小さな旅のアルバムⅡ

カメラ片手に旅に出よう! 
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長篠・設楽原の戦いの地(愛知県・新城市)

2015年07月11日 | 歴史旅
高天神城跡」を訪れた後、長篠・設楽原合戦の戦いが繰り広げられた地を訪ねて来ました。
静岡県から愛知県への移動です。下道で車で走ること数時間、設楽原歴史資料館に到着した頃には、雨が降って来てしまいました。明日ここで火縄銃を使った祭りが行われるとの話を聞いたのですが、この天気では祭りは、難しそうです。


武田信玄亡き後、武田家を継いだ武田勝頼が(15,000人)の軍を率いて徳川家康の拠点の城、長篠城(500人)を囲んだことで、織田・徳川連合軍(38,000人)と武田軍との全面戦争になった戦いで太平洋戦争に例えれば、ミッドウェー海戦?・・・歴史が変わったとされる重要な場所です。


信長は、三千挺もの鉄砲を三段構えで撃ち、結果、戦国最強とされた武田軍の騎馬隊を打ち破った歴史に残る合戦。
その後、武田氏の勢力は大きく衰退し織田氏の勢力が絶対的になるきっかけとなったのは教科書にも記述のあるところです。


単純に考えれば、長篠城の攻撃をあきらめて甲斐の国に戻ることが出来れば・・・歴史が変わった可能性も。信玄の側近だった名だたる武将たちは、ひとまず退散を進言、また馬防棚を避け横から攻める案を勝頼に提案したが受け入れられずとの話もあり・・・



勝頼は、兵力的に見て不利にもかかわらずどうして織田・徳川連合軍への正面突破の道を選んだのか?信玄が落とせなかった高天神城攻略に成功した勝頼の自信か?信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したとも言う話が伝えられている。


もしや信玄依頼の重臣たちへのリストラ実行策か?


織田・徳川連合軍への正面突破を実行し多くの火縄銃の威力に圧倒され破れ、名だたる名将を失ったと伝えられているが元々兵力に差が有りすぎる。


信長が三千挺もの鉄砲を三段構えで撃ち、勝利したとの話だがこれは、こじつけの話では?現実としては、4段~5段打ちでなければ馬のスピードにはかないません。
以前、松本城で火縄銃での実演を見物したことが有るのですが三段構えでは、タイムラグがありすぎでした。真実は???


色々な想いを抱きながら、帰り道、浜松の餃子家さんでの夕食。


やはり自分がドライバーの場合には長距離の運転時には、腹七文目でなくては・・・
お腹がいっぱいになり過ぎで帰り道の車の運転が辛くなった掛川~新城市までの旅でした。私は、武田信玄ファンなので今後、武田家の辿った地をゆっくり巡って見たいと考えていま~す。

2015年7月にK-30&TG-850にて撮影                                   
                                          のち
コメント (4)
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