つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

0時JUMPのBIRTHDAY

2013-04-19 22:20:27 | 日記
私がどうにも仕事で食らった打撃から抜け出せなくて、唇を噛み締めていたら、私の尊敬する人はこう言った。
「仕事なんてな、好きか嫌いかなんだ。お前が好きか嫌いかで選べばいいんだ。俺はこの会社を嫌いなことをやらせる会社でありたくないんだ。いいか、好きなことでないと責任なんて持てないだろう?」
私がトラブルの渦中にいたそのことの事実を、問題点と解決策を瞬時に見出してそれはそれとまとめ上げたのち、私の思いを聞いてくる。
挙句、「お前がやりたくないこと、やめよう。この案件がもうできないっていうならもうやめればいい。やめるか?」とまで言う。
「嫌いなことはやらなくてもいい、その代わり、好きなことには責任を負え」
そして、私のコミュニケーションの問題点までやんわりと指摘してくれた。

もちろん、実際のところ私の会社が好きなことを皆がやっているかと言ったら全然違う。
というか、好きを仕事にする概念が皆にあるでもない。
ただ、「やらされている」のではなく、色んな場合があれ、「自分で選んでやっている」という考えを持っている人が多そうだ、というくらいである。

こういうことを言ったのは、私にこのように言えば伝わりやすいという判断からだと思う。
でも、冗談ではなく、たぶん私が本気で「嫌です、もうできません」と言ったらこの案件は消えていたと思う。
それくらいの覚悟を持っている人だ。

私は一応、仕事は仕事だと思っていて、世間はそんなに甘いものではないと一応思っているし、今回私が怒られたミスについては何も反論ができないから、怒られたその打撃だけの消化と今後の恐怖についての憂鬱が抜けなかっただけである。
取引先に怒られたから辞めたいです、だなんて、甚だおかしいと思う。
フロントに立って営業する人がいること一つ取っても、会社の利益を考えても、おかしいに決まっている。

ただ、私が萎縮してしまう相手とやり続けないといけないこと、もう一つ言い訳を上塗りするならば萎縮してさらに失敗する可能性が高まることを私は経験上知っているから、たぶん私はこれに耐えられなくなるだろうという気はしていた。

単純な打撃で心がはち切れそうになっていた私は、「誰もいないときに最初にうちに来ると決めてくれた子が脱皮にもがいている時に、それをサポートしないような生き方は僕の人生にはありません。」という言葉で会社のデスクでぶわっと涙が滲んでしまった。
嬉しかった。

そして改めて、特殊な職場環境だと思う。

でも、そんなふうに言ってくれて、この時に私が感じたことは、私自身が一番意外だった。
こういう人の下で働き、こういう人についていきたい、この人のために今の仕事を精一杯頑張ろうと、私はそう思うはずだった。
その人は、マネジメントに長けた人であるし、私の性格も心得ているから、ある程度私をマインドコントロールすることはできると思う。
本当の意図をもって、敢えて振れ幅の大きいことを言ったのだと思う。
それに私はこの人になら仕事において、ある程度マインドコントロールされたいとさえ思っていた。

しかし私が思ったことは、それでもたぶん、私は近からず遠からずいつかこの会社を去るだろうということで、それは今の場所に私が近づきたい何かに近しい何かが存在するとは思えないということだった。
それならば、何が何かも分からなくても、手当たり次第でもなんでも、たとえ滅多切りにされても、大きな意味で仕事の中身も好きでいたいと思うようになったということだ。
「その人のために働きたい」だなんて、私はその人にも自分にもに失礼だと今は思う。

と、それもさておき、明日が楽しみでならない。
何せ好きなことに大接近できるのだから。



応援団長

2013-04-16 23:59:24 | 日記
職場のあたりはおしゃれなレストランが多い。
白いご飯が食べたいことも多いのだけど、それには良いお店が少ない。
イタリアンやカフェばかりで和定食を食べられるところが本当に限られる。
良いのは、コーヒーまでをセットにしているところが多いので比較的店内でゆっくりできることだろうか。

ちなみに、私の会社も例に漏れず、始業が遅い会社が多いのだと思われるが、ランチが混雑するのは13時半~14時頃の時間帯である。
誠に勝手な推測ではあるが、Webデザイナーのような仕事をされているのだろうという身なりの男性が多い。
身体の線が細く、モノトーンの服を着て、パンツは今の時期であれば九部丈のような微妙さで、伊達眼鏡らしき眼鏡をかけ、ウェットなパーマヘア、iPhoneを触りながら食事をしている。

