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化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

丹波霧     ( その8 )

2008-08-06 08:04:05 | ある被爆者の 記憶
おそらく、山伏の話を、祖母や母にも伝えなかったのは、この変わったタブーのある家の歴史とのかかわりを、子ども心に直観したためであったと思う。老山伏が、山路の祖父にえらい世話になったというなら、祖父が、その凄腕を鳴らした警察官時代でなければならない。その祖父が、濡れ手拭いを広げて水気を切る音に、人の首を打ち落とす音の似通いを聞きつけるというのは、普通ではない。
 老山伏の過去と、祖父の過去とが結びついているとしたら、この勝手な想像の中でしかないように思ったのである。
 山路の家は代々刑吏、つまり首斬り役人であったかどうかは別としても、牢獄、形場を預かる家であったにちがいない。父が祖父を不浄役人と軽侮したのも、母方の実家のことであり、どこまで父は詳しく知っていたか分からないが、当っていないことではない。祖父は代々の家業を、時代が変わっても踏襲したことになる。
 明治新政府の権力機構の末端としての地方警察が、どのように組織され、編成されたかについては詳しく知らない。
 しかし、山路の家に限っては、断髪、廃刀して、官服に着替えただけで、仕事そのものに変わりはなかったことになるのであろうか。
 初孫が虚弱であるといって、元気づけのためにわざと帯刀して、いっしょに写真を撮らせたりしているくらいだから、その表情からも、明治維新という歴史の転換期の動揺は見当たらない。
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丹波霧     ( その9 )

2008-08-06 08:03:04 | ある被爆者の 記憶
 この祖父が死んだのは大正十二年、軽便鉄道竣工は大正四年九月だから、祖父もこの軽便を見ている。
 しかし、祖父は生涯、この軽便に乗らなかったという。警察官として、公務の場合もあっただろうと思うのに、頑なに何かを守ったとしか言いようがない。刑事としての腕利きを見込まれて、所轄外の警察に何度も出張している。そのような時はどうするのかと言えば、当時、阪鶴鉄道と呼ばれた、大阪、舞鶴間を走った交通機関は何の抵抗もなく利用している。すると、祖父も、この旧城下を煤煙で汚すことを嫌った保守派の一人だったのだろうか。
 篠山が離合集散して、完全に幕藩時代と決別するのは、明治四年九月六日であったと思う。もちろん、軽便鉄道はおろか、鉄道馬車さえ、まだついていない。
 この日、華族条例によって、旧藩公は、東京移住を決定、次のような告諭文を残している。
  
  「 我等今般帰京後、於各、猶又朝旨を遵奉し、私見を去り、県令を重んじ、いやしくも県下に在る者、先知は後知を覚し(さとし)、迷誤なくいよゝ恪勤(かくきん)して県令に従はしむるを以て、祖先累世の恩に報ずることをせば、我等の大幸これに出でず、万一、己(をのれ)の私見を執(と)り、朝廷御役人に遠慮するものあらば、大罪身を容るる所なし。よろしく、微衷を察し、鎮静奉命せんことを希望す。
  この事、深く関心候につき、重ねて申し諭し候也。
   辛未九月
  追て、秋冷の時分、各々保護し候やう存じ候。」
 
 この文章のどこにも、新時代到来の足音を聞きつける歓喜の声は発せられてはいない。むしろ、御一新という兇暴な権力の前に虐げられた敗者の声を殺した嗚咽があるというのは言いすぎだろうか。
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丹波霧     ( その10 )

2008-08-06 08:02:27 | ある被爆者の 記憶
この旧藩公の告諭が、どこで、どんなかたちでなされたか、今はそれを伝える人もいない。だが、はっきりと分かることは、いや応なしの歴史の転換期に動揺する人心を、ひたすら、かつての君臣の情誼に訴えて慰撫していることだ。
 祖父も、きっとこの群れの中の一人であったにちがいない。
 篠山に迫る官軍陣営に、御家老にお供して誰よりも早く、時代の急変を見聞した祖父である。そして、そのことを引き金として、篠山の封建体制は音を立てて崩れ、なすことを知らぬ篠山藩であった。
 この藩公東京移住の条例は、明治新政府が幕藩体制に打った最後の止めであったろう。
 罪なくして主君を奪われ、残された家臣団は、明日からは完全に崩壊、離散の憂き目に曝されなければならなかった。
 祖父はおそらく、何のために、早うち同様に、山陰道鎮撫使の本陣がおかれた福住村山田嘉右衛門方まで四里余の雪道を駆け続けたのかを思い出していたにちがいない。ただでさえ冷たい丹波路を、身ごしらえは礼装の麻裃に蓑笠つけただけの丸腰のまま、みぞれ混じりの寒風に、馬首を立て直し、立て直ししたにちがいない。
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丹波霧     ( その11 )

2008-08-06 08:01:26 | ある被爆者の 記憶
官軍は、西上(にしがみ)の山、甚七森に前哨を置き、東水無川東岸には陣幕を張りめぐらし、砲四門を据えていたという。
 威猛高な官軍兵士の前に、平蜘蛛のように平伏して、ひたすら恭順の意を尽し、黄金百枚を献じたのは、一体何の役に立ったのかを、祖父は思い出しては、歯嚙みしたにちがいない。
 旧藩公、それに追随する旧藩士たちが、遂に再び帰ることなき篠山を後に、どの街道を出立したのか、別離を惜しみ見送る者たちが、どこでそれを断念したのか、今となっては知る由もない。
 しかし、その最後の最後まで、おそらく旧御領内の最果ての地まで見送ったのは祖父であった。
 山路の家は代々、道の者を束ねる家柄であったからである。つまり、今でいうと末端警察権を握っていたのである。お殿様の道々の安全を見守る最後の御奉公であったかもしれない。
 しかし、それが最後であると思えば思うほど、その日も粛々として降る丹波霧の中に、暮れ泥んでいく篠山盆地は哀しかったことであろう。
 丹波の秋は殊更に静かである。秋には秋の佇いを、例年同様に示す野山の故に、祖父の目に痛ましかったにちがいない。

 篠山はこの日から、夜明け前というより、昭和二十年まで、悪夢を見続けることになる。
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