つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

見えるやさしさ

2013-01-17 13:58:42 | 日記
iPhoneに付属のイヤホンが音漏れがひどいので、新しくカナル型のイヤホンを買った。
前にも何度もカナル型イヤホンを使ったことはあるが、とても密着するので外部の音を遮断できるのは、良いのか良くないのか。
私は耳が小さいので一番小さなイヤーパッドを使っても、大げさに言うと世界から断絶されたような閉塞感がある。
自分の足跡が地面と接触するその感覚だけでしか認識ができない。
通勤時などは、どんなイヤホンをしていても音の中を泳いで行っているようなものだからさほど変わりはないものの、外部の音が著しく聞こえない、という事実は肝に銘じておかなければならないし耳以外の感覚もオンにしておく必要がある。

今回今までのものよりも少々値段が高く、高音質のものを買った。
密着しているからなのか、高音質だからなのか、音が鋭すぎて慣れない。
特にドラムの音が高いような気がして、脳をバチで叩かれているような気分になる。
私はよく大音量で音楽を聴くけれど、音で脳を充満してくれるような感覚が好きなのであって、脳を殴られたいわけではない。
weezerやThe Stone Rosesなどを聴くには実にクリアになってちょっとその曲の印象まで変わったような気さえする。
weezerは私にはダルイように聞こえていて、それが良さだと思っているのだが、このイヤホンで聞くとハリが出てしまって良いような良くないような。

私には、高級な牛肉や正統派のフレンチが口に合わないみたいな、そんな感じ。

28歳になった。
10歳の頃から、阪神大震災から何年、という尺をもって訪れるようになった私の誕生日。

ここ何年か強く思うけれど、私は自分の誕生日をそんなにおめでたいことという認識はない。
それは別に年を取ることが嫌だという感覚でも全くない。
親に感謝する日だという人もいるが私はそうも思っていない。
ただ、大事な人の誕生日は、とてもおめでとうと思う。
ありがとう、とも思う。

大きな黒蝶のダリアとポーランド食器を友人からプレゼントいただいた。
匂いに敏感な私のために、匂わない花と香りものでない粋なプレゼント。
ポーランド食器はなんと私が既に持っているマグカップのシリーズのものであった。
彼女が私のために選んでくれたというだけで嬉しいけれど、それがそれで、とてもとても嬉しい。

人間性も違う、好きなものもそれぞれにある、でも言葉を交わせるという嬉しさ。
こんなときにここだけ抜き出して適用するものではないとは思うけれど、こういう感じ。

Whatever you do
Whatever you say
yeah,I know it's alright


今度箱根の美術館を巡ろう、できれば寂れたところを、とそのついでに、人が生み出したもの、創ったものの話をしていたら非常に興奮してしまった。
素敵な美術館と寂れた街を二人で巡る、煌めく予定ができた。

黒蝶は気強そうに見えるその外見と裏腹に、とても儚い。
あからさまな存在感があって、妖艶であることに自信を持っているような。
茎なんて、とても太くてとても屈強。
けれどすぐに外側の花びらから水分を失ってしまう。

生の花はそれだけで愛おしい。
色があって、柔らかくて、瑞々しくて、花びらがあって、茎があって、萼があって、葉っぱがあって。
それがたとえ根を持たない切り花であったとしても、今ここで息づいていて水を吸い上げているという、ここにあるという、ただそれだけで愛おしい。

部屋に生花を切らさず飾るようになって1年あまり。
季節を一周したようで、花屋にあるどの花もおなじみになってきた。
そろそろ頭の重たいラナンキュラスが楽しみな季節。
ぎゅうぎゅうに詰まった花びらのラナンキュラスを束で買おう。



亜細亜の希望

2013-01-15 02:34:11 | 日記
私は単に友人に会うためだけにまた京都に向かう。
お酒を飲みに行くようなものだけれども、その翌日に友人はいつも気持ちの良い寺院に連れて行ってくれる。

