地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

『 森と暮らす 森に学ぶ 』  八ヶ岳倶楽部をたずねて (その1)

2008-08-24 17:53:28 | サムライ ニッポン
この夏、清里に1泊2日で出かけた。その帰り道、20数年もの間ずっとではないけれど憧れていた 柳生博さんの 『 八ヶ岳倶楽部 』 を訪れることができた。

ワタシの手持ちのご著書は1994年 8月20日 第4発行のものだから、ジャパンが小学校の2年生くらい、マンマミーヤが生まれたころに自分が買い求めたらしい。

作者(=柳生博さん)は13歳になったときに一人旅にでる。そのときに運命的な出会いをしたのが、八ヶ岳近くの西沢の原生林。以下 青字はご著書からの抜粋。

僕は、リス程ではなく、カモシカよりはうんと小さく、そう、タヌキやテン程の大きさに、すうっと小さくなっていったのです。それは、僕を惑わせたり、心配がらせたりするような体験ではなく、むしろ、僕をとても落ち着いた気持ちにさせてくれるのでした。・・・。
 
 多感な思春期の、肩をいからせた自分が、この西沢の森の中では、すっと小さくなって、けれども程よい重みの、そう、生き物としての自分の重みを感じることができたのです。とてもバランスがとれて、非常に安定して地面に立っている。そんな感じです。
 それ以来、例えば恋愛や進学、仕事など、自分で考えて決断しなければならない節目には、必ずここに来て、答えを出すようになっていました。
 この植物の気配に満ちた山の中にいると、他に比較したりする余分な要素が、一切無くなった状態で、ひとつの生き物である僕として、何をやりたいか、どうしたらいいかを素直に考えることができたのです。

 僕は俳優という仕事をしていますけれど、・・・・
特に、売れてきたりすると、褒められて、おだてられるばかりなのです。そうすると、やっぱりバランスが崩れてきます。
 僕は、そういうやばい状態になると、その度にここに来て、自分なりの正気を取り戻していました。けれど、そんな状態を繰り返しているうちに、とうとう、その応急処置的な行為に、限界を感じ始めてしまったんです。
 このままでは、自分も家族も、空中分散してしまう。そんな危機感に、突然、襲われてしまった時がありました。
 僕が俳優としてやっと認められたのは、三十九歳の時。・・・まあ、ずいぶん遅い開花時期でしたけれど、仕事も増えて、お茶の間の人気者になりつつあった時期のことです。
 その頃の僕は、実に傲慢な考えを持ち始めていました。
・・・おきまりの俳優気質に染まっていき、私生活でも、家族を僕の力で育んでやる、という気持ちに陥っていったのです。
 完全に自分のバランスを失っていました。育むことは、決して力づくでするようなことではないのに。
 そして、山に来る度に、僕は家族を育むことに、自信を無くしていったのです。このままでは東京での毎日を続けていたら、家族や夫婦の愛を育むこと、培っていくことができなくなってしまうと思いました。

― 八ヶ岳を目指す ―
そう気がついてからのことは簡単でした。精神生活の拠点を持とう。僕は当然のことのように、ここ八ヶ岳を目指し、家族四人でボロ車に乗り込んだのです。虎の子の預金通帳を握りしめながら―
 その頃の僕は、顔が売れ出したと言っても、所詮は年とった駆け出しの俳優。恥ずかしい話、年収は三五○万そこそこのものでした。とてもゆとりのあるお金はありません。・・・なんとか土地を買ったら、もうお金はほとんど残っていませんでした。
・・・。
十三歳の少年の話を大泉村の人々は一生懸命聞いてくれそして動物や山菜の秘密、山の話などを、いつまでも話してくれた。
僕は、その年代にありがちな、大人を小バカにした少年でしたし、本を書くような人が教養のある人だ、と漠然と思っていました。だから、その時、なんてこの人達は教養があるんだろう、と強く感じたのです。
バランスよく、常識の中で生きている人。つまり、正気の人間だからこそ素敵であり、教養も備わっている。そういうことなのだな、と痛感したのでした。
・・・。
今も、永く東京で仕事をしていると、時折、バランスを崩しかける時があります。そんな時は、まっ先にここに帰って、あの西沢の原生林の中に入って行きます。
そうすると、僕は少しづつ正気を取り戻していき、またすうっと小さくなって、本来の僕の姿になるのです。
 それは、とても安定した、落ち着いた気持ちにさせてくれる重さ―
 実は、この重さこそ、魂の重さなのかもしれない、と思っています。
 あの夏から、ずっと。


自然の中に住まうことはできないにしても、一年のうち何度か、海や山の懐にいだかれる時をすごすことは、子供達にとって絶対に必要なことだと思う。

受験勉強に費やした膨大な時間とお金とエネルギーは無駄だったとは言いたくないが、人間的に豊かになることとはまた別の次元の話だと思う。

実際に、この当時、かの地に山のおうちを望んだ人達は、ごくごく普通のサラリーマンの奥さん達だった。
今まで住んでいた、もう無間地獄のような、欲求不満のかたまりのような二DKの住空間が、とても生き生きしてくるんだな。・・・。
窒息しそうな都会のあの住空間、そして生活、夫婦関係、子供の教育、お金の使い方の悩みまでも面白いように解きほぐされていきます。そうすると、都会の素晴らしさ、面白さがよりエキサイティングになって、仕事にも身が入るわけです。仕事にもがんばれます。


ワタシ達夫婦が、このような試みに挑戦することは、はっきり不可能だったと思う。とうちゃんの仕事は、毎日深夜まで続いたし、朝は誰よりも早くうちを出て働いていたから。

当時、一生懸命働いているのに、どうしてこういう夢がもてないのだろうか?思ったものだ。発想の転換が出来なかった、いやできないくらい、仕事と生活に追われていたように思う。

夢はある意味、切捨て 切捨て生きてきた。それが生きるということだと思っていたから・・・。

>写真は『 八ヶ岳倶楽部 』レストランで飲んだ フルーツティー。奥様 オリジナル。少しずつ、何杯もおかわりすると段々、味が変化してくる。
わくわくして飲んでしまったから、飲み終わったあとのポット。飲む前のポットの中には 贅沢な、色鮮やかなフルーツが沢山入っている。

積年の想いが一気に蘇って、ちょっぴりの後悔の念と、様々な苦しかった思い出がこのフルーツティーの一杯、一杯に 癒された。
 
お会いできるとは思っていなかった柳生博さんにサインもいただいた。現在このご著書は24版になっているとか。

 ここの住人ではないけれど・・・
    大声で叫びたい
       『 ようこそ! 八ヶ岳倶楽部へ 』  














コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする