おはようございます。こちら 横浜 お天気、雨のような 曇りのような?本日中に旅のお話させていただきます。
その1 『 母校 訪問 』
写真が 母校のシンボルの時計台。 この前で 下宿がなくて泣いていたんだ。ワタクシ18才の時。今みたいに にくたらしいばばあじゃあなかったのよ。
写真右は時計台下あたりから見た中央芝生。
泣いていても埒が明かないので 芝生でキャッチ・ボールをやっていたおじいさんとお孫さんに 声 をかけて下宿を紹介してもらうことになった。さあ 行くわよ!
学校の裏山をぬけたところにお墓があって そこを通って学校に通ったんだ。電灯が一つしかついてなかったから ちょっとこわかったけれど・・・今の世の中のような こわさじゃあないな。
建てかえられた 新しい下宿と 復興中のがけ。
ここでは 私のお世話になった下宿はご紹介することはできないのだけれど、神戸の震災前に建てかえられていたので 下宿も下宿のおばさんも無事だった。私が心配していた下宿の場所は更地になっていた。
当時は貧しい学生達が住んでいたんだ。皆がそうとは限らないと思うけれど、交通事故でお父さんを亡くして 何の保障もなく( つまりは相手の人が無免許の浮浪者のような人だったらしい) 奨学金もらって学校に通っていた男子学生もいた。とっても明るい男の子だった。)
下宿のおばさんのうちは代がわりをしていた。玄関のベルを押すと息子さんがでてきてくださった。
下宿のおばさんは 施設から病院の方に移っていた。御歳93歳。お体の具合はあまりよくないようだ。
思い出話いろいろ。栗泥棒などなど・・・。学生というだけで 許されていた特権のようなものもあったと思う。今考えると信じられないことだけれど、バンドの練習を勝手にお部屋でさせてもらっていた。相当すごい音量だったと思う。
再びもどり 構内。
学食・・・
むかって右は 当時の場所にそのままあった一番きれいだった食堂のカウンター。
体育会系の薄汚れていた食堂の場所はすっかり綺麗になり 新しい校舎に変わっていた。その食堂は震災の時に倒壊したというような噂も聞いた。
学食で きつねうどんを食べる。230円なり。近所の親子連れが食事にきていた。外部の人々にどれくらい大学が解放されているのかはわからないけれど、なんとなくほほえましい感じがした。
蘇った 構内の様子・・・
左の写真の右側に駐輪場があった。学生達はどうやら自転車で構内を移動するらしい?我々の時代は皆 徒歩。駐輪場の場所はお金持ちのお坊ちゃま君 もしくは教職員の駐車場だったと記憶している。
P P M の音楽をバンドを組んでやっていた池のほとり。今は柵があってはいれなかった。部室はなかったから雨の日は崩れかかった 何だろう?洞穴?みたいな場所で練習をした。
元彼は バンジョー弾きだった。ブルー・グラスという音楽をしていた。
只今 そのサークルは時代の流れとともになくなった。
再び 下宿界隈にもどり 記念碑前
実は 情けないことに 神戸の震災の日を忘れていた。(TV ・ 新聞等 全くと言っていいほど見ていないので)
お亡くなりになった方々のご冥福を祈ってきれいなお花が沢山飾ってあった。
『 やすらかに 』 という 文字が刻まれた石碑は この町内の方々によってつくられた。
何が出来るというわけではないけれど 今日頂いているいのちを大切にして 生きたいと思う。
合掌