19日 Sちゃんのお墓参りに出かけた。横浜駅(西口)から タクシーで三ッ沢墓地まで1000円ちょっと。Iちゃんに教えてもらった”三橋茶屋”さんのお店の方が教えてくださった方法で出かけることにした。
三ッ沢公園のイメージ( いえ、実は三ッ沢公園も行ったことないけど、公園墓地のイメージってこと )で出かけたものだから、ちょっとびっくりしてしまった。つまり、見渡す限り お墓 お墓 お墓 だった。
三橋茶屋さんというお店は”お茶をする所”ではない。これらのお墓の管理をするお店なのだ。
ご主人さまになるのかな?観音様のような、大仏さまのようなお話の大好きなおばあちゃんが出ていらして、色々とお話をしてくださった。
< おばあちゃんのお話 >・・・ここからです・ます調に変更。
明治4○年頃、先々代の祖父に当たる方が、頼まれて1万坪の土地を墓地として(今の横浜市?)に提供しました。
( 以下 話半分でお読みください。例によって、一生懸命聞こうとすればするほど、相手の言うことが聞き取れない あやかし@なのであります。)
・・・まだまだ きつねやたぬきが出る時代でした。大正6年頃には、お墓は5~6基しかありませんでした。その後、震災、戦争・・・があり、その度にお墓はどんどん増え、今や、およそ”7000”の墓所があるそうです。
完売状態というのでしょうか?もうここの墓地を買うことはできません。横浜市が管理しているそうです。
このお店の中はきちんと整理され、お花やお線香を買うことができます。昔、お墓参りに使った、ブリキ?でできた家紋と○○家と書かれた手おけが壁に飾ってあります。古くからこのお茶屋さんが、この地域の皆さんのために存在し続けたことを物語っています。
昔は山の上まで、お参りをする皆さまのために、お墓にお供えするお水を天秤棒で担いで上がったそうです。奉仕のこころがなくては成り立たないお仕事なのだと思います。
< Sちゃんのお墓 >
お茶屋さんのすぐ近くの場所にSちゃんの眠っているお墓がありました。S教会のIさんという方のご厚意で、その方が所有していらっしゃる墓地にSちゃんは眠っていました。
墓標には多くの教会関係の方々のお名前が刻まれていましたから、( 天国にでかけてもSちゃんはきっと寂しくないな )とワタシには想えました。
++++ ++++
Sちゃんは、戦時中、生まれ落ちた時から精神的な病気を抱え、足も不自由だった。(ト思われる。)母を亡くし、施設で育ち、グレて野宿し?(本人の弁)・・・病院に入り?病気のデパートという位、病気を抱えながら生きてきた。
キリスト者になったのが何歳なのかはわからないけれど、ワタシはSちゃんがキリスト者であって本当によかったなあ~としみじみ思った。
墓石には 次の言葉が刻まれていた。
「 されど、我々の国籍は天にあり 」
ワタシは、この、キリスト者の民族を越えたこころの広さが好きだ。わけ隔てのない、家族の垣根も取り払い、同じ兄弟・姉妹として、ともに生きようとする姿がすきだ。
と・も・だ・ち ワタシは単にSちゃんの友達であっただけだ。
お葬式一つあげてあげるお金も知恵も力もない。ワタシは自分がSちゃんの死に際して呼ばれなかったことのわけがわかったような気がした。
ワタシはいつだって、偉そうに意見を述べるだけなんだ。おいしいとこどりするだけなんだ。本当に大変な、病気の真っただ中のお世話は、お医者さまや看護婦(師)さん、長い長い人生を支えてきてくださったのは施設の方々や教会の関係者の皆さまのおかげさまなのだということを痛感した。
そんなワタシに残されたもの、それは沢山の思い出とあの日の約束。それらはワタシのこころの中にこれからもずっと永く刻まれていくことだろう。ワタシはSちゃんに会えたことを本当に、神様に心から感謝をするんだ。
この日、自宅のハイビスカスが ”ありがとう”って言ってるみたいに一輪さいた。
