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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

ピアノ伴奏と歌について

2011年11月09日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 《懲戒処分等取消請求上告受理事件に関する要請から》
 最高裁判所第1小法廷殿
 ◎ ピアノ伴奏と歌について
2011年10月26日(音楽と歴史を考える音楽教師ネットワーク)M子

 「君が代」をめぐる今年の最高裁判決を読むと、これを書いた人たちが、音楽というものをまったく理解していないという現実をつきつけられます。また、「心」を封じては教育の営みは成り立たないことが、裁判官に理解できていません。
 不起立の教職員に対して「思想・良心の間接的制約になる」と、「間接的制約」という用語を用いて、一見理解を示しつつ、実は「思想良心の直接的制約でないから許される」と言い逃れの論理とすることは、「憲法19条」の存在意義を失わせるもので、許されないレトリックです。
 しかしそれだけではなく、音楽教員に対して「音楽専科教諭がピアノ伴奏する場合は、敬意の表明としての要素は希薄で、外部からもそのように認識される。」(最高裁第3小法廷2011年6,月14日判決多数意見)と、別扱いしていることは、さらに問題です。
 さらに那須公平裁判官の以下の補足意見があります。
 起立斉唱に比べてピアノ伴奏の方が
 「思想・良心の核心的部分または周辺部への侵襲の程度が全くないか、あっても軽微に止まり」「外形的行為としても単純で、それだけ職務命令の対象になじみ易い」(最高裁第3小法廷那須公平補足意見2011年6月14日)
 上記意見は、そもそも「音楽」というものに対する無知・無理解に基づく暴論です。
 音楽家の言葉を抜粋(資料Ⅰ)と、音楽を愛する人たちにアンケート形式で書いてもらった意見(資料Ⅱ)を添えて、言葉で説明することを試みます。
 (1)那須裁判官の2007年補足意見
 2007年の小学校の音楽教員の「ピアノ裁判」判決において、那須裁判官が書いた補足意見は、「演奏のために動員される内心の働き」について、2011年の補足意見とほぼ正反対の内容でした。
 「ピアノ伴奏は、外形的な手足の作動だけでこれを行うことは困難であって、伴奏者が内面に有する音楽的な感覚・感情や知識・技能の働きを動員することによってはじめて演奏可能となり、意味のあるものになると考えられる。上告人のような信念を有する人々が学校の儀式的行事において信念に反して『君が代』のピアノ伴奏を強制されることは、演奏のために動員される上記のような内心の働きと、そのような行動をすることに反発し演奏したくない、できればやめたいという心情との問に心理的な矛楯・葛藤を引き起こし、結果として伴奏者に精神的苦痛を与えることがあることも、容易に理解できることである。」(最高裁第3小法廷判決那須公平補足意見2007年2.月27日)
 残念ながら2007年の意見は、那須裁判官の本心からの意見ではなく、「ピアノ裁判」で最高裁判所に提出された坂本龍一さんや林光さんといった高名な音楽家たちの意見書の上辺だけなぞった意見だったのかもしれません。
 坂本龍一さん「心が伴わない技術だけの演奏行為は「音楽」とは呼べないことを確信します。」と述べています。(日野「君が代」処分対策委員会・日野「君が代」ピアノ伴奏強要事件弁護団編『日野『君が代』ピアノ伴奏強要事件全資料』日本評論社2008年、p.548)
 林光さんは以下のように述べています。
 「(前略)先生が発する音楽は、こどもたちの耳に達するばかりでなく、にまで達しなくてはならない。逆にいえば、こどもたちの心を動かし得て、初めて音楽はかれらの耳にとどまり、感覚を通して知識にまで高まるのです。(中略)まず心に押されて、けれどもその先にはもっと具体的な指と鍵盤とを結ぶ試行があり、そのような試行を経て、先生たちは『ピアノを引く手』を獲得し、その『手』をつかって、こどもたちに音楽で語りかける。それはわたしが日本全国津々浦々のピアノを通して聴衆に語りかけながらわたしの《ピアノことば》を手に入れた道まったく同じです。
 たしかに『ピアノを引く手』は技術です。けれども、この技術は、いま誰のために弾くかという目的への衝動と、弾こうとしている音楽への共感なしには、発揮することはできないものであると言えるでしょう。
 音楽を職業とするものが、心から共感できない音楽、演奏の衝動にかられない機会のために、その技術を用いたとしたら、その人の心の内面は傷つき、見えない力でその精神は罰を受けるでしょう。(中略)
 音楽といういとなみは、人の心から発して、人の心へととどけられて行くものであります。《音楽》はそのようなものとして、人間の歴史と同じくらい長い時間を生きてきたのです。その、途方もない長い時間のあいだ、音楽をあやつる技(わざ)という、目に見え、機械で計れる《外面》と、この手で触れることのできない《内面》とは、けっして断ち切られることなく、互いに手を携えて歩んできました。その歩みが音楽の尊厳を伝えてきたのです。
 こんにち、世界最高のすぐれた技術と深い精神性をそなえたピアニスト、マウリッオ・ポリー二に向かって、キミの指さばきはキミの精神とは無関係だ、切り離してしまえなどとはだれも言えないとしたら、日本全国の、こどもたちを大好きで音楽を大好きな学校の先生たちに、あなたの指とあなたの心はべつべつのものですなどとはとても言えません。音楽を生きるものにとって技(わざ)と心はひとつです。」(前掲書:p541~.543)