私はお昼に遠くまで足を伸ばすほどお店の開拓精神はないので、いつも大通りに囲まれた区画内で済ませている。
一定の区画内は、ある程度網羅してきたように思う。
良いお店はいつも大混雑しているので、一人ならばたいていすんなりと入れるお店に向かう。

特別に美味しくなくても、気に留まらないということはある程度美味しいということだと思う。
いくつかのランチの美味しいお店の記憶はあるから、そこに何度も行ったりもするが、多くの場合は「昨日と違うところ」という程度で店に入るため、その日のランチの記憶というのは乏しい。
と言うのも、先日新しく入ったお店のパスタがさっぱり美味しくなくて、記憶としては非常に残るものであったのだ。
アサリのパスタで、具はアサリだけのシンプルなパスタだったのだが、とても塩辛くてパスタはアルデンテ手前なのではという感じの硬さと粉の香り、アサリの出汁でパスタを食べるものと思いきや、それぞれ独立していて全体としてのアサリパスタ感がない。
塩辛いことが一番の駄目な点であったと思うから、その日の作り手が手元が狂って塩加減を間違えたのだとしたら私も運が悪い。
いやでも、塩加減は出す前に味見をするものではないのだろうか。

初めてのお店のこういう経験は、そのお店にレッテルを貼ることになってしまいもう二度と行かない、となることが多いだろうから、もし手元が狂って出したのだとしたらそれは大変に残念なことである。
きちんとしたレシピの上に作られたものだとしたら、それは仕方がない。
私との相性が合わなかったということだ。


青い花が好きだ。
青い花の前では深呼吸をしたくなる。

青い花、に留まらず、最近青が好きだ。
紺でも水色でもなく、青らしい青。
吸い込まれそうに深い青。
カラーネームでいうと「MediumBlue」のあたり。

芍薬が開き過ぎなほどに開いている。
芍薬は咲かせるのが比較的難しい花であることを最近耳にした。
固い蕾のまま、咲かずに枯れてしまう場合も多いのだそうだ。
私は去年芍薬をトータル10数本、蕾も含めて買ったと思うが、咲かなかったものはなかった。

あまりにも見事に、その蕾が花開くものだから、私はその咲きっぷりに泣かされたことがあるほどだ。
朝出かけにはまだ蕾が緩み始めたくらいだったその芍薬は、帰宅した夜には大輪となって開いていた。
外から力をかけてこじ開け開かせることなどできない花の蕾。
泣いたのは別の理由であったとしても、水に浸けているだけの切り花が、こんなにも立派に変化を遂げることに感動したのは確かだった。

泣かされたり、笑わされたり、驚かされたり、あるいは勝手に共感したり。
可愛くて仕方がない花たちの変化の様を側で見たい。

私は花に対し、美しさや可憐さ、強さ、儚さと一緒に、時にある種の卑猥さも強く見ている。



ガラスペンに思いを乗せて

2013-04-15 02:21:59 | 日記
何を作ろうとも考えずに玉ねぎを買ったものだから、いつもなら他の野菜と炒め物くらいにしかしないのだけど、なぜか単純なことがしたくてあめ色玉ねぎを作ることにした。
料理に時間をかけるのも、多くの道具や食器を汚したりと面倒なことをするのも嫌である。
でもなぜか、少し時間がかかる何かの変化の様を単純作業で見ていたかった。
その後、できたあめ色玉ねぎをどうしようとも考えずに。

と言って、最初に玉ねぎを刻みオリーブオイルを垂らして電子レンジで5,6分加熱する。
生煮えの玉ねぎがあまり好きではないので、私は炒め物を作るときも最初に電子レンジで加熱する。

加熱されてしんなり透き通った玉ねぎをさらにフライパンで弱火で炒めていく。
くたくたになって少し粘り気を帯びてきた玉ねぎ1個は、最初の量からすると1/4ほどのかさになっている。
小さな玉ねぎだったから2,3個やれば良かった。
菜箸でかき混ぜ続けて、ちりちりとと音を立てながら、玉ねぎは案外すぐにあめ色になった。

さて、あめ色になった玉ねぎをどうしようかと炒めながら考えていた。
コンソメスープ、はベーコンがないから味気なくなりそうである。
ハンバーグ、はひき肉をこねるのはしたくないしそもそもひき肉は冷蔵庫にない。
カレー、は食べたいけれど食材が色々と足りないのとあめ色玉ねぎが全然足りない。

オムレツ、えのきとジャガイモがあるので何となくスペイン風に、これにしよう。

卵2個とざく切りのえのきにサイコロ状のジャガイモ、塩コショウ、乾燥オレガノ、牛乳少々、それとあめ色玉ねぎ。
バターがあったらもっと良かっただろうけど。
小さなフライパンにオリーブオイルを多めに入れて熱し、流し入れて軽くかき混ぜてそのまま待つ。
粗方焼けたら一度フライパンの蓋にとって、蓋ごとフライパンにひっくり返してそのまま蒸し焼きに。

