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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

第4回最高裁要請行動 要請書(3)

2010年01月11日 | 板橋高校卒業式
 <板橋高校卒業式> 杜撰きわまりない高裁判決!
 ☆☆ 偽証を見抜けない高裁判事は辞職せよ! ☆☆
 ★ 最高裁は国民が素直に理解できる公正な判決を! ★
 12月24日に第4回最高裁要請行動を行いました。「要請文」を3回(3週)に分けて掲載。


「キレンジャク」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》

 <板橋高校卒業式「君が代」刑事弾圧事件 第4回最高裁要請行動>
   ◎ 最高裁宛 要請文 (3)

 4,言論表現の自由に対する過度な制約への各方面からの疑問

(1)葛飾ビラ配布事件に対する世論の反応

 前記「葛飾ビラ配布事件」上告棄却に対するマスコミ・世論の反応は、添付資料の通りであり、「言論活動を萎縮させる」との懸念を指摘する声が多く見られます。(添付資料5.参照)
(2)日弁連人権擁護大会における「表現の自由の危機的状況」の指摘
 11月5・6日に和歌山で開かれた第52回「日弁連人権擁護大会」の第一分科会のテーマは「いま表現の自由と知る権利を考える」でした。「1,市民の表現の自由の危機的な状況」として、「日の丸君が代の強制問題を指摘した週刊誌記事を卒業式で配布しつつ君が代斉唱時の着席を求めた元教員に対し、裁判所は一審も二審も威力業務妨害罪の有罪判決を下しました」と、本件問題も触れられています。(添付資料3.4.参照)
(3)国連自由権規約委員会勧告 ~「公共の福祉」概念の誤用
 原判決では次のように、「表現の自由」を「公共の福祉」で制限し、かつ「公共の福祉」の意味を校長の「財産権、管理権」と同義としていますが、これは大変おかしな法令解釈です。
  「憲法21条は,表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく,公共の福祉のために必要かつ合理的な制限に服することを是認するものであって…他人の財産権,管理権等の権利を不当に害することは許されない」(P50)
 ここに言う「他人の財産権、管理権」とは、「卒業式を円滑に執り行う職責を負う北爪」(P33)校長の公権力の行使を指していますが、「公権力の行使」と「公共の福祉」は同義なのでしょうか。あたかも公権力が個人の人権に優越するかのような憲法解釈は人権と権力との倒錯であり、同時に「財産権」を不可侵の如く「表現の自由」に優越させることも「基本的人権」理解の倒錯です。
 「公共の福祉」制限そのものに関して、「国連自由権規約委員会最終見解」(2008/10/30)のパラグラフ10は、「…『公共の福祉』の概念が曖昧で、無限定であり、自由権規約で許容される限度を越えた制限がなされる可能性があることに対する懸念を再び表明する。…自由権規約で保障されている人権が『公共の福祉』を根拠として制限される場合は、規約で許容される限度を越えてはならないと明記すべきである」と、日本政府に対して勧告しています。
5.秘密録音の証拠能力 ~違法収集資料
 過日「布川事件」再審最高裁決定(2009/12/15)において、証拠の録音テープに10ヶ所以上の編集の痕跡があることが理由の一つとなりました。本件ICレコーダの録音行為は、管理者たる校長の許可無く行われた指導主事による秘密録音であって、しかも弁護団が改ざんの可能性を指摘している「違法収集証拠」であることを、指摘しておきます。
 以上、原判決には、初歩的な事実誤認、いくつかの法令解釈の誤りや判例違反と、憲法違反及び国際条約違反があります。最高裁におかれましては本件に関して口頭審理を開き、憲法と国際条約に則った公正な審判をしていただけるよう重ねて要請いたします。
 最高裁判所 第一小法廷
  櫻井 龍子 殿
  甲斐中辰夫 殿
  金築 誠志 殿
  宮川 光治 殿
藤田先生を応援する会