どこか行きたいところないの、と聞かれて、寺院や京都そのものに興味のない私はいつも「人があまりいなくて気持ちの良いところ」と答える。
明確な何かを持っていた方が迷惑でないことも知っているけれど、ピンポイントに京都で行きたいところが今の私には思い浮かばない。
それでも友人はまた気持ちの良いところ、今回は法然院に連れて行ってくれた。

会いたい人に会うためなら、今月は新しい服だって我慢しようではないか。
何かを使って、何かを減らして、何かを犠牲にして、それでも、と思えるものがあることのありがたさや、そもそもそれ以外に何か欲しいものはあっただろうかとシンプルな問いに立ち戻る。

色を増してくれる出会いを、近しい人が運んでくれることがある。
それはただの居酒屋のおじさんで、素性は全然知らない。

私自身の脱皮の話と、脱皮後期の今現在の話を簡単にすると、おじさんは私に拍手した。
加えて、私が「今まで殻を被っていたからもっと柔らかく生きたい」と言うと、「まだ若いやねんからもう一回固くしたらええねん。尖がっていったらええねん。きちんと生きてたら固くなった殻をまた割ってくれる奴が出てくる。そしたらもっと成長できるやんか。俺だってまだ割れるで」と言った。

なんてすごい人だろう。

自分がバリンバリンに割れたのは良かったけれど、非常にエネルギーの要ることなので、私はどこかでそれを遠ざけたかったという思いがあったのだ。
柔らかく生きていけば、それを回避できるのではないかと。
出会って数十分のこんな短い時間で、見破られたというか、見透かされたというか、そんなことは初めてだった。

他にもいくつかロックなことを言っていて、それらは私の脳にフラッシュを当てられて焼き付けられた。
一瞬で的を射ることができる人がいるものなのかと、お酒でふわふわする脳の中で強く思った。

おじさんが出してくれた長芋と軟骨の梅和えがとても美味しかった。
ワインじゃなくて、日本酒っていいねって翌朝に体でも実感する。

いつしか私は「お酒が弱い人」から「お酒が好きな人」に変わってしまった。
言うほど強くはないけれど。


世界は二つ 宇宙は二つ
大きな壁でまっぷたつ
何かと何か 誰かと誰か
扉のない壁でまっぷたつ
人間らしくありたいだなんて
それは人間のセリフじゃないだろ
僕らしくなくても僕は僕なんだ
君らしくなくても君は君なんだ


ヒロトとマーシーに出会ってもう1年くらいになるけれど、未だ不意に彼らに引っ付かまれて震えて泣いてしまうことがある。
出会えて良かった、って苦しいほどに思う。
本当に、ありがとうございます、と思う。

次回の書道の展覧会に私はブルーハーツかハイロウズの歌詞を書きたいと、先生に告げた。
歌詞は著作権の問題があるけれど、没後50年でない作品については詩も同様で、前回に私が書いた谷川俊太郎の詩についても同じことなのだそうだ。
営利目的ではないので書きたいものを書いたらいいわ、せっかくだから、と先生は仰った。

いよいよ選ばないといけないけれど、それを選ぶことがまず非常に困難である。
好きな曲があり過ぎて。
同じくヒロトとマーシーが大好きなあの子が結婚式で使う曲を考えるのと同じように、彼らの曲は何の気なしに聞くと誤解を招いてしまう場合もある。
その場として相応しくないものもある。

ものすごいWANTと、いつもの怠慢、の狭間、私は最近になって頻繁に思い出すことがある。



河原町下る

2013-01-13 15:41:54 | 日記
およそ3年に一回のスパンで訪れることがある。
これにある条件を加えるとそのスパンは7年に一度、となる。
それは人生で最も喜ばしいことのうちのひとつで、美しいことのひとつだ。
たぶん、このスパンはこれからもう少し縮まるのではないかと期待している。

往々にして、それらはしっとりと湿っていて捻れていて熱苦しくて透明な部分を持っている。
それらが私の人生に変化をもたらし、豊潤にしたり、色を添えたりする。
生ものだからまた、時に腐ったりもする。