ケチャップもソースも何もなかったけれど、何だかとても美味しかったのは、間違いなくあめ色玉ねぎのおかげのように思う。
甘くて香ばしくてとろっとしていて、いつも出汁味で美味しいなあとしみじみ思う以外の、しみじみ美味しいなあがそこにあった。

手間をかけること、手間をかけなければそうはならないこと。
また単純なことがしたくなったら、料理に手間をかけたくなったら、あめ色玉ねぎ、作ろうかと思う。

ともあれ、玉ねぎは炒めると匂いが残る。
私はこの匂いをすべてが終わってから染みついたように残っているのが嫌いだ。
フライパンを洗って、そのフライパンでお茶を煎る。

花屋さんに寄ったらいい花がなかったから、仕方ないからスーパーに花を見に行く。
そうしたら今年はじめての芍薬を見つけた。
小ぶりだけれど、妖艶なピンク紫。

いろんな花が好きだけど、芍薬が一番好き。
たくさんの花びらと、蕾からの咲きっぷり。
やっぱり私は、あからさまなほどにわかりやすいものが好きなのだと思う。



空振りの代償

2013-04-12 23:43:48 | 日記
オフィスの移転祝いにいただいたパキラが新しい葉を次々と伸ばしている。
既にわさわさと葉っぱは茂っている奥から黄緑色の小さな若葉が芽吹いて、にょきにょきと背を伸ばし上に延びてくる。
これならいつでも植物の成長と新緑の眩しい黄緑を目にすることができると嬉しく思っていた。
いただいた時から比較すると高さは10センチほど、葉は1.3倍くらいに増えたように思う。

パキラを置いてあるところは全く日が当たらない。
栄養剤もあげておらず、隔日で水やりをするくらいである。
それなのに、芽吹きは伸び、芽吹きは伸びを繰り返すものだから私は少し脅威を感じている。
いくら光合成ができるからといって、光は当たらないわけだからあの葉の増え方をするほどの源があるとも思えないし、土と言えどそんなに大きな鉢植えではない。
彼らのあれほどの生命力の在り処が本当に解せない。

多くの植物は今この時期に芽吹いたり成長したりをするから、季節的なものだろうか。
秋が訪れても冬が訪れても、今のように成長を続けたらこのパキラは私たちを支配し始めるかもしれない。

ところで、あのねじねじとした幹は天然にああなるのだろうか。


ロックンロールに触れてから、ということなのかは定かではないが、最近所謂“ドジ”をすることがとても増えた。
私はそういうことがあるタイプの人を、なぜあの人はあんなにドジなんだろう、と見ていた側だったはずだ。

テレビを点けっぱなしで出かける、電車を乗り過ごす、または反対方向行きに乗ってしまう、なんてことはままあるし、眉毛を書かずに出勤する、財布を会社に置いてランチに出かける、信号待ちの横断歩道でこける、バッグの中でお茶がこぼれる、グラスに入っている水を口につける前に傾け過ぎてこぼす、書道教室に筆を持って行き忘れる、洗剤を買いに出かけてすっかり忘れて花を買って帰る、会社に家の鍵を置いて帰る。
無銭飲食なんて犯罪ではないか。
もちろん、3分で戻ってきますと伝えて走って会社に財布を取りに戻ったが。

昨日は、鍵一式を置き忘れたわけだが、せっかく早く帰ったにも関わらず家のオートロックでそれに気づき、往復1時間半強をかけて取りに戻った。
ギターを練習しようと思っていたのにようやく部屋に入れたときには疲れ果てていた。
火の消し忘れとかホームに転落とか、取り返しのつかないことだけは避けたい。

「志を持った人の元で、その人の志や夢が叶うように仕事をしたい」と本気でそう思っていたことは確かなのだけど、本当にいよいよそれが疑わしい。
最近そんなことにしか頭が回らない。

そんな折、書道教室の帰りがちょうど一緒になったのと、路線が一緒だったので、ある先生とその道中に少しだけ世間話ではない話をした。
書道の先生方とは私が教室に入ってからもう何年も知り合いなわけだけれど、教室で教えてもらうのとほんの少しの世間話をする以上話をしたことがなかった。

書道の世界が、師への崇拝や協会への忠誠心、のようなことは多少はある世界だと思う。
私は先生方は書道的に本当にすごいと思うし、私は元々先生のパフォーマンスに見惚れて一発でこの教室にすると決めたという経緯はあるけれど、崇拝するつもりも媚びるつもりもさっぱりないものだからたぶん先生方からすると失礼がたくさんある生徒なのかと思う。

