つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

運動会日和

2014-05-17 13:06:01 | 日記
初めて寄席を観た。

マーシーは寄席が好きで、柳家三三さんと春風亭一之輔さんの寄席のゲストとして来るなんて言うものだから、もう是非とも行きたかった。
チケットを入手するために、発売の時間から私も電話をかけていたけれど全然つながらなくて、結局友人のお母さんが1時間くらい電話かけ続けて2枚のチケットを取ってくれた。
この寄席は、三三さんのファンも一之輔さんのファンもチケットを取れなかったであろうと思う。

集まった人々は、いつもライブ会場で見る感じの人たちばかりだった。
いつもはライブTシャツを着ている人たちが、今日は寄席だからとおめかしをして来ている感じがちょっとくすぐったい。

ちなみに、「好きな人が同じ」という、「趣味が同じで話が合いそうな」人たちが何度会してもファン同士の交流というのはほとんどないと思われる。
私は元々どこに行っても、そういう場で社交的ではないからしないけれど、熱狂的なファンというのは「私の方が好きだ、私の方が理解している」という張り合いをしてしまいがちなので自ずと避けるのだと思う。
「ロックミュージックが好き」という人とは友達になって話したいけれど、「ヒロトやマーシーが好き」という人とは、事が繊細過ぎてまた大きすぎて私は一人の友人以外にはしたくない。
こちらが一方的に話すなら良いけれど。

今マーシーを追いかけてライブやらトークやらを見に来る人たちは、「ロックミュージックが好き」ということをよりも「マーシーが好き」ということが先に立ってしまう。
だからマーシーの出演にそわそわしてしまうし、ついゲストのマーシーに「マーシー」と叫んでしまう。

会場は寄席が行われるのにほぼマーシーのファンで埋め尽くされてしまったけれど、それでも、好きな人を通して異文化を知れるというのは貴いことだ。
好きな人が好きなものや、影響を受けたものは知りたい。
そこから、それが自分にとってどうかを自分で判断すればよい。

チケットについていたワンドリンクのビールで、私は酔っぱらってしまって、一之輔さんの話が全然分からなかった。
話の途中で、何度もなんでその話になっているのだ?とぼわんとする頭で一人考えて、周りの人の笑い声を聞いていた。
友人に「ところどころ難しいね」と言うと、「え?」という顔をされた。
友人曰く、全然難しい話ではなかったらしい。

酔いが冷めてから聞いた三三さんの話は、一之輔さんの話よりは分かった。
しかし、初めて寄席を聞いた感想は、本を流しながら速読しているよう、だった。

私は本を読んでいるとき、字面だけを追っていて内容が頭に入ってこず、ある地点で巻き戻して読むことがある。
また、ある地点のフレーズなどが気になって派生して違うことを考え始めてしまったりする。
自分で読んでいるのなら、巻き戻しも停止もできるからいいけれど、他人に、しかも速読してもらっているとそれを止めることができない。
だから、途中で文脈が途切れてしまって迷子になってしまう。
挙げ句、噺を置き去りにして、こんなに早口で延々30分も芝居をしながら話し続ける芸当はどのように訓練されていくのだろうとか考え始めてしまう。
集中力がないのである。

しかしおそらく、寄席の素養を身に付けたりスピード感に慣れることによって、噺そのものや寄席自体をもっと楽しめるようになる気がする。
技術を知ることで、敬意も大きくなる。


家に着くと、百合の花が大輪を咲かせていた。
部屋中に白い花の艶めかしい香りが満ちている。





妄想の湖

2014-05-14 15:30:54 | 日記
朝もやの中ゴミを出しに行くと、またハノイの情景が蘇った。
朝もやの滲んだ空気感だけがそうさせるのではなく、今住んでいる建物の古い鉄骨の匂いがそうさせるのかもしれない。
同時にいつも、フランス語の「アパルトマン」という言葉が思い浮かぶ。
外見はちょっとだけ可愛らしくて、古くて、暗くて、埃っぽくて、中に入るとキッチュに可愛い、私の勝手なそんな感じのイメージ。
旅中に宿泊していたハノイの宿はそんな感じだった。

