つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

オートメーション

2015-02-17 13:34:07 | 日記
しいたけを捥ぐ。

もぎたてのしいたけ。
もぎたてのしいたけはスーパーで売られているものよりもしっとり。
もぎたてのしいたけを鶏肉と葱と一緒に煮込む。
もぎたてのしいたけに火が入って、しょうゆとみりんでつるっと艶々。

もぎたてのしいたけ。
もぎたてのしいたけは肉厚ぷりぷり。
もぎたてのしいたけは軸まで難なく食べられる。
もぎたてのしいたけに纏ったしょうゆとみりんは負け気味に、もぎたてのしいたけの存在感。

しいたけにカロリーはほとんどないと言う。
しいたけは菌からできていると言う。

糖質とたんぱく質と脂質がエネルギーになる。
菌類は有機物を分解して無機物にする。

そんなことをタイプしている私の爪先が真っ赤なのはなぜなのだろう。

今まで、原木からしいたけの香りがうっすら漂っていたのに、それがなくなった。
菌がいなくなってしまったのだろう。


大切な友人の子どもが産まれた。
みんなたった1回しかない正真正銘の誕生日。

彼女がお母さんになることは、私にとってとても嬉しいことで。
「いいお母さん」ってなんなのか、そんなことが分からなくても、彼女は「いいお母さん」になる。

彼女も赤ちゃんも痛かったのかなとか、想像してみるけれど、そんなことは分からない。
彼女も赤ちゃんも幸せなのかなとか、想像してみるけれど、そんなことは分からない。

でも、私はこれからも勝手に想像するだろう。
勝手に「東京のおばさん」に名乗りを上げるだろう。

おめでとう、0さいのおたんじょうび。


いつもより短い手紙で二月過ぐ




六本木のお天道様

2015-02-16 02:27:24 | 日記
私はどこに行っても決して態度が小さな方ではないので、「堂々としているよね」と若干の皮肉混じりに言われることがある。
確かに、誰かと話すときに必要以上に緊張していることは、最近は特に、あまりない。

ただ、私が喋りまくるのは、時に防御のためであることも多い。
あと、1対1ではなく、複数人対私、という状況は、昔から酷くひどく苦手である。

そんな懸念していた仕事を、なんとか結果良く終えられて胸をなでおろしている。

もっと前に、上手くいかなかった日、それを引きずったまま帰ることがどうしてもできなくて、とても珍しく一人でお店でお酒を飲んだ。
一人では多いなと思うイカの肝焼きとアボカドのパスタをもくもくと食べた。
別に全然泣きたい気持ちではなかったので、ただもくもくと食べた。
もくもくと食べるには、イカの肝焼きはちょうどよかった。

そう言えば、私は「やけ酒」というものをしたことがない。
自制心が働いているというよりは、どちらかといえば「やけ食い」の方に走ってしまう。
「やけ酒」するほど酒を自分に煽ることが好きではないのもある。

そんなことを経て、今回なんとか上手くいったのは、それに対する「慣れ」と、私では何ともしようがないめぐり合わせが要因であると思う。
きちんと自覚的であれば、場数というのは、必ず役に立つものである。
逆に言うと、場数を踏まずして人前でする何かが上手くなれることなどないのかもしれない。

目の前の人が自分に対して嘲笑でない笑いを向けてくれるのは、何であれ嬉しいと感じるものなんだな、と思った。
そのためだったら、誇張して芸のようなこともしたくなる。
まあ、嘲笑か否かは最終的にも分からないものだけれど。

他人が喜んでくれればそれでいいなんて毛頭思わない。
「人が喜ぶ顔が見たい」ということを第一に仕事をすることも他人に尽くすなんてことも絶対にしない。
例えばそういう側面があったとしても、「人が喜ぶ顔を見て、私が満足したい」という言い方しかしない。
ただの屁理屈と言われるかもしれないが、これは私がとても重んじている考え方だ。

原理的に言って、全て主語は「私」であるはずで、総合的な地点で「私」が喜べばそれでいい。
「私」は何で、どういうことで喜ぶのかを、「私」は全部は知らないし、「私」は刻々と変わるので、いつもフラットに「私」が「私」を観察するまでである。

このことを考えるときいつも、「認識するものを認識することはできない」と言った、「梵我一如」の哲学で知られるヤージュニャヴァルキヤという人のことを思い出す。
哲学は全然詳しいわけではないけれど、私のロックンロールの体験を説明する一つの考え方であるようには思っていて、しかしながら、この説明をするには私の解釈があまりにも拙すぎて、説明が伝わったことは今まで一度もない。