私は自分の言葉で話す人が好きだ。
私がそう思うのは私にそう聞こえるだけのことかもしれないけれど。
そういう人はたいていボキャブラリーが豊富でその組み合わせ方や並べ方も巧い。

言葉を扱うということは、そこに思慮がある。
だからその思慮が練られていたり味わい深かったりすると、その人から発せられた言葉は、聴き手に厚みを感じさせる。

言葉の世界も、人それぞれ認識が違うものだから非常に曖昧なものではあるし、その上コミュニケーションにおいては「間」であったり「表情」であったりとまた複雑なものが入るから話し手と聴き手の理解が全く同じであることはない。
それでも、直接的に何かを伝えようとするとき、私は言葉の影響力を信じるし、優しかったり巧かったりする言葉の世界を信じている。

と言って、本の世界をほとんど知らないことはなんと情けないことだろうと自分を恥じる。

以前はジャスミン茶が嫌いだった。
風味も気に食わなかったのだろうが、単に「緑茶じゃないウーロン茶じゃない」と毛嫌いしていただけのことも多分にある。
なんとなく都会化されたとか、なんとなく品位がありそうとか、ロハスとかリュクスとか、ほとんど意味はないそんなで最初は手を付けた。

本当にようやく、何年も経て、様々なカッコつけを取り除いて、ジャスミン茶が選べるようになった。
甜茶やルイボスティーは好きではない。

自分の好きなものを選びなさい、ただし本当の好きなこと。
それをすることに、それを選ぶことに、それがわかることに、随分と時間を要した。
赤ちゃんがハイハイするようになったり歩けるようになったり、そういうことと本当は一緒のことで、ただそれができることはただ喜ばしいことだと思う。


悲しみで花が咲くものか
(サンボマスター 「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」)

そう、咲かない。
蕾は、愉しみ、だから。
咲くは、笑う、だから。

たとえ短い時間で枯れることを知っていても、花はそれを憂えて咲くわけではない。
咲くことに、ただそれだけに一生懸命なだけだ。

今日も私の部屋で花が咲いた。
花瓶の水の減りで、その花の蒸散量を知る。
香らない花が、静かに大きく、呼吸をしている。

期が熟し過ぎている。
急がなければ。


まつ毛の長い招き猫

2013-01-09 23:28:21 | 日記
大幅に寝坊した。
起きたら10時40分だった。
起きたきっかけは社長からのメールの通知音だった。
どうやら目覚ましのスヌーズモードを1回で切ってしまったらしい。

「寝坊」という言葉の音がなんだか情けなくて私は寝坊してもしなくても通常に使わないのだが、今回はその音のイメージそのものだったので甘んじて使うことにする。
私はよく寝坊する人のことをだらしがないとか、起きる決意が足りないとか思っていた。
時間にルーズなのは嫌いだし、おそらくタイトな時間感覚を生きている方だと思う。

でも、一度大きな「寝坊」をしてしまったら、もうそんなこと言ってはいけない気がして、私のアイデンティティの一部が欠け落ちてしまった気さえする。

社会人になってからも、幼い頃からの学校生活でも、私は朝寝坊で遅刻したことはほとんどない。
起き遅れてしまって、でも持ち前の朝の準備の早さで切り抜けたことは数回あるけれども。
それでも、数回だ、10回はない。

なぜかということもなく、夜12時過ぎに帰宅したにも関わらずそこからギターを練習し始めてしまって寝たのが3時半になってしまったというだけだ。
でも、私はたいていこういうことがあったとしても、重たい体をなんとか目覚めさせることくらいはできていた。

最近私は自分の身体が肉体的にも精神的にも、開放的になっているのが本当にありありと感じられる。
様々なアクションや立ち振る舞いがとても大胆でアバウトになっているように思うし、今まで気にしていた色々な些細なことが気にならなくなった。
もちろん良いことであるのだが、行き過ぎてしまうことが生じてしまうだろう懸念を抱き始めている。