そもそもハノイだったのか、ニャチャンだったのか、ホイアンだったのか、よく考えると全然定かではない。

今住んでいる建物は、前まで住んでいた所謂都会のマンションという感じの整然として清潔な共用部ではなく、住居なのか事務所なのか見まごうような雑居ビルだ。

家に来る人が、口をそろえて「変なところに住んでいるね」と言う。
この部屋を探すとき数多くの物件を見るのにとても疲弊してしまって、最終的には、広さ、空気の抜け感、あとはインスピレーションを重視していたので、その他の部分は私にとってはさほど問題ではなかった。

本当に良いところを見つけられた、と思っているのは今でも変わらないけれど、私はこの住居のヘンテコなところを今さらながら「あぁ変なのかもしれない」と思い始めた。
もちろんヘンテコな部分を認識してはいたけれど、何度も人に言われるので、改めて一歩引いて我が部屋を見てみるとその変さは「確かに」と思うのである。

鍵のない郵便受けや、事務所感たっぷりのガラス扉に押して開く式の取っ手、業務用の大型のエアコン、無理やり配置したお風呂とキッチン、洗濯機置き場、網戸のない窓。
キッチンの隣が洗濯機置き場だし、そのすぐ目の前がお風呂だ。
業務用大型エアコンの空気が届くように、寝室との仕切りの壁は天井が15cmほど空いている。
扉は見えないようにモザイクシートを貼っているし、さらに暖簾のような布も掛けている。
ベランダがないので洗濯物は全て部屋干しだ。
一階はかなり古くからありそうなガラス屋さんである。
大家さんに自転車置き場と案内されたところは、隣の敷地との狭間の電気メーターがあるただの草の生えたスペース。
あとこれはヘンテコなところではないけれど、テレビの受信状況が良くなくて、特に昼間は映らないチャンネルも多い。

これからの季節、網戸は欲しいなと思うくらいで後のところは特に問題はない。
先日した模様替えせいで、ソファスペースまで結構距離があって遠いけれど。


ある種の人間性の近しさを持った人と出会うと、お互いの匂いを確認し合って嬉しくなる。
同時に、それが本当は幻想であることのリスクヘッジをしてしまう卑しさと、その近しさの部分への切なさも抱く。
偏見に満ちた見方と接し方を取り払いたいと思ってできる限りそうするけれど、まずは自分への偏見を取らなければならないのだとも思う。

その人は、自分が価値観を変えるほど影響を受けた曲、を謙虚に教えてくれて、それは私が好きではないヒップホップのものだったけれど、その人にとっての影響度合いというのは十分に推察することができた。
私のそれも教えたら、その曲に対するとても新鮮で素直な感想が返ってきた。
さほど自覚がないであろう素直さに、感じたことのないようなハッとする感じを覚える。

最近よく、自分の期待とも思える、現実の続きのようなとてもリアルな夢を見る。
私の強欲さは、安全な場所にぶつけられて、空を切っている。





完璧なとき

2014-05-11 15:15:45 | 日記
はじめて自分で丸のままのごぼうを買った。
過去に、きんぴら用にカットされているごぼうは何度か買ったことがある。

別にごぼう自体は特別好きでも嫌いでもない。
ただ、土だらけのごぼうを見て、そういう食べ物を自分で料理してみたいなと思った。

シンクで、アルミホイルでこすって土と皮を落とす。
土の匂いが立ち込める。
たわしで洗う、とどこかに書いてあったけれど、たわしは持っていない。

細切りにして水にさらし、ついでに人参も細切りにする。
ごま油をで唐辛子と一緒に炒め、砂糖、醤油、みりん、最後にすりごまをぱらり。

砂糖は、醤油とみりんの前に入れて、そこでよく炒め合わせて甘味をぎゅっとごぼうと人参に入れることがポイントです、とどこかに書いてあったのでそうする。
調味料を入れる順番の、さしすせそ、には理由があって、砂糖は分子が大きいので素材に染み込みやすく、後の調味料も染み込みやすくなる、とどこかに書いてあった。
私の技術の身になっているかどうかはさておき、料理過程のポイントを知るのは結構好きだ。

