◎ 支援学校における不起立の一報告
私はじっくり考えることが苦手ですが、動くことで思考を前に進めて行くことができています。空を打つような拳闘ではありません。手ごたえがあります。でも、ゴールが見えないのに虚しさを感じず、動き続けていられるのは同志の支えとネットワークがあるからです。このネットワークは血管と神経で結ばれているように感じる事さえあります。栄養と知恵を供給してもらっているからです。
■ 教員として
この5月1日に戒告処分を出されました。「次に同じことをすると免職もある」という警告書付きです。これは2012年4月から施行の大阪府職員基本条例の条例によりますが、これは2012年1月の最高裁判決にも違反することです。大阪の教育行政の暴走しています。
「君が代」強制は国民主権に反します。憲法違反です。とりわけ、支援学校おいては、児童生徒を危険にさらすだけでなくその歌の強制自体が具体的に心と体に攻撃を仕掛けてくるものです。起立・斉唱の強制は、教育の妨げになっていることは明らかです。教育現場に「国歌斉唱」などというプログラムは要らないのです。
私は、思想良心の自由を侵すもの、信教の自由を侵すものとして君が代強制に反対してきました。憲法尊重擁護義務を負った公務員が「君が代」強制反対の姿勢を児童生徒に示すことは教育の一環です。今回、大阪府教委は新たな判断として障がいを持つ生徒への合理的配慮を否定する処分を出してきました。生徒の体調が悪くなればその生徒は卒業式に最後まで元気で主体的に参加できなくなる。そうならないための支援のため、担任が横で座っていた、という合理的配慮が無視され、単に「職務命令違反」とされたのです。
処分撤回を求めて府教委職員へ抗議をしていく中で、府教委側の意思は次のように分って来ました。「奥野は障がいのある生徒を利用して不起立をした。生徒をダシにして自分の主張を押し通そうとした。だから、処分なのだ。合理的配慮をしたかどうかとかの判断は要らないのだ。単に服務規律に関する問題であって、支援教育課で教育の問題として取り上げる必要もないのだ。文句があるならさっさと人事委委員会に不服申立てしろ。」というものです。人事委員会へ処分の不服申立を6月29日(月)にしました。
政治家の「ヤスクニ参拝」や、天皇制への反省もなく学校で「君が代」を歌わせるということは、戦争罪責を無かったことにしようという意思と直接繋がっています。しかし「君が代」の場合、それを推し進めている府教委役人や管理職はそういう自覚は無しに、あるいは自ら思考停止のスウィッチを押し、「上から言われたから職務として粛々としている」と言い訳するのではないでしょうか。この「凡庸な悪」が、国を戦争へ向かわせるための力になっています。
なぜ「義」への餓え乾きが起こってこないのか。「義」への餓え乾きは自己が傷ついても「義」に向かおうとする本当の「愛」を伴うと思うのですが、今の日本社会には「義」と「愛」が不足していると思います。これらは言葉が氾濫してもアクションを伴わないとだめだと思います。
空を打たない拳闘のためには、事実が伝えられることが大切という思いを強めています。安部政権は過去の戦争罪責を消し去ろうとしています。そして反対する者を消し去ろうとしています。宣伝と情報操作がされています。百田尚樹氏が自民党の勉強会で、安保法制をめぐって「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」と発言したのは安部政権の意思を露呈したものだと思います。権力による事実隠しと捏造は、大阪の教育現場でも起こっています。しかもそれが戦争への道の準備という点でも政府の動きと重なります。奥野の裁判や人事委員会闘争でそれらを明らかにしていきたいと思います。
■ キリスト者として
宗教歌つまり天皇の讃美歌である君が代を国家が押し付けるべきではないと考えます。国歌だから儀礼的に歌うのが普通と言われても、歌詞の意味は変わらないのですから、受けとめ手が「これは今も宗教歌だ」というのは理解されるべき判断だと思う。だから起立できないという理屈より、立てないという気持ちを尊重してほしい。自分のアイデンテティを否定されることになるのです。
何のためにイエス・キリストをただ一人の救い主として礼拝しているのか。戦争中このために妥協して信仰者として道を外してしまった人がいます。君が代は天皇を神としてあがめよという歌なのです。天皇をイエスキリストより優先して崇めよと戦争中の日本国は強制したのです。拷問や罰則、村八分になるような扱いによって。そういう時代に信仰者が迫害を恐れず、信仰に従って踏ん張ることは自分のための闘いではなくあらゆる少数者、弱者の側でその人権を守る闘いなのだと思っています。それは憲法で言っている不断の努力を信仰者としてして行くことだと思います。
■ 大人として
最近考えるのは、暴力にどう対抗するかです。不安や恐怖で人は思考停止します。また、祭りの集団的興奮の中でも思考停止しますが。(まつりごとが政治のことであるということと関係あるのでしょうか。)