【補足】 杜撰な高裁判決③~「公権力の行使」が「公共の福祉」?
 高裁判決文の次の部分は、「立川事件・葛飾事件」最高裁判決の引き写しである。

 憲法21条の保障する表現の自由が優越的地位を有することは所論指摘のとおりであるとしても,憲法21条は,表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく,公共の福祉のために必要かつ合理的な制限に服することを是認するものであって,たとえ思想を外部に発表するための手段であっても,その手段が他人の財産権,管理権等の権利を不当に害することは許されないといわなければならない。(原判決p50)
 憲法21条1項も,表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく,公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであって,たとえ思想を外部に発表するための手段であっても,その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されないというべきである。(立川事件、葛飾事件共通)
 この事件が、先行する最高裁第二小法廷判決のコピペで済ませられない二つ目の理由が、「公共の福祉」だ。
 原判決が言っているのは次のことだ。
  ①「表現の自由」は、「公共の福祉」で制限できる。
  ②「表現の自由」が優越的権利だとしても、その「手段」が「他人の権利」を侵すことは許されない。
  ③「他人の権利」とは、具体的には「財産権、管理権等」のことであり、
  ④このケースの「財産権、管理権」とは、校長の「卒業式を円滑に執り行う職責」である。
 さて、根本的な疑問は2つだ。
 ①校長の「職責」とは、「公権力の行使」であって、「公共の福祉」と同義に使って良いのか。
 ②「財産権、管理権」「表現の自由」より優越させてしまったら、経済的自由の方が精神的自由より尊重されることになってしまう。

 基本的人権のイロハは、「他人の権利を侵害する自由は権利ではない」ということで間違いはない。
 そして、「他人」とは、「公権力」とは真逆の、相互に同等の権利を有する自由な個人のことを指している。憲法に保障する「公共(public)の福祉」とは、弱者も含めて全ての「個人の自由」のことであって、間違っても国家の強力な公権力のことではないのは明白である。
 校長の「卒業式を円滑に執り行う職責」とは、「個人の権利」なのだろうか。法律書には、学校教育活動は非権力的な行政作用に分類される「公権力の行使」とある。とりわけ都教委は卒業式の『学習指導要領』に基づく適正な実施を通達している。「国賠法」の対象となる学校行事という教育活動が行政の行為であることは明白だ。
 「公権力の行使」がどうして、「公共の福祉」なのだろうか。「公共」の「公」を「官」と勘違いしているとしか思えない。
 最高裁第二小法廷(立川事件・葛飾事件)の判決文の「公共の福祉」に触れた部分と、須田高裁裁判長の判決文の同じ箇所とは類似していて、重大な違いがある。
 最高裁では「他人の権利」と述べているところを、須田裁判長は「他人の財産権,管理権等の権利」と具体的に細かく例示して書いている。
 「他人の権利」なら、相互に自由な個人の権利全体をさすが、「財産権・管理権」と特定してしまうなら、それは「経済的自由」を不可侵とするに等しい。
 憲法条文の中で「公共の福祉」による制限の対象となるのが、他人の生存を脅かすような「経済的自由」であり、自由権に対し社会権が誕生してきた所以のものである。「経済的自由」が不可侵なら、生存権は消滅し産業革命期のジャングルの自由に逆戻りしてしまう。不可侵なのは「精神の自由」の方なのであり、「表現の自由」が優越的権利というのはその意味なのである。
 須田判決文は、「財産権・管理権」と「表現の自由」の優越度を逆立ちさせることによって、「公共の福祉」という憲法の基本理念を無効化してしまっているのである。
 「人類の多年にわたる自由獲得の成果であって…過去幾多の試練に堪え現在及び将来の国民に対し侵すことのできない永久の権利として信託された」基本的人権が、わが国では司法によってないがしろにされそうになっていることを、国際人権スタンダードの立場から、国連自由権規約委員会が勧告している。
 「『公共の福祉』の概念が曖昧で、無限定であり、自由権規約で許容される限度を越えた制限がなされる可能性がある」
 おそらく高裁の裁判官たちは、「国連自由権規約委員会」が日本政府に出した勧告を読んだことすらなかったのだろう。
※「第4回最高裁要請行動 要請書(1)」
http://wind.ap.teacup.com/people/3694.html
※「第4回最高裁要請行動 要請書(2)」

http://wind.ap.teacup.com/people/3707.html

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