだ」と人に言われて私は少し怒っている。
確かにまだ知らぬ音楽がとても良いものを秘めている可能性は十分すぎるほどにあるし、確かに私は音楽について無知すぎると思う。
それでも、あるロックな音楽が大好きです、ということを持っていればそれで十分ロックな音楽が好きですと言っていいと思う。
人が心から好きなものに出会えたことは、大いに祝福されるべきことだ。

こんなことで、私は久しぶりにごく単純な怒りの感情を抱いた。
だからと言って噛み付いたりはしないし、本当に許せないのならばここには書けないけれど。



一緒に

2012-09-11 14:02:23 | 日記
ロックな方向に傾き過ぎて、持ち物や服装までも影響を及ぼしている。
今まで持っていたものには、そうとは考えずにロックなものも結構持っていたりもするのだが。

ひざ丈のフレアスカートを好んでよく着ていたが、今それがどうにもしっくりこない。
色でいえば、カーキやベージュの中間色を好んで着ていたが、最近はちょっとびっくりするくらいのビビットな色も着る。
黒や白は似合わない、と思っているのだが、黒や白が着たいと思うようになった。
それがロックテイストかどうかということは置いておいたとしても、聴く音楽や精神以外にもロックに影響されていることが多分にあるらしい。

そもそも「ロック」とは何だ、という話は、難しい。

確かに私は「パンクロック」というジャンルが好きなようだけれど、パンクロックというと世間のイメージが革パンツやモヒカン、鋲や男性の化粧などが先行してしまうようだ。
どういう風に説明すればいいのか的確には表せないのだが、私が言っているのは明らかにそうではない。
ガレージロックとかポップパンクとか、そういった言葉の方が近いのだけど、大きく分類すると「パンク」なのだから仕方がない。

音楽の分類というのはややこしくて、人に聞かれて、いつもは言葉で的確に説明したいくせにそれが面倒になってそういうときだけ、「良いと思うものがいいんだ」とか「良いと感じる以外にはない」とか「ブルーハーツを聞いてみて」とか言う。
でも、確かに好きなジャンルはあれど、それだけの括りで留まることもいいとは思わないからいいと言えばいい。
ただ、何をこんなに言っているのかというと、威圧的なパンク・ファッションのイメージと誤解されることが最近何度かあったので、それはあまりにも私の中にはなくてイメージ違いなので訂正したいということだ。

ファッションで表すものとはあまり関係がなく、その精神性や表現方法としての音楽パンクロックが好きなのだ。
「あぁやさしいから好きなんだ」と、ヒロトは「パンク・ロック」という曲の中で歌っている。
そうそう、と自分で表現を見つけられなかった私はヒロトの言葉を借りる。

また、ロックは他者を寄せ付けない狂暴なものであったり、完全なストイックなものでは決してない。
もちろん想いや核はあるし、彼らがアートとして何かを表現するその力というのはとてつもなく大きなものだけれど、人間としての緩さや適当さや弱さといったものも結構含まれているように思う。
音楽をやっていないときの彼らは、意外に謙虚なのではないかと思ってしまう。

時々、人の想いを生で聴くことがある。
生は瑞々しいけど、美しさだけでできているわけではない。
何かを成したいとき、他人に対して持つプライドは要らない。
盾みたいに、防護服みたいに、自分を守るプライドなら要らない。
だが破壊王であることが良しではない。
成したいことを邪魔するプライドなら自ら叩き壊せということ。


時に大いに心を揺さぶられ、時にすとんと心に納まる。
今後の私の人生において、甲本ヒロトや真島昌利のような影響力のある人や物や事がもう一つ見つけられたら、それはそれは、もう本当に、大快挙な嬉しいこと。
それは、奇跡の一歩手前の、ラッキーなこと。