>写真は三ッ沢墓地の様子。
帰路は徒歩とバス( 横浜駅まで210円 )バス便は結構ある。
三ッ沢公園のイメージ( いえ、実は三ッ沢公園も行ったことないけど、公園墓地のイメージってこと )で出かけたものだから、ちょっとびっくりしてしまった。つまり、見渡す限り お墓 お墓 お墓 だった。
三橋茶屋さんというお店は”お茶をする所”ではない。これらのお墓の管理をするお店なのだ。
ご主人さまになるのかな?観音様のような、大仏さまのようなお話の大好きなおばあちゃんが出ていらして、色々とお話をしてくださった。
< おばあちゃんのお話 >・・・ここからです・ます調に変更。
明治4○年頃、先々代の祖父に当たる方が、頼まれて1万坪の土地を墓地として(今の横浜市?)に提供しました。
( 以下 話半分でお読みください。例によって、一生懸命聞こうとすればするほど、相手の言うことが聞き取れない あやかし@なのであります。)
・・・まだまだ きつねやたぬきが出る時代でした。大正6年頃には、お墓は5~6基しかありませんでした。その後、震災、戦争・・・があり、その度にお墓はどんどん増え、今や、およそ”7000”の墓所があるそうです。
完売状態というのでしょうか?もうここの墓地を買うことはできません。横浜市が管理しているそうです。
このお店の中はきちんと整理され、お花やお線香を買うことができます。昔、お墓参りに使った、ブリキ?でできた家紋と○○家と書かれた手おけが壁に飾ってあります。古くからこのお茶屋さんが、この地域の皆さんのために存在し続けたことを物語っています。
昔は山の上まで、お参りをする皆さまのために、お墓にお供えするお水を天秤棒で担いで上がったそうです。奉仕のこころがなくては成り立たないお仕事なのだと思います。
< Sちゃんのお墓 >
お茶屋さんのすぐ近くの場所にSちゃんの眠っているお墓がありました。S教会のIさんという方のご厚意で、その方が所有していらっしゃる墓地にSちゃんは眠っていました。
墓標には多くの教会関係の方々のお名前が刻まれていましたから、( 天国にでかけてもSちゃんはきっと寂しくないな )とワタシには想えました。
++++ ++++
Sちゃんは、戦時中、生まれ落ちた時から精神的な病気を抱え、足も不自由だった。(ト思われる。)母を亡くし、施設で育ち、グレて野宿し?(本人の弁)・・・病院に入り?病気のデパートという位、病気を抱えながら生きてきた。
キリスト者になったのが何歳なのかはわからないけれど、ワタシはSちゃんがキリスト者であって本当によかったなあ~としみじみ思った。
墓石には 次の言葉が刻まれていた。
「 されど、我々の国籍は天にあり 」
ワタシは、この、キリスト者の民族を越えたこころの広さが好きだ。わけ隔てのない、家族の垣根も取り払い、同じ兄弟・姉妹として、ともに生きようとする姿がすきだ。
と・も・だ・ち ワタシは単にSちゃんの友達であっただけだ。
お葬式一つあげてあげるお金も知恵も力もない。ワタシは自分がSちゃんの死に際して呼ばれなかったことのわけがわかったような気がした。
ワタシはいつだって、偉そうに意見を述べるだけなんだ。おいしいとこどりするだけなんだ。本当に大変な、病気の真っただ中のお世話は、お医者さまや看護婦(師)さん、長い長い人生を支えてきてくださったのは施設の方々や教会の関係者の皆さまのおかげさまなのだということを痛感した。
そんなワタシに残されたもの、それは沢山の思い出とあの日の約束。それらはワタシのこころの中にこれからもずっと永く刻まれていくことだろう。ワタシはSちゃんに会えたことを本当に、神様に心から感謝をするんだ。
この日、自宅のハイビスカスが ”ありがとう”って言ってるみたいに一輪さいた。
>写真は三ッ沢墓地の様子。
帰路は徒歩とバス( 横浜駅まで210円 )バス便は結構ある。