つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

溶け出したい武装

2013-04-08 21:59:35 | 日記
週末にけいこが急に来るというので、予定を空けたら、姪が熱を出したとかで結局日曜日だけ私のところへ来た。
けいこはここ1,2年、「あんたの顔が見たいから」とか「しばらく声聞いてないから」と直接的に言うようになった。
けいこも私も、うちの家族みんな、よほどのことがない限り、電話をしない。
けいこの一人暮らしは自由そうだし、とはいえ人間関係は色々とあるだろうし、孫も2人生まれて、その上元々多趣味であるのでけいこが暇で孤独であるという心配は一切していない。

いもうとに子どもが生まれてそちらに頻繁に行くので、私が僻んでいるとでも思っているのだろうか。
確かに、幼い頃病弱だったいもうとの世話を焼いているけいこに私は無言の嫉妬を抱いているタイプであったから、そう思って私のことを気にかけているのだとしたら頷ける。

私がフルーツが食べたいといったから、イチゴとキウイ、オレンジを重いと言いながらやって来た。
ヨーグルトは頼んでないのだけど、ヨーグルトも買ってきたから確かに重そうである。
私の部屋に着いて間もなく、ヨーグルトにイチゴを入れて食べたいと言う。

一緒に出かけて「味が濃いめだね」と言いながら親子丼を食べて、コーヒーを飲みながらいもうと宅までの地下鉄での行き方を説明し別れる。
私はその足でふらふらと買い物に出かけた。

先週の「深夜食堂」のDVD6枚を土日で軽く見終わってしまったものだから、調子づいて10枚もレンタルしてしまった。
ただ、今週は仕事が先週より色々と予定があって忙しいのに加えて、書道の毎月の提出日と展覧会の締め切りも近いので10枚は厳しいことに気づく。
うち4枚は「デスパレートな妻たち」だから空き時間に気軽に消化できるだろうと思っていたが、土日が終わってレンタル期間が3泊の新作「桐島、部活やめるってよ」と「夢売るふたり」と「デスパレートな妻たち」を1枚しか消化していない。

見ずにそのまま返却した経験はこれまで3回ほどあるが、やはり意地でも見ようとしてしまう。
ただ、そんなことで自分を圧迫して睡眠不足になったり、提出物が適当になったりして一体何をしたかったのだということになって、どの方向に考えても落ち所を見いだせない。
書道の提出物だって、毎月毎月訪れることで、やっぱりそれに圧迫されてどうするのだと思う。
しかし自分が圧迫されるくらいの一生懸命をやってみろよ、とも思うわけでこのあたりが私の覚悟のなさである。

DVDは事前に予定を確認して借りよう、というしょうもない結論しか出ない。
借りた後に言っても仕方ないので、でき得る限り観たいと思う。

「桐島、部活やめるってよ」と「夢売るふたり」はとても良かった。

「桐島、部活やめるってよ」の高校生の実態のリアルさや既視感は怖いくらいのものだった。
私は高校生のときに初めて、自分の考えていることを話して伝わるという快感を知ったから、高校時代はある意味私の人生の一次転換期でもあるのだけど、自分については客観的に考えているようで全然考えていなかったように今は思う。
あのとき確かに感じていた様々な違和感や言動の元となっている思いのことや、必死さだけは認めるけれどただのカッコつけだけをしていた自分がかわいそうでもあり少しだけ微笑ましい。
何にせよ、人間はその時思っていることが、その時の自分の本物だから、後々にかわいそうと思えることの内部にいて疑ってないのは仕方のないことなのだけれど。
きっと今の私だって、何年後かに変革や解体や表出という名の自己成長を遂げることができていたとしたら、今現在のことをちょっとかわいそうで鳥肌が立つくらいに恥ずかしくて微笑ましく思うのかもしれない。

と話が逸れたが、高校という集団の中における様々な立ち位置が、それぞれにまだ湿っているかのような生々しさと一緒に映し出されていた。

映画的に象徴的なクライマックスも、それがあるきっかけとタイミングを得ると実際に起こり得るものだということも今なら理解ができる。
映画の作り手側が、映画的クライマックスをああいう風に描きたい気持ちも今なら何となく想像ができる。

これは現役高校生が見ても分からないのではないだろうか。
分かるとしたら神木龍之介の演じる前田たちのポジションにいる人たちだけなのではと思う。
間違いなく、私が高校生だった時、あの映画は心地悪いだけのものだったろうと思う。

