パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

1月22日

2005年03月30日 | たまにはまじめに?しっかりトーク

3,ピアノ裁判について 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月22日(土)21時45分48秒

ピアノ裁判の判決は、正直言って取り上げにくい問題である。なぜなら私たちの主張が全面否定されているから。推進側がこれを正当性の根拠に持ち出すのは当たり前だ。もし最高裁でも覆らなければ、私たちも判決に従わなければならないだろう。

しかし私は、東京地裁の判決は間違っていると考えている。法律のプロではないが、ごく一般的な一市民の人権感覚からおかしいと思うのだ。

判決文では、「思想・良心の自由も、公共の福祉の見地から、公務員の職務の公共性に由来する内在的制約を受けるものと解するのが相当である」として、内心の自由を否定している。「思想良心の自由」は「公共の福祉」による制約を受けるというのが根拠だ。

市民感覚からしておかしいというのは、
「ピアノ伴奏したくない」というのは、明らかに思想良心に関わる問題で、裁判官も認めている。にも関わらず「受忍」してやれ、というのではもう戦争中の学校の状態の縮図ではないか。憲法第19条など無くした方が分かりやすいくらいだ。一人の人間、その人格、その思想の領域に、法律と言えども踏み込んではいけない、というのが「思想良心の自由」ではなかったのか。
また判決文は、心の中で反対して、口先だけ唄え(伴奏しろ)、と言っていることになるが、嫌々歌う「国歌」って何なのか、どんな意味があるって疑問に思ってしまう。お偉いさんは、子どもたちに心から歌わせたいのか、口先だけ歌わせたいのか、本当に心から歌わせたいのなら、罰則や押し付けなどかえって逆効果じゃないんだろうか。
それからスポーツですら強制しないのに、なぜ学校では強制されるのか。公教育は何よりも憲法や基本的人権を大切にし模範的に教育する場のはずなのに、憲法の精神を学ぶのとは逆のことをやってみせている。
そしてなぜそこまでして強制したいのか?結局は戦前みたいに「国家に個人を従属させたい」だけじゃないの?誰かはっきり正直に言ってみなよ。それを公務員の職務とか国際儀礼とかもっともらしい粉飾で本質から目をそらしている、そこもおかしい。

次に法律論で、裁判官に異を唱えるのもおこがましいことだが、最大の問題点は「公共の福祉」の解釈にあると考えている。1/2の「なまはげ」で、公共の福祉の正しい意味と歴史的形成過程を整理させていただいたが、山口幸雄裁判長の頭の中にはアナクロな「公共の福祉」=「お上の命令」の誤れる固定観念が巣くっているとしか考えられない。「公共の福祉」とは、特定個人の権利行使が大多数の弱者の権利侵害になるケースを防止するための概念であり、国家がそれを代弁してしまったら基本的人権のすべてが否定される全体主義国家に逆戻りしてしまうというのに。

「公共の福祉」が、両面に解釈できるような、こんなあいまいな状態で憲法に使われていていいのだろうか。実は、この点が不備であると、国連の人権委員会から、日本の人権の懸念事項の一つとして指摘されている。

第64回会期 人権委員会の最終見解 1998年11月19日 原文:英語
対象国:日本
          C.主な懸念事項及び勧告
8.委員会は、「公共の福祉」に基づき規約上の権利に付し得る制限に対する
 懸念を再度表明する。この概念は、曖昧、無制限で、規約上可能な範囲を超
 えた制限を可能とし得る。前回の見解に引き続いて、委員会は、再度、締約
 国に対し、国内法を規約に合致させるよう強く勧告する。

つまり、基本的人権を制限できる根拠であるだけに、厳密な適用範囲を定めなければならないのに、日本には憲法上もその他の法律上も「公共の福祉」の定義がない。このままだと、無制限に人権を制約する(=前近代国家)ことになると勧告をしているわけだ。こんな近代国家は他にないし、国際人権規約や子どもの権利条約など国際条約では考えられないことなのである。
従って、私は東京地裁判決は「公共の福祉」概念を誤用していると考えている。
もし最高裁で覆らなければ、ガリレイ宗教裁判並みの暗黒社会だ。日本の民主主義も息の根を止める。




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2,君が代に代わる国歌 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月22日(土)21時42分31秒

