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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

再雇用拒否二次訴訟第7回<1>

2011年04月28日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 《再雇用拒否二次訴訟第7回原告意見陳述》<1>
 ◎ 生徒個人の尊厳が尊重される学校生活と卒業式
原告 愛甲哲郎

 原告の愛甲と申します。私は処分を受けた2005年3月、富士高校定時制に勤務しておりました。教科は数学です。始めに、「10・23」通達以前に同校で行われていた卒業式をふり返ってみます。

「報告集会」 《撮影:平田 泉》

 当時生徒には、働きながら学ぶ年配者、中学には1日も通ったことがない、全日制ではついて行けなかった、髪の毛を染めてしまう、あるいは、かけ算の九九を全部は覚えていない者がいたり、困難を抱えながら彼らは入学してきました。こんな生徒が、苦労を重ね、挫折と再出発を繰り返した末に、4年の歳月をかけ、卒業してゆきました。
 卒業式とは、このようにして卒業まで漕ぎつけた卒業生を、教職員・保護者・全校生徒が祝い、これからもがんばっていこうと励まし合い、感動を分かち合う最後の教育の場でした
 ある年の卒業式でした。幼い息子と手をつなぎ壇上に上がり、二人いっしょに卒業証書を受け取った若い女性の卒業生がいました。彼女は2年で退学し子どもを産みました。その後復学し入学から足かけ6年目の卒業生でした。卒業生を代表して答辞をよんでくれました。
 同定時制の閉校(閉課程)に際し作られた記念誌に、この卒業生は、一文をよせてくれました。
 『今の私が幸せに暮らせているのは富士高ですばらしい仲間と出会えたから。友達と一緒に泣いて笑ってみんなそれぞれ心の傷や家庭の事情、人には言えない深い痛みを抱えて集まった人達だからとてもやさしかった。先生は本気で生徒と向き合って励まして心配してくれる方ばかりで一人ぽっちじゃないんだと気づかせてもらえた場所が富士高でした。』
 と彼女は書き、かつて答辞にこめた卒業生みんなの思いをふり返っています。
 このように、生徒個人の尊厳が最大限尊重され、すべての生徒が輝くことのできたすばらしい卒業式でした。
 1999年8月、「国旗国歌法」が成立し、10月になると都教委は、国旗掲揚と国歌斉唱を実施するための「通達」を出してきました。
 その年の卒業式について職員会議で長時間話し合いました。最終的に校長は、「実施する、しかし、強制することには問題があるので思想良心の自由を尊重するという学校の基本姿勢を全生徒と式参列者に話をする」、と表明しました。
 予行演習のときと式が始まる直前に管理職は、国旗掲揚と国歌斉唱の実施に至る経緯を説明した上で、「ところで、国旗と国歌については、皆さんもそれぞれの考え方があると思います。国旗・国歌を大切にすることは重要ですが、今回の卒業式では無理に国歌を歌うことは求めません。」と語りました。
 このときから、「国旗掲揚・国歌斉唱」が式に入ってきました。しかし、立つ立たない、歌う歌わないは各自の判断で行動することができ、その上、企画・立案・運営の大半が学校に任されたので従来の卒業式をほぼ実施することができました。
 2003年に「10・23通達」が出され、事態は一変しました。
 2004年3月の卒業式の際には、式次第、会場図、任務分担、司会進行表は管理職が作り、都教委に検閲・指導されたものが職員会議に示されるようになりました。
(1)国旗の掲揚場所が三脚から壁面に移され、開会時に「一同礼」をすることが式次第に無理矢理入れられました。
 これは、卒業生が入場したところで全員を起立させ、壇上に掲揚されている国の象徴としての国旗に向かい「一同」が最敬礼させられる形をとるため、反対意見が出されました。
 この最敬礼が、主権者である国民より上に国を置く意識づくりにつながるからです。管理職から反対の意向を伝えてもらいましたが、都教委は、儀式だから「一同礼」をはずすわけにはいかないといい、事実上強制力を持つ指導をしてきたのです。
(2)教職員の座席を正面向きにかえさせられたことも都教委による強要でした。前年までの教職員の座席は、卒業生を見守れるように、卒業生を向いて座る横向きにしていました。