帰路をご一緒したその先生は、自分のやりたいことと実際にやっていること、今いる教室との考え方の相違を話してくれた。
先生の家庭環境や師弟関係などを考えると色々とあるのだろうと思っていたが、やはりロックな考え方をしていた。
私の最寄駅に着くまでの15分ほどを話して、「是非先生のやりたいことやってください!」と電車で別れる。
是非、もう一度改めて聞いてみたい。

正直なところ、書道で何か、というのは私は考えたことがなかった。
今も特段、どうということは思っていない。
ただ今は可能性を探る、という意味で教室の開塾指導講座なるものに申し込んでみる。
どうにも、やることでしか、私はわからないみたいだから。



逆三角形

2013-04-09 23:08:19 | 日記
逆算をすると、土曜日までにとても7枚のDVDを見られそうにないので、試しに朝に見てみることにする。
私はいつも朝、20~30分くらいはコーヒーを飲みながらはなまるマーケットを見ながら音楽を聞いている。

ということで朝から「デスパレートな妻たち」を見る。
一話35分程度なのでやはり見れた。
朝にああいった内容がどうかと思ったが、朝も夜もさして変わらずテンポがいいので次が見たくなってしまうことには変わりがない。
とりあえず、今週はそのようにしようと思う。

ちきりんさんという実体が公には明かされてないブロガーが書いているビジネスマンに有名なブログを私も漏れず読んでいる。
私は仕事に役立つからというブログを好き好んで読むことはしない。
というか、それだけの理由で私は興味のない文章を読み続けることができない。

ちきりんさんは、文章がとても論理的で内容に一貫性と先進性がある。
そして、物事の捉え方と刺し方が鋭くて簡潔でとても分かりやすい。
池上彰の大人用簡略文章版、と私は思っている。
感じ入るようなことは書かれていないけれど、読み入ってのち、自分の考え事や行動に派生するきっかけを与えられることが多いブログである。
いいこと言うなあと、そう思って愛読させていただいている。

私はちきりんさんの執筆した本も買った。
紹介されている本も興味があれば買う。
ただ、この方を通じて買った本で「ものすごく良い」と思ったことは今のところ、ない。
書籍にするほどの長文でなくブログの1記事程度の量がちょうど良いようで、ちきりんさんの歯切れの良い文章を長文にするのは、その歯切れが長文ゆえに失われてしまうのだと思う。

ライターが数人いて記事を書いているという噂もあるみたいだが、私はこの紫のイラストの方がお一人で書いているものだと信じている。
この内容の一貫性や雰囲気を複数人のライターが、意図的に1個人に見えるようにコントロールして書いているのだとしたら、そのライターの方々は本当にすごいと思う。
書き手が本当にそう思っていないと書けない文章、というものは、あくまで読み手主観で、存在すると思うが、それがこの方の文章にはあると思う。

文章というのは、呼吸が関係していると思うし、単に敬体と常体を変えたり口調を操ることはできても、書き手から匂い立つ消せない何か、というものがあると思うのだ。
それがちきりんさんのブログで違和感を感じたことはない。

話は逸れるが、匂い立つ消せない何か、というのがおそらく“自分”というものなのだと思う。
文章然り書道然り絵画然り、何かしら表現物は、その“自分”をカモフラージュするのは技術でできるのだと思うけれど、それでも匂い立ってしまうものがある。
どんなに技術のある書家が法帖を臨書しても、法帖通りにならないのは“自分”が乗っかってしまうからだ。

まあ私の場合は、最近の私は特に、呼吸の赴くまま強く匂い立つ方向に、あえて意図的に、その練習という意味も込めてしているので気持ちが悪いくらいになる。

今日の記事を読んでまた、考えるのである。
自分の何かを生業にして食っていける、ということは、何にせよすごい。
とてもとても尊敬する。
ただ、食っていける、その先にあるものがおそらく本当に大事なものなのだと思う。
その本当に大事なものを手に入れるために、必ずしもそれに関連した何かを生業にする必要はない。
しかし、たぶんその本当に大事なものというのは、膨大な時間と労力の要ることで、ただの片手間で手に入らないだろうとは思う。
だから、その先の本当に大事なものを確かめずにいられなくなった人が、それを生業とするのだと思う。
そうでなければ、楽を作り上げる様々な小物で自分を飾り立てれば良い、気の済むように。

の前に、その先の本当に大事なもの、がある程度明確である必要はあって、それを知るまでがまず恐ろしく骨の折れることなのだと思う。