一本の存在感

2012-09-10 20:34:17 | 日記
久しぶりに派手に道に迷った。
行きは15分弱、帰りに1時間。
お酒を飲んでいたとか飲んでいなかったとかに関わらず、迷うときは迷うけれど、「六義園」と見えてきたとき、もう本当に帰れないのではないかと思った。

坂道を避けて、とかそんなことも言っている場合でもなく、急な坂道を登れど私の行きたい方向の表示は見えてこず、知っている道の名前も現れない。
15分で帰れる道をなぜ自転車で1時間も走らなければならないのか、私にも理解はできないのだが、行けばいくほどに自分がどこにいるのかが全くわからなくなり、帰巣本能のなさに息を切らしながらため息をつく。

しかし、耳には「日曜日よりの使者」とか「夏の地図」とか「よろこびの歌」とかそんなハイロウズの歌が流れていて、私は楽観さを持ち続けていた。

コンビニで道を聞こうか、自転車を置いて電車に乗ろうか、交番には立ち寄れない、などと色々と思考を巡らして10数分、後楽園の観覧車が見えた。
ああ、もう大丈夫、と思った。

家の近くのローソンで麦茶を買って帰る。
ぐったりした体でそのまま寝てしまうと、夜の11時くらいに二日酔いのような状態になった。

迷って通った道は同じ道を何度か通っているのかもしれないし、そうではないかもしれない。
あれだけ走った道も、私の中の地図を明確にした事実は一つもない。

今進んでいる右と左が、曲がってしまうとさっきの右と左と違ってしまうことが私の居場所を混乱させる。
ということを人に一生懸命説明しても、誰もわかってくれない。

富良野で買ったラベンダーの石鹸を開ける。
生えているラベンダーや摘みたてのラベンダーは温かくて湿った艶めかしい匂いがする。
ドライフラワーや石鹸になると、乾燥することによって発せられる独特の香ばしい香りが先に立つ。
ただ、石鹸は固形脂の匂いの中に香ばしいラベンダーの匂いが混じっている。

精油は摘みたてのラベンダーをたくさん押し込めた強さのある香りを放つ。
匂いを纏うのも四六時中焚いているのも好きではないけれど、時々欲しくなる。
タスマニアン・ラベンダーの精油もゼラニウムの精油もなくなってしまって、イランイランと柚子の精油だけがある。

明るいことが勝ちと知っていながら、なぜ明るくないものを持ち続けようとするのだろう。
それは自分がそんなブランディングをしたいということに他ならない。
でも、震えるくらいの暗さが本当にあったとしたら、それはそれで一度はその闇の深さを覗いてみないといけない。
そんな闇は、単なる虚であるかもしれない。
しょうもないことを、どうか怒らずに聞いてほしい、と人に不躾なお願いをする。

ちゃんと秋がやってきている。
彼岸花の群生が見たい。
不吉ないわれの多い花だけれど、絵的にとても様になる気がする。



はてるまの星空

2012-09-07 14:45:09 | 日記
一昨日のライブのツケが今頃になってやってきていて、むち打ちみたいに首が痛い。
自分の体を必死に守っていた腕も痛い。
今日に至っては、もげた爪よりも首と腕が痛い。

昨日はずっと酔っているみたいで、一滴もお酒を飲まなかったというのに、午前中はずっと二日酔いみたいだった。
観覧車の真下のコンクリートの温かさは今でも背中に思い出すことができる。

友人がアップしてくれた写真をFacebookで見た昔から私を知っている同僚が、少々唖然としていた。
確かに、汗まみれで乱れた写真ではあるけれど、私はどこが唖然とするポイントなのかわからなかった。
以前の私ではしそうにない、ということが唖然のポイントだったようだが。

人はいつでも「今」しか生きられないから、「昔」どんなに強く長く思っていたことも、「今」短く強く思っていることにはかなわない。
特に気持ちの記憶というのは、「昔」思っていたことさえも「今」の自分によって塗り替えることも容易い。
というより、おそらく記憶の書き換えは頻繁に起こっているのだと思う。