「夢売るふたり」も、とても楽しめた。
まず私はたいてい面白い映画でも家で観ていると1時間程度で寝てしまって続きを起きてから見るのだけど、これは寝なかった。
そんな尺度もどうかと思うわけだけれど、眠かったはずの時間にも関わらず終わるまで寝られない、と思った。
私は演技について上手い下手が良くわからないのだけど、松たか子の演技力はすごいのだと思う。
実経験的に揺さぶられる内容では全然ないのだけど、ストーリーの進み方や物事の抉り方、それを炙り出す特徴的な脇役のキャラクター。

面白い邦画が好きだなあと思う。

「デスパレートな妻たち」ももうめちゃくちゃに加速度を増した前回シリーズからの勢いは落ちたけれど、相変わらず気軽で軽快なエンターテイメントである。
海外ドラマはこれで良いのだ。

深夜から私の部屋の床いっぱいに紙を広げて「情熱の薔薇」を書く。
はじめ、ブルーハーツをシャッフルして流していたけれど、曲に引っ張られてしまうので無音にして書く。

“良い墨の色”というものがあって、“良い墨の色”が出ない。
2枚ほど淡墨で書いて、仕方がないので、墨の色がさほど問われない濃墨で書く。

同じフレーズというのは書くのが難しい。
何とかして雰囲気を違えて書こうとする。
こういうときに物を言うのは、私のようなアイディアに乏しい人間は人の作品からのインプットになる。
展覧会の冊子をひっぱり出してきてインスピレーションを膨らます。

濃墨で書くと厄介なのは、墨がなかなか乾かないことだ。
1枚も広げるスペースはないのに、ベランダに出せるほど乾かないのでそのままにして切り上げ、シャワーを浴びる。
髪から滴る水で紙を濡らさないように気を配りながら紙を広げたまま寝る。

朝になって、すっかり乾いた「情熱の薔薇」をたたむ。
もっと広いところで、自分の好きな時間に、好きなだけ、書きたいなあと思う。

引っ越しのポイントは“広さ”は確定している。



新品のTシャツ

2013-04-05 14:12:55 | 日記
夜遅く帰宅すると、部屋の奥でテレビが光っていた。
私はいつも朝、音楽を流し、テレビをミュートにしてつけている。
なので度々、出かけるときに音楽を止めると音がなくなって、テレビを消し忘れることがあるのだ。

人からはよくテレビの音がなくては意味がないではないか、と言われるが、場の賑やかし効果と分単位で把握したい朝の時間確認の役割もある。
そしてたいてい「はなまるマーケット」を見ているので、音がなくてもテロップと映像で内容はだいたい分かる。

それにしても、暗い部屋でテレビだけが消音状態で動いているのは、不気味な感じがする。
動いているのに止まっている。
息を止めている状態みたいだ。

家の調味料が一斉に切れてしまった。
醤油、サラダ油、ごま油、みりん、酒。
いつでも買えばいいのだけど、スーパーに寄った時に食材以外にそれらのことを思い出せなくて、切れて既に2週間ほど経過する。
そのせいでつゆの素ばかりを使うので、うどんも炒め物も味が一緒になる。
また、炒め油にもオリーブオイルを使うのでどことなくイタリアンな雰囲気も全体に漂う。
ただ、仕方なく使用したオリーブオイルなのだが、昆布出汁と相性がいいのだなあと発見もあった。

ブルーハーツ以外のたくさん音楽のトリガーをくれた曲の入れ替えの出来ないiPod nanoをそろそろ投げ捨てようかと思っている。
最近あまりこのiPod nanoを聞いていなかったので、自分で手に入れられるものはそうしておこうと再度シャッフルして聞いていると、やっぱり身体の反応はパンクロックであるのだけど、他にも時々その他ロックだったりポップだったりにも反応する。
少し前に、The Stone Rosesを改めて聞いて少し反応したけれど、CDを自分で借りたり買ったりするまでには至らなかった。
また今聞いて、他のよりも反応するものだからアルバムを3枚レンタルする。
パックロックみたいにぎゅうっとなるわけではないのだが、脳ごとそちらに持って行かれるような感じがする。

今年のサマソニに来るらしい。
去年彼らは再結成したようで、フジロックに来ていたのだけど、1日目だったので見られなかった。
その時もその後も、さして興味はなかったが。
今年は、The Stone Rosesを見に行きたいなあと思う。
ZEBRAHEADとかFALL OUT BOYとかTHE HIATUSとかも、見れるのであれば見たい。