 都教委はこの年教職員の席を正面向きにしろと指導してきました。「10・23通達」には「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」と書かれているのだから「教職員が起立したら自然に正面を向くように正面向きに席を設定せよ」といい、都教委はこれも強制してきました。
(3)国歌斉唱に関して管理職が前年まで行ってきた「内心の自由」の説明を、都教委は禁止するといってきました。教職員は、今回も説明をしてくれと管理職に要望しましたが、都教委から禁止されているの一点張りで断られました。教職員は、ホームルームなどを通じて生徒に「内心の自由」の話をすることにしました。
 式当日、教職員には指定席があてがわれ、管理職と都の職員の監視の下国歌斉唱が実施されました。教職員には職務命令が出されており、起立できない職員は処分されるという恐怖感がありました。同時に、教師としてどう行動すべきか悩み、身を切られるような思いで耐えていました。会場全体が異常な緊張感に包まれるなか国歌斉唱は実施されました。
(4)さらに、この年に「都教委の挨拶を式次第に入れなさい。校長挨拶の次に。」という指導が初めてありました。ほぼ全都一律な文章を読み上げることが予想された同挨拶は、生徒の気持ちを考えれば歓迎できなかったのですが、これも強制されました。
 裁判長。私は、「10・23通達」が出された2003年を境にした前後5,6年の私の勤務校での卒業式の話をしてきました。
 以前は生徒が主人公の卒業式でしたが、「通達」後は、全体主義的ともいえる式次第が入ったことにより、式は基本的に性格を変質させられた、これが私の実感です。そして、その変質は、行政権力が行政命令を出し、事実上の強制力を持つ指導を行った結果もたらされたものでした。
 裁判長、これは明らかに行政権力による「不当な支配」に当たるのではありませんか。
 次は、私の「君が代観」と学生時代の経験です。
 教職経験者であった祖父母、そして小学校の教員であった父親をもつ私は教員を目指して東京教育大学に入学しました。
 入学したときには、大学の筑波移転問題が持ち上がっていました。この問題を考える中で大学の自治と学問の自由、民主主義と教育などを学んでいきました。世界ではベトナム戦争が激しさを増していました。反戦運動を経験し、戦争が非人道的で残酷な被害をもたらす国家的犯罪であることを知りました。加えて、日本が行った侵略戦争、ヒットラーのホロコースト、そして、なぜ戦争を止めることができなかったのかということも考えるようになりました。
 父は、昭和11年から郷里の鹿児島で小学校の教師を務め、昭和18年に上京しその年から東京府、東京都の小学校に勤務していました。
 教職を希望した私は父と、日本の戦争と教育界のあり方について話し合いました。私は、先の戦争が野蛮な侵略戦争であったこと、同時に、天皇制を中心とする国民の意識を統合し、国威を発揚するために教育界は協力した、と批判しました。生徒に「君が代」を歌わせ、天皇・お国のために死んでも尽くすことがつとめだと教えた、だから「お父さんも」戦争協力者だと批判しました。
 父は、軍部が暴走したことなどについては同意しましたが、天皇の戦争責任は認めようとはしませんでした。「天皇賛美」が父の「信念」だったのです。先の侵略戦争を反省するためには避けて通れないはずの天皇制軍国主義のこと、あるいは、天皇の果たした役割などを父は曖昧にしたまま戦後も教壇に立ち、「君が代」も肯定していたのです。
 当時の私は、この問題では父を言わば反面教師のように思いながら、「君が代」は戦前の負の遺産を引きずっている歌だと考えるようになっていきました。だから決して歌うまいとの思いを強くいだき大学を卒業しました。この思いは君が代が法制化された今も変わることはありません。
 裁判長。「10・23通達」後の卒業式では、「国歌・君が代斉唱」が強制されています。教職員には職務命令が出されており、40秒間座ったまま沈黙していることすら禁じられています。生徒にも強制力が及んでいます
 「通達」「職務命令」体制自体に違憲性があることを認定してくださるよう訴えて私の陳述を終わります。

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