また新しく届いたDVDを観る。
1987年、まだ若い時のむき出し感のある顔をした彼らがいる。

中途半端な気持ちじゃなくて
本当に心から好きなんだ
僕 パンク・ロックが好きだ



葉っぱで売っていたモンステラ。
緑だからいいものの、これが黒でこの照りだったらおぞましい感じがするだろう。
おもちゃみたいなこの葉っぱは、不思議と見た目に「生きている」感がない。
ただおもちゃみたいなその葉っぱを触ると思ったよりもずっと柔らかくて、水分が感じられる。
生きている葉っぱに埃が似合わな過ぎて、ティッシュを濡らしてそっと撫でるように拭く。

モンステラの葉っぱの穴は、重なっている下の葉っぱにも光が当たるように開く、と言われている。
たぶんこの葉っぱは茎の下の方の葉っぱだろう。
このように1枚だけ切り取られた葉っぱはもう穴が開いたり、切れ込みが入ったりしないのだろうか。



文字通りの甘え

2012-09-06 21:59:52 | 日記
ヒロトが、マーシーが、あと5メートルで手が届くくらいのところにいた。

ライブだからと、私はヒールの高さ7センチくらいのウエッジソールで準備していた。
フジロックのサカナクションでモッシュを経験しているからと完全に鷹をくくっていた。
ヒロトとマーシーのファンは数知れず、その盛り上がり方は確かに常軌を逸していた。

好きな人のためでなければあんなに人間の色んなものが撒き散る場所になんかいられない。
普段はどちらかというと潔癖な嫌いのある私が、誰とも知らない人の汗や蒸気にずぶんと入るなんて本当に考えられない。
でも、それができる。
自分の身を自分で守るのにも必死で、冷静と情熱の間を行ったり来たりしながら人間の熱気風呂に入り続けた。

足を踏まれて、どうしてそうなったのかはわからないが足の親指の爪が半分もげた。
痛みを感じたのはほんの一時で、あとは血でぬるっとした感触がするだけだった。
戦っているボクサーはアドレナリンのおかげで痛みを感じないというが、たぶんそんな状況だったのだと思う。
ライブが終わってもそれは痛くなくて、血にまみれた足の親指がサンダルと一緒にじんじんとしていた。
痛み出したのは、帰宅してお風呂に入ったときだった。

いつもDVDを観ているのと同じヒロトの笑顔があった。
ヒロトは本当に瑞々しくて、どうしてこんなにこの人には「今」しかないんだろう。
人の笑顔でなんでこんなに泣きそうになるのだろう。

荒れ狂う人と人の合間からヒロトとマーシーを追った。
ライブだからみんな踊り狂っているけれど、私は彼らをもっと凝視したかった。
みんな止まってほしかった。

「最後まで楽しんでってください」
とライブのときいつもヒロトは言う。
職業:ロック歌手のヒロトのすごさ。

一方的な想像ばかりしているけれど、彼らの生き方や在り方が、私は本当に好きなんだと思う。
彼らが生きていることは、事実として知っているけれど、その本物さと今この同じ空間にいることが奇跡的でどんなにありがたいことだろう。

3人で一緒に会場に入った私たちはみんなそれぞればらばらに出てきた。
同じくヒロトとマーシーが大好きな彼女と、三ツ矢サイダーを飲みながらZepp東京の観覧車の真下で横たわった。
仄かに温かいコンクリートで、そのまま寝てしまいたいと話した。
爪はもげているし、自分の汗か人の汗か判別できず濡れていて。

好き、ということは偉大だなと思う。
それが跳ね返ってこない良さも、ある。
実際の人間関係は育めるからいいのだけれど。

ここ2,3年の私は人生の転機と呼べるようなことがいくつかあるのだが、「ブルーハーツとの出会い」というのも間違いなく入る。
もし学生のとき、私が私をインタビューしていたら、「随分と気が狂った人もいるものだ」と思ったに違いない。