本日(3月6日)、ある府立高校卒業式では、卒業生自身が、集合時間ぎりぎりまで、正門のところでビラをまいていました。そのビラのタイトルは、<卒業生の声も聞いてください>というものでした。
どうか、多くの方々にこの生徒の声を聞いていただきたいと思います。ご本人の了承のもと、固有名詞は伏せて掲載させていただきます。
=大阪府立高の卒業生の訴え=
◎ <卒業生の声も聞いてください>
こんにちは、私は今年○○を巣立つ三年生です。まず最初にことわっておきますが、私は、親に言われて君が代の不起立を決めたわけではありません。
私は卒業式での君が代の際、不起立を貫こうと中学生の時から決意しました。そんな私ですが、実は中学生の卒業式の直前まで私は不起立をするかしないか、とても悩んでいました。なぜなら私は、何処にでもいる、自分だけ目立つのが怖い人間だからです.
いえ、周りにとっての普通以上に私は怖いと感じていると思います。それはイジメを受けた経験があるからです。人と違うことをすればどうなるかわかっていました。
人と違うこと、多数の常識や雰囲気から外れたことをすれば、イジメられる、馬鹿にされる、責められる。私がどれほどの思いを持っていたとしても、どんなに正直に話しても、それを無視する程の数によって踏みにじられる。そんな経験を昔味わったことがあるからです。
こんなことをしたんだ、されたんだと正直に話しても、周りが違う嘘つき謝れと、何度も何度も大声で私を責めました。
私は何度も言い返しましたが、大人ですら、そのような状況に置かれれば疲弊するのに、こどもの私では耐え切れず何度も自分の意思をねじまげられました。しかし、ねじまげられる度に、私はとても悔しくて、歯を食いしばり、涙を流しました。
それから私は、自分の踏みにじられたくない思いを、自分で説明しきれるまで、周りに対することができるようになるまで、表に出すまいと決めました。
そんな決意を固めた私が何故中学生の卒業式で不起立を行い、意思を表明したいと思ったのか。それは、理路整然と説明しきれるようになったのではなく、数に対抗する勇気が生まれたわけでもなく、とある先生の言楽のおかげでした。
本当に卒業式の数日前までは、私が自分の考えを、思いを貫く為に不起立を行ったら、私は周リの異物を見る目に耐えられないかもしれない。だけど、思いを曲げるのだって辛い。どうすればいいのだろう、とずっと悩んでいました。
だけどそんな卒業式まで一日、二日のある日、私の先生は卒業式の予行のとき、みんなの前で言いました。「立っ立たないは個人の自由。だからもし、立たなかった人が居たとしてもそれを責めてはいけない」と。それを聞いて私は、立たない決意を固めたのです。
先生が、一人一人の思いを尊重したことを言ってくれた、立つ立たないどちらが悪いとかではなく、少数を切り捨てるのでもなく、多数を抑えるのでもなく、少数多数関係なく、私たちみんなを尊重してくれたその言葉は、私のターニングポイントになりました。
今の日本の民主主義をは多数決であると思います。そして、少数は何時だって多数に「お前らは間違っている」と言われつづけていると感じます。
だけどその先生は、多数少数ではなく、一人一人の思いを考えてくれた。私たち生徒を思ってくれていたことを私は忘れられません。
それでもやっぱり私は、多数が怖いので、高校では卒業式まで、君が代が流れるその時まで、自分の考えは隠しておくことに決めました。それと、先生には話さないだろうとも思いました。なぜなら、誰が多数派で誰が少数派かわからなかったから。もしかしたら先生はみんな多数派かもしれない。そう思うとなかなか打ち明けられませんでした。
けれどある時、○○の先生の中で昨年お世話になった先生が不起立で処分を受けたと聞き、よラやく自分の不起立に対しての思いを相談できる人が居ることを知り、とても安心できました。
不起立を取り締まる条例は私のような少数の生徒にとって安心できる先生を奪われることなのです。このままどんどんそういう先生が居なくなってしまったら,私のような少数派を理解してくれる人は居なくなるでしよう。
もし、理解してくれても、卒業式のときに起立しているところを見てしまうと、結局身体を張ってくれるほど私たちのことを思ってくれるわけでわけではないのだと思ってしまいます。
そうなれば、心の中で先生がどう思っていても、私にとっては信じていいのかわからない存在になってしまいます。
そうなれば何時しか、生徒に強制はされなくとも、実質自粛ムードになり、わざわざ立つ人は居なくなるでしょう。それがもし、当たり前になったら、最後にどうなるかはわかりません。ですがこのまま、誰も声を上げなくなったら、今まであったことが風化してしまうのではないでしょうか。
私達は最近失敗をしませんでしたか?
予測では絶対大丈夫。それを信じて、大丈夫じゃない可能性を考えることを放棄し、大丈夫じやない可能性を考えた少数を事故が起こるまで軽く扱ってきませんでしたか?