ちなみにちょうど去年のサマソニはGREEN DAYが来ていたのに、それが終わった頃急激に彼らが私の中に入ってきた。
今年の来日はないらしい。
私の場合好きになるアーティストのほとんどが、遅ればせながらどころの話ではなく、既に解散しているか年を取っているかだ。
それでも現存してやっていてくれるのであれば、やっぱりその今を見ておきたいと思う。
生を観たい、生を聴きたい。

フェスのことをちょっとだけ喋れるようになった気でいるが、フェス歴は去年のフジロックただ1回である。



ヘルシーボール

2013-04-03 01:07:37 | 日記
ギターを始めて3か月が経った。
なんとなく、コードが抑えられるようになって、コードと単純なストロークであれば何曲かたどたどしく弾ける。
ブルーハーツやハイロウズの曲はコード進行が単純だとよく言われるのだが、本当にそうで、A→E→Dが「月の爆撃機」で、A→D→Eが「終わらない歌」だったりする。
はじめ、Dも抑えられずにFなと到底無理だと思っていたのだが、まあできるようになるもので、なんとなくギター弾いている感じが出せるようにはなったので、成長したなあと思う。
がしかし、確かにギターの音が出せるのは嬉しいしそれなりにピンポイントに好きな音もあるのだけれど、もっとそれを自分で出したい!という衝動とまではいかない。
ピアノもそうなのだけど、3曲くらい簡単な曲をゆっくりでも弾けたりするとそんな序の口も序の口で私自身は満足してしまう。

ギターをほんの少しだけ齧って思うのが、「狭い!細かい!」ということである。
ギターの先生然り、それを自在に操る人を見ていると、本当によくもあんなに狭い弦の並びをそんなに早く正しく押さえられるなあと見入ってしまう。
ピアノのように鍵盤は太くないし全部を見渡せない、それに隣りの弦に指が触れてしまえば音は消えてしまうし、きちんと押さえられないとクリアな音が出ない。
強く弾けば大きく強い音が出るかというとそうでもなく、逆に弦の振動が他のフレットに触れてしまったりして、“かき鳴らす”というエレキギターのイメージは何だったのか、となる。

“とても正しく”やらないとだめな楽器なのだ。
それに、ピッキングだって、左手で弦を“とても正しく”押さえながらあんなに近くに隣り合っている弦を間違えずに弾くのは至難である。
第一ピックすら思うように持てないのに。

ただ仕組みやら難しさやらを少し知った上で、ギターを始めるずっと前に見たYouTubeの動画の「おしゃかさま」の一般人のギターを改めて見ると、本当にすごい。
RADWIMPSは好きではないけれど、これだけは動画も何度も見たし、曲として興味深くてよく聞いた。
もっとギターのことを知れば、このすごさももっとすごいと思えるのだろうと思う。

前にも書いたけれど、PCのタイピングが早く自在にできるのもすごいことだと思うわけだが、タイピングは後戻りができてそれを消すことができて、正しいものとして存在させることができる。
リズムもペースも個人の自由だ。
でも音は鳴ってしまったら消せないし、その時点で正しくなくなってしまうし、曲をやろうと思ったらリズムもペースもそれが再現できないといけない。

私はギターというか、楽器に向いていないんだな、ということになる。
なんにせよ、やってみて向いてないとわかるのは良いことである。
それに、ちょっとだけ、マーシーがやっていることがわかるようになったのはとても嬉しいことだ。
あんな体勢で弾いたり、弾きながら動いたり飛んだりできるのが尋常じゃないと思えるようになっただけでも嬉しいことだ。

それはそうと、1曲くらいはコードを弾くだけではなくマーシーが弾いている感じでコピーをしたいと思っているし、向いていないなりに楽しさはあるのでまだ止めようとは思っていない。
しかしながら、この前習ったことを家でやろうと思ったのに、3つのうちのチョーキングとスライド、もう一つが思い出せないという間抜けっぷりなのはどうかと思う。
そして、チョーキングする指が痛いと嘆きたい。
まあ焦る理由はない、ゆっくりでいい。

「物事を始めるときは、それが終わるときのことを想像しなさい、と糸井重里が言っていた」と友人が言っていたことがある気がする。
特に仕事以外のことは、自分の休息にも充てられるものに、時間と労力とお金を消費するわけだから、そのバランスが取れないと続けられない。
それに、止める、ということは別の労力がいることでもある。
それに、どこまで止めるのか、ということもある。

また、良さそうと思って一旦始めたことを手放すことは、なんとなくもったいないように思ってしまうものだけど、それによって自分を圧迫したり他に手を伸ばせなくなるようでは良くない。
しかし、判断のタイミングというのは難しいもので、やり続けることによってわかることもあるのかもしれないという可能性は捨てきれなかったりする。