未だに白菜が売っていると買ってしまうので、いつもの白菜の煮物も作る。
あと最近定番になりつつあるもやしのナムル。

ごはん、納豆、白菜の煮物、きんぴらごぼう、もやしのナムル。
鍋の関係で今日はお味噌汁はない。
それにしてもなんだこの健康的な副菜ばかりの献立は。
きんぴらごぼうは随分と歯ごたえがあって少々甘みがぎゅっとなり過ぎていたけれど、武骨な感じが美味しかった。

自分が喜んでくれるものを自分で作れる、というのは料理はてっとり早い。

しかしごぼうも人参も細切りにするのは面倒だった。
ピーラーでささがきでも歯ごたえがそれなりならば次回からそっちにしたい。


グレイズアナトミーのシーズン9は少し面白味に欠けるものだった。
もう既に主要登場人物全員が何らかで命の危機に2度くらいずつさらされているし、中には死んでいる人も何人もいるし、体内から爆弾は見つかるし、無差別発砲事件は発生するし、飛行機は墜落するし、正体不明のウイルスは出てくるしで、さすがにネタが切れてきたのだろう。
アクションドラマではないのにも関わらずこんなにもどんちゃんやられると、観客が刺激に慣れてしまって、ちょっとやそっとのことでは驚かなくなる。

主人公たちはそもそもで持っているトラウマに、新たなトラウマを上塗り上塗りに重ねていき、それを友達や恋人、家族と一緒に乗り越えていく、というのがこのドラマの基本筋だ。
加えて、舞台は病院であるから、当然ながら命に関わるテーマも基本筋だ。

喚き散らす、怒鳴り散らす、という場面がよく出てくるのは国民性の違いだろうし、「自分が最も大事である、そしてできれば君と一緒にいたい」という人間関係のあり方は、見ていて苦しさと美しさの両方がある。
相手のすべてを受け入れる姿勢で、それでも自分の核の部分と違うのであれば、それはたとえ擦れ合ったとしても自分を折らない。

最終話、クリスティーナがオーウェンに言った言葉はとても印象的だった。
「あんたは本当に私だけで満足?」

子どもが欲しくないクリスティーナは、オペをすることが自分の本物の生きがいであると感じている。
過去に既に二人の間にできた子どもを堕ろしていて、そのことで危機的な状況に陥ってもいる。

それを乗り越えたように見えた二人であったが、しかしながら暫く経ってさまざまなことを通じて、オーウェンは子どもが欲しいと心底で願っていることにクリスティーナは気づく。
オーウェンはそのことを口には出さないし、本人も気付いていないかもしれないが、その根源的な欲求は行動として滲み出てしまっている。
しかし、クリスティーナは自分はオペをする度に、生きがいという興奮を得る人間であることも自覚している。

二人は確信的に愛し合っている。

「本当はどうしたい?」「本当に満足している?」
という究極の質問は、他人に問いかけることはできても、その答えは本人しか持ち得ない。
愛していることが本当で、奇跡的に紛れもないことだとしても、「自分がどうしたいか」ということは愛する人でさえなしにして考えるようなことだ。
それがずっと過去に置き去りにされて風化しているようなことでも、叶わないかもしれないことでも。
強い気持ちで、独立して目指さないと“本当の満足”など訪れない。
そんな自分の欲求に気が付くことは、死ぬほど幸せなことであり、死ぬほど怖いことでもある。