「開」の2012年、社会的生活において失態を犯さないように、2013年には解放量を調節する術を身に付けなければならない。

少し前まで一番のお気に入りだった真っ青の地でで色とりどりの花のプリントされたフレアスカートをはいた。
花のプリントがあまりに気に入って、私はこのスカートのグレーの地のものも色違いで持っている。

今でもとてもお気に入りのものだけれども、どうもフレアスカートがしっくりこない。
パンク音楽が所謂パンクファッションとさほど繋がりがないようだが、なんだかふんわりした質感や形、デザインのものを好まなくなった。
以前は持ってもいなかったショートパンツや少しだけメンズライクなシャツなども着るようになった。

また、去年まで履いていたヒール10cm程度の靴も履かなくなった。
足が痛かったり、歩きづらかったり、無理をして履いていた。
でも痛くない方がいいし、歩きやすい方がいい、ということが最近になってようやく腹落ちしたのだと思う。

単なる好みの変化はこれまでにも幾度も体感してきたけれど、メイクもピアスも減少傾向にあることも含めると、もうそのままでいいではないかという解放のメッセージを受け取らざるを得ない。
ただこれも、行き過ぎることは気を付けなければと思う。

今週末、大事な友人に久しぶりに会える。
地理的な距離はやはり難しい問題ではあるけれど、私は本当に楽しみだ。
彼女は私の「開」の一手を担った人物でもある。



塗り壁

2013-01-07 22:15:35 | 日記
3日もあれば時差ボケも治るだろうと思っていたのだが、見事にそういう生活をしてしまって、昼夜がひっくり返ったまま仕事始めを迎えてしまった。
今日寝たのは朝6時である。

重たい体にどんと積まれた業務の山。
跳ね返りがない血の通わない業務の山を扱っているのなら、確かにそれを徐々に崩していくのは一種の楽しみがある。
しかし、血と温度のあるものに対しその一つひとつを崩し倒していくとなると、気を張るし思いもよらぬ跳ね返りにあったりする。

ただの無機質な山を崩すこと以外に、私は未だかつて仕事において高度な快感を得られたことはない。
仕事というのは、対価の発生するという点においてそれに尽くさなければならない面も大いにある。
しかし、費やす時間があまりに多いものだから、高度な快感だって求めてはいいのではないかと思う。

でも問題なのは、私がただの無機質な山を崩す以外に仕事のおける何に高度な快感を得られるかが自分で分からないことだ。
そして、それがそこにない可能性だった多分にあることだ。
では他に何のためにそれをするのか、と言われれば明確な回答も持ち合わせてはいるものの、それはあまり自分自身で負える類のものではなかったりする。

働くということが食い扶持を得る、ことが最も底層、しかも基盤としてあることは自明だけれども、引き換えているもののが何かを考えたりすると必ずしも均衡が取れているとは限らない。
いっそ鮮やかに翻したり、それまでにあり得なかった巨大な空中ブランコみたいなものに飛び乗ったりできるのではないかと、そのリスクそのものに突っ込んでみたいなんていう発想をする。

なんとなく、新しさを私はいつものように外から手に入れて、去年あんなにもばりんばりんになったくせに、案外そんなに時も経たずにまたばりんばりんになるのかもしれないなあと思う。

今日の私が強気なことも、明らかに言い過ぎていることも、そんな気分であるから。
明日その気分ではなかったとしても、今日私が文章を描くとこうなる。
ものすごく練られた強い意志、以外にふっと決意なきことを思うがままに呟いてみることは、案外心地よいサラサラの砂のようなものかもしれない。
深みもない、味もない、残らない。
もちろん考察だってしない、正否を裁いたりもしない、責任だって持たない。

それでもやっぱり好きなのは、鉄が溶けてしまうくらいの本当のことだったり。

虹色の多面体、といつかにある人のことを書いた。
私も、自分がそんなでいいかなと、今日は、思う。