暴力が怖いから黙る。関わるのを避ける。見て見ぬふりをする。天皇制で群衆を縛るということは国内の混乱をもうこの辺で治めようやという力の強いものの押しつけを強引に進めるために使われてきたと思います。拝啓天皇陛下様という映画では、貧乏人も軍隊に入ったらご飯が食べれる、そして天皇の下で平等であると感謝します。奴隷としての平等なんですが。
ここで思考停止しない小学生は、天皇は平等ちがうん?と思います。この引っ掛かりを多くの少年少女が置き去りにして競争社会に入り社会に出て行くのです。法律や理想より、暴力が社会を動かしている実態を見て行くのです。そして学校で教師が言ってることと実際の大人社会の隔たりに幻滅し苛立つのだと思います。大人社会が子どもに絶望を与えています。
また、10代の子どもたちにヤクザが主人公のTVドラマが見せられることがおかしいです。社会の矛盾・不正義を暴き実社会と地続きに考えられる映画ならいいと思うのですが、青少年が社会に出る前からドラマでヤクザ肯定のようなドラマを面白がってみていてはだめだと思うのです。アイドルの活躍を面白く観ながら、実際は社会に対す売るニヒルな態度を植え付けられて行っている。
暴力に屈しない生き方を大人がして行くことが大事だと思います。
■ 私の不起立
「不起立」は強制に対するプロテストだと思います。一つの表現です。管理職は式が近づいてくると「今年はどうするのか」と聞いてきます。今年は式の予行が終わった後、管理職が「先生の今年の決意を聞かせてください」と言いました。ふざけるな!です。「不起立するために卒業式に出る」のではないのです。
式の主人公は卒業生、新入生です。だから、私は管理職の問いかけに「わかりません」「悩んでいます」「迷っています」と答えています。自分にはその時「起立」ということは想像しにくいのですが、事前に「立ちません」と宣言するのはおかしいことです。私の場合は、信仰する神に委ねその時とらざるを得ない行動をするしかないのです。
管理職が「国歌斉唱時」立つのかどうか、一部の教員にだけ聞くのはおかしいことです。思想調査です。またそれによって排除という差別をしようとしているのです。答える必要はないのですが、管理職は「立つ」と言う言葉を聞いて安心できなければその教員を式場内に入れないように職務命令を出すのです。
私はずっと起立してこなかった教員です。今年は「障害のある生徒の横で立たないことが合理的配慮に当たるケース」だから認めるようにと管理職・府教委に言ってきたのです。それは、大阪の条例や職務命令をもし私が認めたとしても、この合理的配慮を認めないのは教育としておかしいだろう!と訴えているのです。こういうところまで暴走するのがこの強制です。
大阪府立支援学校教員 奥野泰孝
私はじっくり考えることが苦手ですが、動くことで思考を前に進めて行くことができています。空を打つような拳闘ではありません。手ごたえがあります。でも、ゴールが見えないのに虚しさを感じず、動き続けていられるのは同志の支えとネットワークがあるからです。このネットワークは血管と神経で結ばれているように感じる事さえあります。栄養と知恵を供給してもらっているからです。
■ 教員として
この5月1日に戒告処分を出されました。「次に同じことをすると免職もある」という警告書付きです。これは2012年4月から施行の大阪府職員基本条例の条例によりますが、これは2012年1月の最高裁判決にも違反することです。大阪の教育行政の暴走しています。
「君が代」強制は国民主権に反します。憲法違反です。とりわけ、支援学校おいては、児童生徒を危険にさらすだけでなくその歌の強制自体が具体的に心と体に攻撃を仕掛けてくるものです。起立・斉唱の強制は、教育の妨げになっていることは明らかです。教育現場に「国歌斉唱」などというプログラムは要らないのです。
私は、思想良心の自由を侵すもの、信教の自由を侵すものとして君が代強制に反対してきました。憲法尊重擁護義務を負った公務員が「君が代」強制反対の姿勢を児童生徒に示すことは教育の一環です。今回、大阪府教委は新たな判断として障がいを持つ生徒への合理的配慮を否定する処分を出してきました。生徒の体調が悪くなればその生徒は卒業式に最後まで元気で主体的に参加できなくなる。そうならないための支援のため、担任が横で座っていた、という合理的配慮が無視され、単に「職務命令違反」とされたのです。
処分撤回を求めて府教委職員へ抗議をしていく中で、府教委側の意思は次のように分って来ました。「奥野は障がいのある生徒を利用して不起立をした。生徒をダシにして自分の主張を押し通そうとした。だから、処分なのだ。合理的配慮をしたかどうかとかの判断は要らないのだ。単に服務規律に関する問題であって、支援教育課で教育の問題として取り上げる必要もないのだ。文句があるならさっさと人事委委員会に不服申立てしろ。」というものです。人事委員会へ処分の不服申立を6月29日(月)にしました。
政治家の「ヤスクニ参拝」や、天皇制への反省もなく学校で「君が代」を歌わせるということは、戦争罪責を無かったことにしようという意思と直接繋がっています。しかし「君が代」の場合、それを推し進めている府教委役人や管理職はそういう自覚は無しに、あるいは自ら思考停止のスウィッチを押し、「上から言われたから職務として粛々としている」と言い訳するのではないでしょうか。この「凡庸な悪」が、国を戦争へ向かわせるための力になっています。
