「君が代・強制」解雇裁判通信 第68号から
◎●◎ 控訴審=第1回口頭弁論迫る! ◎●◎
「解雇裁判」 10月30日(火)高裁101法廷 午前10時開廷
(傍聴抽選のため、9時30分には裁判所正門へ=地下鉄・霞ヶ関)
裁判後報告集会 弁護士会館508 10時30分~
◇ 中国・撫順で東京「君が代」強制裁判を訴える
今年は日本と中国が国交回復して35年目の年に当たり、いろいろなイベントが続いています。「戦後レジームからの脱却」「任期中に憲法を変える」と言っていた首相は政権を投げ出してしまいましたが、これと同じような考えをもっている東京都石原知事は未だに中国のことを平然と蔑視して「シナ」と呼んでいます。その石原知事が選んだ教育委員は侵略戦争を美化した扶桑杜の偏った「新しい歴史教科書」を新しく設ける中高一貫校に採択させています。
◇ 平頂山事件75周年追悼式典に参加
中国などアジアヘの侵略ができたのは、教育を通してアジア蔑視の思想を子どもに植え付けてきたからです。民族蔑視の上、人を人とも感じずに大量の人間を殺すことができたのです。
私は日本軍国主義がおこなった侵略の具体的事実…虐殺、略奪などの蛮行を現地で自分の目で確認し、体験を中国の人から直接聞き、それを次の世代の青年に引き継いでゆかねばならないと裁判の原告になってから特に強く思うようになりました。
そうした想いから9月16日、中国遼寧省撫順での平頂山事件75周年追悼式典に日中友好協会などの日本の参加者200人のひとりとして参加しました。
この事件は1932年、旧日本軍が中国東北部の撫順近郊の平頂山で現地住民3000人を「写真を撮るから集まれ」などと言って誘い出して集め、機銃掃射し文字通り虐殺したのでした。今年でちょうど75年になるのを記念して中国市民2000人と日本からの参加者で再び戦争をおこさせず、世界平和を築こうと誓い合いました。
◇ シンポジウムで「君が代」強制裁判を発言
午前の式典に続いて、午後には5時間かけて日本、中国の歴史研究者のシンポジウムが行なわれ、私も正式なメンバーとして自分の名札の出されている指定席に座り、あらかじめ文書で提出されている論文に基づいて討論がすすめられました。
私は論文提出はしていなかったのですが、中国側の論文で、日本における軍国主義的復活につながる「新しい歴史教科書」の動向への危惧を書いた論文が中国の青年研究者から発表されました。
ここだ、と思って発言内容も煮詰まっていないのに挙手しましたら当たりました。私は夢中で、東京都教育委員会は都民の反対の声を無視して「新しい歴史教科書」を採択するとともに教育への統制がすすめられ、国歌を歌わない教員を処分、解雇している。このような日本国憲法にも違反したやり方は絶対に認められないと東京都立学校の私たちは裁判などでたたかっている。是非理解し応援してほしい、と発書しました。
この発曾に対して中国の参加者から拍手が寄せられました。文書による論文報告の要旨を口頭で発言するというのが普通の流れなので、拍手が起こると言うのは異例のことでした。
◇ 控訴審までの道のり
2003年
○10月23日、都教委は「卒業式や入学式で、校長に職務命令を出させ、従わない場合は処分」という通達と実施指針を発出した。
2004年
○3月定年をむかえる教員4名、再雇用更新をむかえる5名が卒業式の国歌斉唱時の40秒間、静かに座った。
このうちの8名は再雇用採用の合格を受けていた。1名は講師の採用が内定していた。また、それぞれ次の職場も決まっていた。
○3月30日、再雇用取消の通知(うち3名は戒告処分も)をうけ、4月1日から勤務することになっていた職を奪われ、実質解雇された。
○6月17日、「地位の確認と損害賠償」を求めて東京地裁に提訴。
2005年
○「前年度不起立のため合格取消者」1名を併合。原告は10人となる。
2006年
○12月27日、第15回口頭弁論で結審
2007年
○6月20日 判決
○7月2目 東京高裁に控訴
◎●◎ 控訴審=第1回口頭弁論迫る! ◎●◎