また、高校の友人と駅のあたりでばったり会った。
私が1年半ほど前に住んでいた街に、1年ほど前に上京し越してきた友人。
数か月前にも同じ駅でばったり会った。
お互いよく利用する駅だけれど、こんなこともあるものなのか。

少々立ち話をして、「また会える気がするね」と言いながら、「いや今度は約束して会おう」と言って別れる。
ぜひゆっくり話したいのだけれど、生活時間帯が人とずれている上、一般的な休日である土日に忙しくしている私は、自分のスケジュールを眺めて、なんと人と予定が合わせづらいのだろうと気付く。

いもうとが誘ってくれたいちご狩りにも、是非とも行きたいのだけれど、どうにも行けそうもない。
「超おいしいよ」といういもうとの言葉は信頼しているし、何より姪のおいしい顔は天才的なのである。


バレンタインハートいろいろアソートメント




溶けだした黒糖

2015-02-12 15:01:21 | 日記
年が明けて、思えば丸一日休みというのが1日しかなかった。
生来の出不精の私がなんたることかと思っていた。
まあスケジュール調整は全て私がやっているのだから、私がいけない。
それに、丸一日、という単位で休みがないだけで、午前だけとか、夜だけとか、四六時中仕事をしているわけでは全然ない。

そしてそんな中で迎えた、年明け2日目の丸一日休みの昨日。

最近比較的寝るのが早いので、とてもよく寝て12時半に起床。
前日寝る前から私の気分はるんるんだった。
化粧もしない!コンタクトもしない!ブラジャーもしない!家から一歩も出ない!と決め込んでいた。

暖かい日だったようだけれど、私の部屋は相変わらず寒いので、やせ我慢はやめて昼間っから暖房をつける。
起き抜けから私の気分は、今日のこの日を何をしてもいいのだ、という明るい開放感に満ち満ちた。

お味噌汁を作って、トーストを焼き、コーヒーを淹れて。
軽いブランチをして、久しぶりに掃除をする。

久しぶりに掃除、といっても最近は定期的に人が来るので、表面的にはそれなりになっている。
しかし、床ときっちり向き合う掃除をしないと爽快感が得られない。
表面積の広い床と向き合うのは大変だけれど、表面的にざっと掃除しただけでは取れない汚れがたくさん取れる。
雑巾をこれでもかと汚してそのまま捨てるのは、私の一つの快感事なので、最後に玄関と共用部の床も拭く。

とてもすっきりしたところで、お茶を淹れて、途中になっていた「アカギ」のアニメを観ていたら再び寝てしまう。
私はたぶん、人よりも多くの睡眠を必要とする体である。

冷蔵庫にあったさまざまなもので焼うどんを作り、買ってあった草大福などを食べ、こちらもまた少し久しぶりに創作としての書道をする。
創作としての、といっても結果的に私の通っている書道教室の提出物に留まったけれど。

書道をやっているとき、私の心身は喜ぶ。
もちろん疲れているときやどこかが痛いときなどにやっても心身は喜ばないけれど、ある程度の状態から始めればいつもそれなりの喜びを私にくれる。
納得いくものができない、という領域の手前に、根底としてその喜びは存在するのである。

“リズムに乗る”とか“流れに乗る”とか、そんな見えないことが紙に出る。
「気脈」となり、「艶」となる。
それが乗れば、「むふふ」となる。

字を描く、ことが好き。

明日早いから、と無理やり切り上げてしまったけれど、もっとやっていたかった。
はっぴいえんどの「空とぶ・ウララカ・サイダー」とか、キリンジの「エイリアンズ」とかの詞も書いてみたい。
そうこうしているうちにまた次の展覧会の作品も進めねばならない。

やっぱりそういうことがしたい。
日々の私の心を、誰が可愛がってあげるというのか。


睨みつけ赤い壁紙毛皮の人




芸人気質

2015-02-10 13:14:52 | 日記
私にもちょっとした創作意欲みたいなものはあって、そういうものは何らかの原因によって削がれたり、薄れたり、盛り上がったり、居ても立ってもいられなくなったりする。
削がれたり、薄れたりするのは、体力にきっちり紐づいている。
寝ていなかったり、心身が疲れていたりすると全然ダメだ。

1年ほど前、おそらく一番ブルーハーツやハイロウズの歌詞を書に起こしていた。
それがしたくてたまらなかったから。
存分にやる時間もあったし、今よりももっとその渦中にいた。