ちょっと寄り道をして、なぜ国歌は君が代でなければいけないのかを考えてみたい。

若者に君が代強制について意見を求めると、「そんな面倒なことなら、国歌を変えればいいじゃない」と、軽い答が返ってくることが多い。この掲示板でも、その話題があった。
この提案には、君が代強制に反対する者はほとんど賛成するだろう。推進する側の中にも、誰もが素直に斉唱するならそれでもいい、と賛成する者も少なからずいるのではないか。それとも、絶対に君が代でなければダメだとする者が、かなりの数いるのだろうか。

仮に新しい国歌が決まったとしよう。「ふるさと」か「さくらさくら」か「世界にただ一つの花」か桑田佳祐に頼むかユーミンに頼むか、いろいろ好みが分かれるが国民投票でもやって「ふるさと」に決まったとしよう。
問題は解決するだろうか。

今も卒業式では「蛍の光」や「校歌」も歌うが、それに抵抗はない。それでも、照れくさがったり、単純な若者っぽい反抗心から歌わない者も必ずいる。だけどそこまで目くじらは立てない。集団に帰属意識や一体感を持てないまま卒業式を迎える可哀想な生徒たちには、暖かく抱擁し自然に一体感を持てるように仕向けるのであって、口をこじ開けてまで歌わそうと彼らを追いつめても一層傷つけることにしかならない。強制ではなく、本人が心から大きな声で歌いたくなるような学校の卒業式が良い卒業式に違いない。
さて国歌「ふるさと」ではどうなるか。やはり突っ張って歌わない者もいるのは同じだし、「ふるさと」は嫌いだという者もいるだろう。違うのは「思想・信条」を理由として歌わない者はいない(か激減する)ことだ。それでも「国歌」なのだから、口をこじ開けてでも歌わせるべきだとする強硬意見もあるかもしれないが、「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」はいかにも強制にはそぐわない。自ずから誰が考えても、「国歌」の強制という場面は、「ふるさと」では想定しづらい。大多数は心を込めてわが「ふるさと」を歌い、歌えない者は不本意だった自らの学校生活を悔恨しつつ、各々の想いを胸に学窓を巣立っていくに違いない。
このようにして、たぶん、今の問題は、きれいに解消することになるのだと思う。

そこで改めて、今「君が代」がなぜ、どこが問題なのか、振り返ってみると、
第一に、抵抗感を持つ者の大多数が、「思想良心の自由」をその理由にしていることが「ふるさと」との大きな違いだ。
その主張は耳にたこが出来るくらい繰り返されているし、役人も裁判官も多くの国民も知らないはずがない。君が代が西洋のナショナリズムのマネをして「国歌扱い」になったのは明治の初期であり、帝国憲法の制定と並んで絶対天皇制のシンボルとして使われてきた歴史を持つ。国内的には国民の思想・良心・学問の自由など基本的人権を弾圧する軍国主義の、対外的には侵略戦争と皇民化政策のシンボルとして。加えてその歌詞は、「天皇が治める御代」をたたえる内容であり国民主権にそぐわないことは、子どもにも分かる。
反対の理由はこんなに明白なのに、「思想良心」からの問いかけをあえて無視するように、職務専念義務違反のような外形的事項で裁こうとするのはどういうわけだ。これが「君が代」が国歌である第一の問題点だ。「ふるさと」では起こりえない。

第二に、「君が代」は、強制が似合う歌らしい。
儀式は厳粛に、一糸乱れず画一的に行うべきである。(日本人の儀式好きは儒教の影響であることは別の機会に論じたい)。「君が代」を心を込めて歌うことは「愛国心」の証しであり、「天皇」への敬意の表現である。たった1分足らずの歌でも、歌わない者は「非愛国者」であり「天皇」を冒涜する者であると決めつける。つまり「ふるさと」にはない神聖さがある。だから異端は許されない。そう考える者は、「君が代」以外の国歌は考えられなくなるのだろう。これは一つのイデオロギーであり、強制を伴うものなのである。そうでないなら、どんな歌でも良いはずだろう。

いろいろ粉飾されても、争点はただ一つ「天皇賛美」である。反対者が頑強に譲れないのは、民主国家日本の存亡に関わる重大事ととらえているからだ。ここを踏まえて「ピアノ裁判」を論じよう。
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