「解雇裁判」 10月30日(火)高裁101法廷 午前10時開廷
(傍聴抽選のため、9時30分には裁判所正門へ=地下鉄・霞ヶ関)
裁判後報告集会 弁護士会館508 10時30分~
◇ 中国・撫順で東京「君が代」強制裁判を訴える
平松辰雄(「君が代」強制解雇裁判控訴人)
今年は日本と中国が国交回復して35年目の年に当たり、いろいろなイベントが続いています。「戦後レジームからの脱却」「任期中に憲法を変える」と言っていた首相は政権を投げ出してしまいましたが、これと同じような考えをもっている東京都石原知事は未だに中国のことを平然と蔑視して「シナ」と呼んでいます。その石原知事が選んだ教育委員は侵略戦争を美化した扶桑杜の偏った「新しい歴史教科書」を新しく設ける中高一貫校に採択させています。
◇ 平頂山事件75周年追悼式典に参加
中国などアジアヘの侵略ができたのは、教育を通してアジア蔑視の思想を子どもに植え付けてきたからです。民族蔑視の上、人を人とも感じずに大量の人間を殺すことができたのです。
私は日本軍国主義がおこなった侵略の具体的事実…虐殺、略奪などの蛮行を現地で自分の目で確認し、体験を中国の人から直接聞き、それを次の世代の青年に引き継いでゆかねばならないと裁判の原告になってから特に強く思うようになりました。
そうした想いから9月16日、中国遼寧省撫順での平頂山事件75周年追悼式典に日中友好協会などの日本の参加者200人のひとりとして参加しました。
この事件は1932年、旧日本軍が中国東北部の撫順近郊の平頂山で現地住民3000人を「写真を撮るから集まれ」などと言って誘い出して集め、機銃掃射し文字通り虐殺したのでした。今年でちょうど75年になるのを記念して中国市民2000人と日本からの参加者で再び戦争をおこさせず、世界平和を築こうと誓い合いました。
◇ シンポジウムで「君が代」強制裁判を発言
午前の式典に続いて、午後には5時間かけて日本、中国の歴史研究者のシンポジウムが行なわれ、私も正式なメンバーとして自分の名札の出されている指定席に座り、あらかじめ文書で提出されている論文に基づいて討論がすすめられました。
私は論文提出はしていなかったのですが、中国側の論文で、日本における軍国主義的復活につながる「新しい歴史教科書」の動向への危惧を書いた論文が中国の青年研究者から発表されました。
ここだ、と思って発言内容も煮詰まっていないのに挙手しましたら当たりました。私は夢中で、東京都教育委員会は都民の反対の声を無視して「新しい歴史教科書」を採択するとともに教育への統制がすすめられ、国歌を歌わない教員を処分、解雇している。このような日本国憲法にも違反したやり方は絶対に認められないと東京都立学校の私たちは裁判などでたたかっている。是非理解し応援してほしい、と発書しました。
この発曾に対して中国の参加者から拍手が寄せられました。文書による論文報告の要旨を口頭で発言するというのが普通の流れなので、拍手が起こると言うのは異例のことでした。
◇ 控訴審までの道のり
2003年
○10月23日、都教委は「卒業式や入学式で、校長に職務命令を出させ、従わない場合は処分」という通達と実施指針を発出した。
2004年
○3月定年をむかえる教員4名、再雇用更新をむかえる5名が卒業式の国歌斉唱時の40秒間、静かに座った。
このうちの8名は再雇用採用の合格を受けていた。1名は講師の採用が内定していた。また、それぞれ次の職場も決まっていた。
○3月30日、再雇用取消の通知(うち3名は戒告処分も)をうけ、4月1日から勤務することになっていた職を奪われ、実質解雇された。
○6月17日、「地位の確認と損害賠償」を求めて東京地裁に提訴。
2005年
○「前年度不起立のため合格取消者」1名を併合。原告は10人となる。
2006年
○12月27日、第15回口頭弁論で結審
2007年
○6月20日 判決
○7月2目 東京高裁に控訴
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