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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

冤罪事件で国の「過失」を認めて国賠を認めた画期的な判決が出た

2019年06月05日 | 平和憲法
  《尾形修一の紫陽花(あじさい)通信から》
 ◆ 画期的な布川事件国賠判決

 2019年5月27日に、布川事件国賠訴訟の判決が東京地裁であった。この判決は非常に画期的なもので、その意義を簡単にまとめておきたい。
 布川事件は1967年に茨城県布川(ふかわ、現利根町)で起きた男性が殺された事件で、桜井昌司さん、杉山卓男さんが逮捕・起訴された。最高裁で無期懲役が確定したが、2011年に再審で無罪となった。杉山さんは2015年に亡くなっているが、桜井さんが国と県に国家賠償法に基づく賠償を求めていた。
 桜井さんは以前高校の授業で人権に関する講演を毎年お願いしていた。「明るい布川」と語って、真実は必ず勝つと力強く訴えていた。時には歌も歌って聞く者を引き込む魅力を持っている。再審判決は僕も傍聴に行ったものだ。(傍聴券に当たらず。)
 桜井さんは再審無罪後も多くの冤罪事件救援に全国を飛び回っている。映画「ショージとタカオ」「獄友」にも、その様子が残されている。また本人のブログ「獄外記」で日々の活動の様子をうかがうことが出来る。
 桜井さんはブログで国賠訴訟は絶対勝てる、勝つというようなことを確信を持って書いていた。理由なく大言壮語する人じゃないから、訴訟の進行は優勢なんだろうとは思っていた。でも裁判は何が起こるか判らない。翌日の「優生保護法国賠訴訟」(強制不妊訴訟)の仙台地裁判決では、違憲と認めながら賠償は認められなかった。
 冤罪事件の場合、そもそも「無罪判決」が難しい。特にいったん確定した判決が「再審」で無罪になるのは、よく「ラクダが針の穴を通る」とまで言われる。「国家賠償」を求めて勝訴するというのは、それを遙かに上回る想像を絶するような難しさである。
 刑事裁判で無罪になった人は「刑事補償金」が支給される。冤罪で囚われていた日々についての「補償」である。
 「補償」「賠償」は全然違う。
 国家賠償法は、その第1条で「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と書かれている。
 「故意」、つまり検察官、警察官が個人的憎しみからわざと冤罪を作り出すということは普通ないだろう。(まあ2018年に公開された某ミステリー映画はそういう筋になってたけど。)
 「故意」の立証は無理だから、「過失」の立証になる。しかし、交通事故なんかでも「過失」をめぐる認定は難しいものだ。多くの事故では両方とも悪いことが多いが、その過失の割合を決めるのは大変だ。
 ましてや冤罪事件の捜査に関して、誰にどのような過失があったのか、それを裁判で訴えるのはすごく大変なのは想像できる。冤罪事件で国賠訴訟を起こした例はあまり多くない。
 それは1952年に起きた北海道の芦別事件の国賠訴訟敗訴の影響が大きい。
 国鉄の線路が爆破され、共産党員が起訴された事件で、1962年に2審で無罪となった。その後国賠訴訟を起こし、一審福島重雄裁判長は原告勝訴の判決を出した。(長沼ナイキ裁判で自衛隊違憲判決を出した裁判官。)
 ところが、高裁、最高裁で「公務員が職務上与えた損害は個人が責を負わない」という論理で賠償が否定された。
 交通事故で最高裁で無罪となった「遠藤事件」の国賠訴訟でも、1996年に東京地裁は芦別判決をもとに原告敗訴とした。(2003年最高裁で確定。遠藤事件はウィキペディアに解説あり。)
 長く苦しい冤罪との闘いが終わって、さらに国賠訴訟に打って出る人は少ない。布川事件でも桜井さんしか訴訟を起こさなかった。
 遠藤事件など、もともと在宅起訴で一審も禁固6ヶ月執行猶予2年の事件である。それが最高裁で無罪になるまで、14年もかかった。
 その後さらに国賠訴訟を起こしたのは、お金が欲しいわけじゃなくて警察の不正を許せなかったのだ。
 無実の人間が捕まるんだから、誰かにミスがあったわけで、過失が認められて当然と思うだろう。
 しかし、警察が怪しいヤツを逮捕したのは当然、自白があったから起訴したのも当然、有罪の証拠は形式上そろっているから有罪判決も当然…そういう論理で行けば、どこにも「過失」がなくなる。結果的に間違いだったけど、ガマンしてね。
 近年の事件では、鹿児島の志布志事件(選挙違反をねつ造した)は国と県の責任を認めた。
 富山県の氷見事件では国を除き県だけに責任を認めた。
 どういう意味かというと、警察官は地方公務員だから県に賠償責任があり、検察官は国家公務員だから国に賠償責任がある。志布志事件では検察官に「注意義務違反」を認めたが、氷見事件では検察官の責任を認めなかった。
 ところで、今回の布川事件国賠では国と県と双方の責任を認めている。無期懲役の殺人事件という重大事件捜査で、国の責任を認めたのはまさに画期的である。
 判決では警察の偽証を認めた。「(一本しか)ない」と証言していた捜査時の録音テープが他にも出てきた。知らないはずがないので「意図的偽証」である。(警官はよくやる。)これは「過失」というより「故意」に近い。
 もちろん「違法」である。検察官は「証拠開示請求に応じなかった」ことが裁判結果に大きな影響を与えたので「違法」とされた。
 これはまさに他の冤罪事件、再審請求に多大な影響を及ぼす「画期的判断」である。この検察、警察の「違法」がなければ、少なくとも2審の控訴審判決では無罪になっていたと判断したのである。
 ホントかな。絶対勝てると誰もが思うほど検察の証拠を崩しても、裁判官が勝手に(検察官も主張していない)理屈を持ち出してきて有罪にした事件なんか山のようにある。
 検察、警察が悪くても、裁判官がしっかりしてれば真相は見抜けたんじゃないだろうか。しかし、今まで裁判官が裁判官の「過失」を認めたことなんかない。そこは裁判で決着を付ける以上、難しいのである。だから、
 警察や検察がちゃんとしてたら、裁判官も無罪判決を出したはずじゃないですか、という論理で攻めるしかない。
 そして「証拠開示」があれば無罪だったはずという論理で勝利した。つまり「国が有罪証拠を隠していた」と言ってるのである。これは多くの冤罪事件に生きる判決で、国賠訴訟を起こした意味があったのだ。
『尾形修一の紫陽花(あじさい)通信』(2019年05月28日)
https://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/b2a09bf99415ca23e8b60ec4ec8ab589
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