収納を占めているコートをはじめとする衣類が、果たして本当に私を豊かにしているか。
と思って、時々服は大量に処分するのである。

カメラも花も、もっとお金も時間もかけてやってみたいけれど。

自分自身と自分の持ち物を消費して、自分のことを知る。

私は大学生の頃まで、文字通りの無趣味な人間だった。
仕方なく、趣味は旅行、と言っていた気がする。



進言餅

2013-04-02 14:39:35 | 日記
土日にそれなりに外出していたのだけれど、6枚のDVD「深夜食堂」を2日間で一気に観終わった。
甘いホットミルクのような、アサリのお味噌汁のようなドラマであった。

一話一話の出だしの映像とナレーションはいつも一緒だから、私は「カーネーション」を観ていたときに主題歌を飛ばすように、その部分を早送りをして観た。
それは趣のない見方だろうか。

その夜、ベッドの上でスマートフォンで色々と振り返りながら、飯島奈美さんの「LIFE」を買った。
丁寧な料理を作らない私が、丁寧な料理の本を買った。
丁寧な料理を作りたいと思うようになるといいなあと思う。

ちなみにけいこの肉じゃがは豚肉だった。
すき焼きは牛肉だった。
いずれにしても、どちらも私は自分で作らないし、肉は牛肉よりも豚肉が良い。

思い出というのが食べ物と一緒に色濃くあるというのはよくあることで、ある人にとってはものすごく良い思い出と食べ物が一緒にある場合も多いと思う。
その食べ物がものすごくおいしかった、という思い出に留まらず、誰かと一緒に食べた、とか、その場の雰囲気や景色だったりとか。
おいしい思い出というのはそのままイコールで幸せな思い出である。
ただ私には、食べ物にまつわるあまりよろしくない思い出というのも結構あったりする。

時系列を無視して今何の気なしに、すごくおいしい、すごく幸せな、を思い返すと、こうなる。
ちょっとだけ、飯島奈美さんのメニュー名風に。

フランスの公園で食べた、甘酸っぱい本場タルトシトロン。
ブラッスリー・グーの、誰でもリアクションが簡単な、とろける牛肉の煮込み。
ある人が作ってくれた、なんでこんなにおいしいの、の塩焼きそば。
翌日の昼下がり、ひとり陽だまりの中で食べた残り物鶏肉のミルク煮。
佐渡島帰りの新幹線、こんな風味は初めて、の栃餅。
つぼみちゃんが好きだから、と頼まなくても出してくれる板長味の野菜の炊き合わせ。
冷たい風の中で妹と分けた、熱々の今川焼だったか、肉まんだったか。
どうしても食べたくなるタイ料理、喉に少しの辛みが残るグリーンカレー。
今はなき中野のパン屋さんの、できたてほやほや、ほわほわメロンパン。
セブンイレブンの、はじめて大福に優しくされた、抹茶大福。

妹と分けたのが熱々のどちらかだったのかは思い出せない。
すごく寒くて、寒い中で食べたあの熱々のどちらかが喉を通って身体を温めたという記憶だけが濃い。

これを見て思うが、傾向があまり定まっていない。
ひとりなのか誰かといるのか、ごはんなのかデザートなのか、和なのか洋なのか、味付けなのか素材なのか、立っているのか座っているのか、それを繰り返し食べているかそうでないか。
様々なのである。
一つ言えるのは、小麦粉を使ったものが多いようには思う。

あと、すべてここ数年の間のものである。
幼い頃にそういう経験があったもよさそうなものだし、遠い記憶だから、というだけではないように思う。
感じることを封印していたということであれば、まあそういうことなのかと納得がいく。

ちなみにお酒類で、そういうふうに、ものすごく美味しいと思ったことは一度もない。

それにしても、けいこが作ったものがひとつも出てこない。
思い出せないわけではないのだけど、すごくおいしい、すごく幸せな、という形容詞を付けると入れられないのだ。
自分で作ったものは鶏肉のミルク煮だけであるが、あれは重要なのは「陽だまり」であるかもしれない。
あと、卵かけごはんや納豆ごはんなど、いつ食べてもそれなりに美味しい、というのはあるのだけど、こうして「すごくおいしい、すごく幸せな」と思うと外れてしまう。

私の五感の中で今のところあまり重要視されていないのが味覚であるのだけど、たぶんすごくもったいないことなんだろうなあと思う。
「何が食べたいか」とか「これは美味しいのか」とか、味わう、ということは気にかけたらもっとできるようになるのだろうか。