全ては、自分が“本当の満足”行きつくため。


「そして父になる」
「ゼロ・グラビティ」

「ゼロ・グラビティ」を観ている途中で寝てしまって、ふと起きたら宇宙でもがいていたはずの主人公が湖に上がっていて驚く。
寝てしまったところに巻き戻して再度観る。

考えることはほとんどない。
絶対に「生きる、地球に還る」という執念を、宇宙空間という壮大な非日常世界で貫く。
これは是非大きなスクリーンで観たかった。


久しぶりに開いた酒井若菜さんのブログが更新されていた。
彼女の心は、私とはかけ離れているように思うけれど、とても興味深い。
そしてその文章表現は本当に頭が下がる。
発想力において出色の表現というよりかは、気持ちや情景や真理的事柄の表現がとても微細である。

ファンが読んでいるブログであって、「心がおぼつかない夜に」というブログの総集本も出ているくらい、そういう辛い状況にある人が読んでどこかの方向から元気づけられるように、というコンセプトの下に書かれているものだ。
それは真っ向から相手を励ますという体ではなくて、彼女自身の辛いことを、核の部分を隠したままある程度まとまった形でさらけ出す、という方法で行われる。

内容は現実よりもずっとライトになっているだろうけれど、彼女本人がここにいます、という一種の主張が文章の基盤として存在している。
共感という感じは私は全然持てないけれど、その個人の露出を叶えている表現力、努力といってもいい、に私は少し気持ちを奪われる。





なかったことに?

2014-05-08 13:50:12 | 日記
嬉しい、東京は嬉しい。

実家であまりにも時間を持て余したので、美容院に行って何年かぶりに髪を染めた。
色味が明るくなって軽くなったら、存在感が薄れたような感じがした。

地震で花瓶が倒れいているのではないかと随分心配していたが、部屋は何事もなかったかのように固まったままだった。
実家でよく眠れなかったので4時間ほど一人掛けのソファでものすごい体勢で寝て、その後ベッドでまた寝た。

依頼された書を渡しに行く。
都内を自転車で走るのが好きだ。
人や車が多くて走りづらい道も多いけれど、自転車ひとつで、自分の力で、あちこち行けるのは楽しいことだ。

最近よく大学の付近に行くので、大学が懐かしいと思うことは薄れた。
しかしキャンパスの増改築で大きくて立派なプレハブで視界が抜けないのには慣れない。

人に差し上げる書は、やはりそれなりに苦心する。
課題として教室に出すのもそれなりに頑張るけれど、先生が評価するのは私が良いと思うものと違ったりするのであれもこれも持っていく。

しかし差し上げる書は自分で一つに決めなければいけない。
要は基準は私、ということになる。
それなりに気に入るもの、収まりの良いもの、自己満足に及ぶものを出さねばならない。
誰も分からない勝手な満足だとしても、それなりの満足には到達せねばならない。

自分の句も1句入れて、今回5句を書いたのだが、実は全部で300枚くらい書いている。
決して嫌ではなくて、好きでやっていることだし、むしろ修行のような感じでありがたい。
がさっと半紙の束を取り、イメージ上の構成を書いていくのだが、どうにも収まりが悪く行ったり来たりで、何度もがさっと半紙の束を取り直して書き続けた。

所詮私の技術や想像力がそんなものであることは重々承知しているけれど、途中まとまりが見えないととても不安になる。
終われないかもしれない、差し上げることができないかもしれない、と思う。

血が出るほどの努力とは全く言えないけれど、結局その日は深夜3時くらいから始めて寝たのが朝8時だった。
なんとも清々しい朝だった。

すんなり出来てしまうこともあるし、そうでないこともある。
俳句を書くのは字数が少ないので、バランスの面で行くと短歌を書くより難しいように思う。

立派な額に入れていただくと、見栄えが良くなる。
表装までのイメージもあれこれ浮かぶ。
表装は面倒極まりないけれど、裏打ちして表装までやって完成という域もあるだろう。
もっと言えば、それを飾る空間までやって完成という域だってある。

ギターだって、ピックで弾くのもままならないうちから指でやるのはやめようと思っていたけれど、指で弾くのも全然違って楽しいかもしれないと、ほんの少しだけやってみて思う。