思えば結構長い間、長い文章のようなものを書いていない。
別に書かなくても良いのだれど。

私のスケベ心というか、心の贅肉というか、そんなものに優位になられている日々は、ある面で気が楽で、ある面で全然気が楽ではない。
最近やたら寝るのが早く、トータル的に寝ている時間が長いというのも、気持ち的に良いのか悪いのか微妙である。
個人事業主の難しさというのはこういう点にもあるわけだ。

すべては心の問題なので、私の心がオーケーであればオーケーである。
問題なのは、最近オーケーかどうかをよく考える時間がないというか、避けているところにある。


誕生日にもらった花たちが、いよいよ少しずつ萎れてきた。
青い花が、ハリを失って柔らかに萎れていく。
冬の弱い光がそれを照らして、青が淡く透き通っている。

緑の葉が付いていたものは、ひとつまたひとつと、黄色く紅葉していく。
だから私は秋の紅葉を手放しで感嘆をあげることはできない。
それ自体が死んでいないのだとしても。

菜の花は長い茎がぐきんと折れてしまった。
おそらく時期尚早で、菜の花にとって寒すぎるのだと思う。

スイートピーはその繊細なイメージとは裏腹に、まだまだハリを保って、しなやかな襞を描いている。

ミントとゼラニウムは、こんな季節だというのに、水差しで細い根が出てきた。
ミントは時々、葉っぱを一枚千切って香りを吸い込む。
どきっとするような、そして細胞が洗われるようなミントの生の香りがする。
ゼラニウムは葉を少し触るだけで、その手に芳しい香りのヴェールを纏わせる。

元気でいてほしくて、少しずつ新しくいてほしくて、伸びていてほしくて。


寒稽古諸行無常に見つめられ




あたらしくするやくそく

2015-02-06 19:20:38 | 日記
外は冷蔵庫みたいに冷たくて、広すぎて大型エアコンでもなかなか温まらない私の部屋は、靴下を脱ぐとすぐさま足首の上くらいまで、しんしんきんきんとした床の温度と一緒になる。
だから時々、ホットカーペットやこたつのあるところに行くと、なんて、なんて温かいのだろうと思いながら、その場で眠りに落ちそうになる。

ホットカーペットは家にあるけれど、出すとそこで夜を明かしてしまうことが1週間に5日くらいになりがちなので、出さないと決めている。
また、ホットカーペットは部屋の景観を乱すので、というかホットカーペットの上に敷く敷き物が景観を乱すので、それも嫌である。

昨年の11月くらいにうちに来たけいこは、うちの寒さのせいでその後体調を崩したと言いたげな話をしながら、私の部屋がいかに寒いかを何度も人に説明する。
それならば来なければいい、と思ってしまうけれど、まあ言わないでおく。
それなのに、3月にまた来たいというので、「3月はまだ寒いよ」という旨と、本当に仕事で予定が立たない旨を伝えておく。

戸棚の中に、何年も使っていないホッカイロを発見して、両足に貼って外出する。
ホッカイロの熱はじんわりと温かく、温かい場所にいるとあまり汗をかかない私が汗を書きそうだった。

冬に汗をかきそうになると、私は顔から熱を放散するシステムがうまく働かないので、顔が酷く紅潮する。
熱だけを帯びるので、冬の乾燥に加えて輪をかけて顔がやたらと乾燥する。
同じく唇も乾燥して荒れる。


目の前でギターが鳴っちゃうとダメなんだよね、という感じ。
それがロックでもブルースでもなくてもいいわけで。
ただのコード1つで、ただの1音で。

これは自分がやっているよりは、人がやっていた方がいい。
ギターを弾いているのを見るのが、大好きなのである。
今弦を弾いたから音が出ている、ただそのことが大好きなのである。

おそらくこれについては自覚するのを全面的に避け続けているのだけれど。
そんなの、ただの一言で一蹴されてしまうくらい浅はかな思考回路なのだろうけれど。
それが何なのか、案外立ち向かって考えたら分かるのかもしれないし、一生分からないかもしれないけれど。

ものすごく単調な曲でどこかが1拍余分と指摘されるくらい、私の音楽センスなどないわけなのだけれど、なんだか見えない憧れが大きすぎることを思い出したような気がした。
そうこうしているうちに、私の時間は消費されていくし、何かをやるためには時間がなさすぎることを知っているのだろうか、私は。


誤変換シリーズ。
このシリーズは意図してできることではないけれど、とても面白い。


加湿器に乗って飛行機雲が行く