 (2)《音》にこめられるもの
 パソコンで「そ」と押せば、画面に出る「そ」の文字は誰が鍵盤を押しても同じです。でもピアノは一種の弦楽器であり、鍵盤が内部のハンマーを通して弦を打って音を出すので、弾き方によって弦の鳴りは違い、音色、音の張り、強さ、等々が変わります。
 「ただドレミファソと弾くのではなく、」〔資料1-5〕とチェリストの堤剛さんは述べていますが、「国歌伴奏」のときだけ、「ただドレミファソと弾く」だけだから内心と関係ない、「外形的行為」を要求しているだけだ、と言う人は、《音》というものを心で受け止めたことが、おそらくないのでしょう。
 音楽を心でうけとめたことがない、という人を想像しがたいのですが、いても仕方ありません。しかし心でうけとめるな、「上面だけで弾いて心を働かせるな」と他者に強要すれば、それ自体が心の自由を侵害すること、紛れもなくその人の「音楽に対する良心」即ち「思想・良心の自由」を侵害しています。
 (3)音楽科教諭とは
 都教委は10.23通達の根拠を学習指導要領だとしていますが、高校音楽の学習指導要領には「国歌」はまったく含まれていません。「特別活動」にだけ国歌を指導するものとする、と書かれていますが、教科は特定されていません。「特別活動」を主に担当する教員も、年度によって交代しますから、例えば合唱祭の担当が社会科の教諭ということもあります。
 また、学習指導要領には、国歌がピアノの生伴奏で伴奏されなければならないなどとはまったく書かれていません音楽科教員が国歌伴奏を行わなければならないという根拠を学習指導要領に求めることは無理があります
 また、音楽科の教諭は行事の際の楽士として雇用されているわけではありません。英語科の教諭が、学校の講演会などの通訳として雇用されているのではないのと同様のことです。
 「国歌伴奏」については都教委が自ら各都立高校に数種類の伴奏用CDを配布し、2003年の10.23通達以前はCD伴奏でなんら問題にならなかったし、今も世間一般でも国際社会でも、CD伴奏でなんら問題はないのに、なぜ2003年10月23日以後の東京都の公立学校でだけ、音楽科の教諭がピアノ伴奏しなければ懲戒処分を科すほどの不都合があるのか、都教委から合理的な説明がなされていません。
 「音楽科教諭がいる学校では音楽科教諭が弾かなければならない」と都教委は言いますが、音楽科教諭がいる学校の卒業式で「君が代」以外の曲をCD伴奏で歌ったために音楽科教諭が処分を受けた例はありません。
 (4)「敬意」や「愛」を抜きにできない。
 「ピアノ伴奏する場合は、敬意の表明としての要素は希薄…」と判示した裁判官は「敬意」ということをどのように捉えているのでしょうか?
 演奏する作品を読み込む、そのことが即ち、その作品への「敬意」です。例えば、人間が相手のことを正しく捉えようとして相手について沢山考える、そのことが言葉を換えれば相手への「敬意」である、というのと同じことです。
 音楽科教諭は、当然のこととして、上面だけでなく、人間性と結びついた、愛に裏打ちされた音楽をこどもたちに体験させようと日々力を尽くしています。
 田原裁判官は反対意見に「職務としての演奏であって芸術としての演奏ではない」(最高裁第3小法廷2011年6月14日判決)と書いていますが、教科・芸術科、科目・音楽の教員に対して、「芸術でない」と言い切るものを職務だという根拠はどこにあるのですか?
 子どもたちの豊かな内面性を育むという、教育の根幹から考えれば、「君が代」伴奏がCD伴奏だったか、ピアノ伴奏だったかは、正に「重箱の隅をつつくようなこと」です。
 「君が代」強制は、「君が代」の問題だけでは終わりません。裁判官もまた、問われています。日本の近代の歴史のなかでの自分自身の位置を自覚せず、「組織の命令に従っただけだという小官僚の論理で「真実をもとめようとせず」裁判を行う人たちであるのかどうか、問われています。
 最後に、ピアニストの崔善愛さんが2004年に「ピアノ裁判」控訴審…のために書いた陳述書の抜粋を資料として添えます。「君が代」の問題に問われているものが凝縮されています。

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