どこまでやるか、何をやるか。
は重要だし、決めるのは難しい。


「さて今日の お八つは 草餅桜餅」 たかじの句
私はこの句は「むふふ」という作者のひとりの楽しみのうきうきとした心情が伝わってきて好きである。
楽しみを目の前にする、楽しみなことがこれから起こる、という状態はとても好ましいことだ。





どうか立っていて

2014-05-05 22:57:16 | 日記
緑は目に染みるし、食材はおいしいし、姪はかわいいし、髪の調子はいいけれど、つまらない、やはりつまらない。
世間に流されるがままに実家に帰ってきた。

これを思うのはいつものことだけれど。
本当に、一泊以上はいたらダメだ。
あらゆることを選べない、存在を気にされることなくひとりで居ることができない、なんて耐えられない。

つい先日、中学校の頃の同級生から電話をもらった。
いつかの同窓会か成人式か、それ以来会ってもいないし、そもそもちゃんと話したこともないような人。
東京に住んでいる別の友達を介して、私に連絡をしてきたのだった。

彼は、生粋のヤンキーだった。
学ランは変形のものだったし、金髪に染めていたし、バイクで学校に来ていたりしていたし、他にどんな悪さをしていたのかしれない。
私は彼らのことをあからさまに怖がることもなかったけれど、できれば関わりたくないと願っていた。

というか、私はその頃の思い出は断片的にしか思い出せないというか、まだあまり向き合っていないので詳しいことは自分でもわからない。
だから、彼の人間性についてもほとんど知らないし、かと言って激しく乱暴していたような記憶もないので、本当は悪さなどしていなかったのかもしれない。

別の友達は彼とずっと仲良しで、私はその友達から彼がとても良い奴で真面目に仕事をしていると何度か聞かされていた。
結婚して離婚して再婚して、いまの奥さんとの間に子どもがひとり、7年前から介護の仕事をしていて2、3年前には介護士の資格も取っている、話のできるあったかい奴だよと言っていた。
だからなんとなく私の中には、軽薄だけれど、彼に対する尊敬の念みたいなものが薄っすらと作られていた。

しかしながら、正直なところ、私は彼と話すのは少し緊張する。
ものすごく独りよがりだけれど、お互いどこか嘲笑ってしまうのではないかという私の勝手な想像で。
彼のヤンキーだった頃の本物の鬱憤みたいなものがあるのであれば是非に聞いてみたいし、今の彼の現状も興味がある。
でもあの頃の私は私なりに多分に“カッコつけて”いたし、勉強もそれなりにできた。
そういう人に対して「真面目腐っちゃって」と思われているのではないかとか、「東京気取っちゃって」とか。
私は私で「ヤンキーだったのに大人になって」というような何とも上からの視線をかけてしまいそうなのだ。

そんなものは今更なのだが、思い出すのさえ骨が折れるあの頃を、他人を介して潜り込むのはちょっと怖い。

彼は電話で、30歳を節目に皆で集まりたいと言っていた。
「こっちにおる奴らも未だにつんつんしとる奴らも多いもんでつまらんじゃん。そんなん今更だらぁ。今会ったらぜってぇおもしれーって。」
という彼の発言は、おっしゃる通り、という感じだけれど、彼の中のあの頃というのはどのような位置づけなのだろうか。

人と人との繋がりは、どちらかからの能動的なアプローチ以外には成り立たない、と私は強く思っていて、基本的に一体一の関係しか持たない私にはコミュニティの集まりは苦手である。
それはたぶん今後も変わらないように思うけれど、自分を知るという意味ではこれまで考えるのを避けていた居心地の悪かったあの頃にきっかけとして突っ込んで見るのは、もしかすると激しく何かが動くかもしれないなとも思う。


明日はけいこと一緒にギターを見に行く。
その後、側溝清掃を手伝えと言われている。
私の嫌いな種類の虫が出ませんように。