なぜ「義」への餓え乾きが起こってこないのか。「義」への餓え乾きは自己が傷ついても「義」に向かおうとする本当の「愛」を伴うと思うのですが、今の日本社会には「義」と「愛」が不足していると思います。これらは言葉が氾濫してもアクションを伴わないとだめだと思います。
空を打たない拳闘のためには、事実が伝えられることが大切という思いを強めています。安部政権は過去の戦争罪責を消し去ろうとしています。そして反対する者を消し去ろうとしています。宣伝と情報操作がされています。百田尚樹氏が自民党の勉強会で、安保法制をめぐって「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」と発言したのは安部政権の意思を露呈したものだと思います。権力による事実隠しと捏造は、大阪の教育現場でも起こっています。しかもそれが戦争への道の準備という点でも政府の動きと重なります。奥野の裁判や人事委員会闘争でそれらを明らかにしていきたいと思います。
■ キリスト者として
宗教歌つまり天皇の讃美歌である君が代を国家が押し付けるべきではないと考えます。国歌だから儀礼的に歌うのが普通と言われても、歌詞の意味は変わらないのですから、受けとめ手が「これは今も宗教歌だ」というのは理解されるべき判断だと思う。だから起立できないという理屈より、立てないという気持ちを尊重してほしい。自分のアイデンテティを否定されることになるのです。
何のためにイエス・キリストをただ一人の救い主として礼拝しているのか。戦争中このために妥協して信仰者として道を外してしまった人がいます。君が代は天皇を神としてあがめよという歌なのです。天皇をイエスキリストより優先して崇めよと戦争中の日本国は強制したのです。拷問や罰則、村八分になるような扱いによって。そういう時代に信仰者が迫害を恐れず、信仰に従って踏ん張ることは自分のための闘いではなくあらゆる少数者、弱者の側でその人権を守る闘いなのだと思っています。それは憲法で言っている不断の努力を信仰者としてして行くことだと思います。
■ 大人として
最近考えるのは、暴力にどう対抗するかです。不安や恐怖で人は思考停止します。また、祭りの集団的興奮の中でも思考停止しますが。(まつりごとが政治のことであるということと関係あるのでしょうか。)
暴力が怖いから黙る。関わるのを避ける。見て見ぬふりをする。天皇制で群衆を縛るということは国内の混乱をもうこの辺で治めようやという力の強いものの押しつけを強引に進めるために使われてきたと思います。拝啓天皇陛下様という映画では、貧乏人も軍隊に入ったらご飯が食べれる、そして天皇の下で平等であると感謝します。奴隷としての平等なんですが。
ここで思考停止しない小学生は、天皇は平等ちがうん?と思います。この引っ掛かりを多くの少年少女が置き去りにして競争社会に入り社会に出て行くのです。法律や理想より、暴力が社会を動かしている実態を見て行くのです。そして学校で教師が言ってることと実際の大人社会の隔たりに幻滅し苛立つのだと思います。大人社会が子どもに絶望を与えています。
また、10代の子どもたちにヤクザが主人公のTVドラマが見せられることがおかしいです。社会の矛盾・不正義を暴き実社会と地続きに考えられる映画ならいいと思うのですが、青少年が社会に出る前からドラマでヤクザ肯定のようなドラマを面白がってみていてはだめだと思うのです。アイドルの活躍を面白く観ながら、実際は社会に対す売るニヒルな態度を植え付けられて行っている。
暴力に屈しない生き方を大人がして行くことが大事だと思います。
■ 私の不起立
「不起立」は強制に対するプロテストだと思います。一つの表現です。管理職は式が近づいてくると「今年はどうするのか」と聞いてきます。今年は式の予行が終わった後、管理職が「先生の今年の決意を聞かせてください」と言いました。ふざけるな!です。「不起立するために卒業式に出る」のではないのです。
式の主人公は卒業生、新入生です。だから、私は管理職の問いかけに「わかりません」「悩んでいます」「迷っています」と答えています。自分にはその時「起立」ということは想像しにくいのですが、事前に「立ちません」と宣言するのはおかしいことです。私の場合は、信仰する神に委ねその時とらざるを得ない行動をするしかないのです。
管理職が「国歌斉唱時」立つのかどうか、一部の教員にだけ聞くのはおかしいことです。思想調査です。またそれによって排除という差別をしようとしているのです。答える必要はないのですが、管理職は「立つ」と言う言葉を聞いて安心できなければその教員を式場内に入れないように職務命令を出すのです。
私はずっと起立してこなかった教員です。今年は「障害のある生徒の横で立たないことが合理的配慮に当たるケース」だから認めるようにと管理職・府教委に言ってきたのです。それは、大阪の条例や職務命令をもし私が認めたとしても、この合理的配慮を認めないのは教育としておかしいだろう!と訴えているのです。こういうところまで暴走するのがこの強制です。
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