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出会い  上原 先生の 思い出・・・( 広島 原爆  62年 )

2007-07-31 08:00:31 | 上原輝男先生の てるてる ワールド
上原先生に出会ったのは かれこれ・・・30年位前に遡ります。

玉川大学の通信教育のスクーリングで、小学校教員養成課程の「国語科教育法」という教科を教えていただきました。

スクーリングというのは 普段は自宅で自分でテキストを使って勉強ををするのですが、夏の間 大学の学生さんたちが夏休みになるのを待って、およそ2週間の間大学に集って学ぶのです。

ここいちょう村(=仮名)でも ただいまこのスクーリングが行われているようです。

さて 当時の上原先生の第一印象ですが、
姫(やな野郎来たぜ)でした。
なぜやな野郎だったのか?じぶんでも未だにわからないのです。ただこの当時わたしは 自分自身が相当ひねくれた野郎だったように記憶しています。(ただ今もそうである。という声も聞こえてきそうではありますけれど・・・。)

しかし 先生がおもむろに開いた箱の中から出てきたものを見て私の目はそのものにくぎづけになってしまいました。

そのものとは 原爆で被爆した先生ご自身の学生服でした。

黒い学生服でしたから 光を吸収しその痛み具合いは相当なものであったとは思いますが、そのことより 光が直進するんだということを物語るかのように片側だけぼろぼろに焼け焦げていたように記憶しています。また そのような説明があったようにも記憶しています。

私の父は軍人だったし、私はヒロシマ県の出身(正確には山口県)なので この時から先生のことをずい分身近に感じるようになりました。そしていそいそと先生の授業に参加したのです。

何を学んだのか?殆ど記憶にはないのですが・・・

こういう言葉を教えていただきました。
「 不易流行 」
ただいま この言葉を辞書で調べてみてもよくわからないのですけれど、
このときに自分が教えていただいたように思うのは・・・

「時代が流れいき 変わっていっても、変わらない不変のものがあるんだ。」そんな風に自分の中では解釈していました。

そして、その「変わらないものって一体何なんだろう?」そんなことを考えながら生きてきたようにも思います。

大学の学生さんや研究会の会員には相当手厳しい先生でしたが、スクーリングにおける先生は「やさしい」という言葉がぴったりする感じの先生であったように思います。

スクーリングの講義の最後にはテストを受け、そのテストに合格しなければ単位はもらえないのですが、先生の講義もテスト内容も何だかわけわからんものだったように記憶しています。

でも驚いたことは、先生のテストを受けるときの説明でした。

何問か用意された質問がどうしてもわからないものは 
「なぜ自分が小学校の先生になりたいのかを書きなさい。」
先生はそういう救いの道を用意して下さっていました。

小学校の先生を目指すものがみな学問なり学業なりができる人であるとは限らないからだと思います。

「 子供のこころ 」 を 育てるのに必要な資質はそれだけではないとお考えだったのではないかと思います。

子供たちが いろいろであるのだから 先生だっていろいろでいいのだ。と思います。

何より 多分皆様がお考えになっていることと一番違っていると思われることは、

「 子供に教えてはならない。」 ということでした。

小学校の先生の仕事は 子供にものを教えることだと勘違いしている人が多い中、まず子供を知ることから始めようとしていました。

30年近くたって さまざまな経験をしてやっと恩師が言っていた意味がわかるような気がしています。

子供が自分に教えてくれているんだと思います。

子供の中に自分を発見したり、自分にはないものを発見したりして、 

「 いきる 」ということはどういうことなのか?そのことを毎日の生活の中で考えていかなくてはならないのだろうと思います。

>記事を八月から移行しました。



コメント (2)
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