何か起こってから、失敗したと言っても後の祭りです。取り返しはつかないのです。
例えば、私達は三年前より先に反原発と声をあげるぺきでした。だけど、人ごとだからとまともに向き合わなかったのだと思います。だからあんな事故が起きてしまったのではないでしようか。
少数を切り捨てることは簡単です。でも、お願いします。少数の声を聞いてください。
有るか無いかもわからないもしもを考えたとき、起こってしまってからでは取り返しがっかないのです。
だから私は、今、声をあげます。不起立で意見を表明したいと思います。
『グループZAZA』(2014-03-06)
http://blog.goo.ne.jp/zaza0924/e/a50dc8fb469a79ef2029867305bd73fb
どうか、多くの方々にこの生徒の声を聞いていただきたいと思います。ご本人の了承のもと、固有名詞は伏せて掲載させていただきます。
=大阪府立高の卒業生の訴え=
◎ <卒業生の声も聞いてください>
こんにちは、私は今年○○を巣立つ三年生です。まず最初にことわっておきますが、私は、親に言われて君が代の不起立を決めたわけではありません。
私は卒業式での君が代の際、不起立を貫こうと中学生の時から決意しました。そんな私ですが、実は中学生の卒業式の直前まで私は不起立をするかしないか、とても悩んでいました。なぜなら私は、何処にでもいる、自分だけ目立つのが怖い人間だからです.
いえ、周りにとっての普通以上に私は怖いと感じていると思います。それはイジメを受けた経験があるからです。人と違うことをすればどうなるかわかっていました。
人と違うこと、多数の常識や雰囲気から外れたことをすれば、イジメられる、馬鹿にされる、責められる。私がどれほどの思いを持っていたとしても、どんなに正直に話しても、それを無視する程の数によって踏みにじられる。そんな経験を昔味わったことがあるからです。
こんなことをしたんだ、されたんだと正直に話しても、周りが違う嘘つき謝れと、何度も何度も大声で私を責めました。
私は何度も言い返しましたが、大人ですら、そのような状況に置かれれば疲弊するのに、こどもの私では耐え切れず何度も自分の意思をねじまげられました。しかし、ねじまげられる度に、私はとても悔しくて、歯を食いしばり、涙を流しました。
それから私は、自分の踏みにじられたくない思いを、自分で説明しきれるまで、周りに対することができるようになるまで、表に出すまいと決めました。
そんな決意を固めた私が何故中学生の卒業式で不起立を行い、意思を表明したいと思ったのか。それは、理路整然と説明しきれるようになったのではなく、数に対抗する勇気が生まれたわけでもなく、とある先生の言楽のおかげでした。
本当に卒業式の数日前までは、私が自分の考えを、思いを貫く為に不起立を行ったら、私は周リの異物を見る目に耐えられないかもしれない。だけど、思いを曲げるのだって辛い。どうすればいいのだろう、とずっと悩んでいました。
だけどそんな卒業式まで一日、二日のある日、私の先生は卒業式の予行のとき、みんなの前で言いました。「立っ立たないは個人の自由。だからもし、立たなかった人が居たとしてもそれを責めてはいけない」と。それを聞いて私は、立たない決意を固めたのです。
先生が、一人一人の思いを尊重したことを言ってくれた、立つ立たないどちらが悪いとかではなく、少数を切り捨てるのでもなく、多数を抑えるのでもなく、少数多数関係なく、私たちみんなを尊重してくれたその言葉は、私のターニングポイントになりました。
今の日本の民主主義をは多数決であると思います。そして、少数は何時だって多数に「お前らは間違っている」と言われつづけていると感じます。
だけどその先生は、多数少数ではなく、一人一人の思いを考えてくれた。私たち生徒を思ってくれていたことを私は忘れられません。
それでもやっぱり私は、多数が怖いので、高校では卒業式まで、君が代が流れるその時まで、自分の考えは隠しておくことに決めました。それと、先生には話さないだろうとも思いました。なぜなら、誰が多数派で誰が少数派かわからなかったから。もしかしたら先生はみんな多数派かもしれない。そう思うとなかなか打ち明けられませんでした。
けれどある時、○○の先生の中で昨年お世話になった先生が不起立で処分を受けたと聞き、よラやく自分の不起立に対しての思いを相談できる人が居ることを知り、とても安心できました。
不起立を取り締まる条例は私のような少数の生徒にとって安心できる先生を奪われることなのです。このままどんどんそういう先生が居なくなってしまったら,私のような少数派を理解してくれる人は居なくなるでしよう。
もし、理解してくれても、卒業式のときに起立しているところを見てしまうと、結局身体を張ってくれるほど私たちのことを思ってくれるわけでわけではないのだと思ってしまいます。
そうなれば、心の中で先生がどう思っていても、私にとっては信じていいのかわからない存在になってしまいます。
そうなれば何時しか、生徒に強制はされなくとも、実質自粛ムードになり、わざわざ立つ人は居なくなるでしょう。それがもし、当たり前になったら、最後にどうなるかはわかりません。ですがこのまま、誰も声を上げなくなったら、今まであったことが風化してしまうのではないでしょうか。
私達は最近失敗をしませんでしたか?
予測では絶対大丈夫。それを信じて、大丈夫じゃない可能性を考えることを放棄し、大丈夫じやない可能性を考えた少数を事故が起こるまで軽く扱ってきませんでしたか?
何か起こってから、失敗したと言っても後の祭りです。取り返しはつかないのです。
例えば、私達は三年前より先に反原発と声をあげるぺきでした。だけど、人ごとだからとまともに向き合わなかったのだと思います。だからあんな事故が起きてしまったのではないでしようか。
少数を切り捨てることは簡単です。でも、お願いします。少数の声を聞いてください。
有るか無いかもわからないもしもを考えたとき、起こってしまってからでは取り返しがっかないのです。
だから私は、今、声をあげます。不起立で意見を表明したいと思います。
卒業生
『グループZAZA』(2014-03-06)
http://blog.goo.ne.jp/zaza0924/e/a50dc8fb469a79ef2029867305bd73fb
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