おはよ!こちらあやかし@。
本日横浜 晴れ時々曇り。
このところパソさまの調子が悪いと思っていたら、どうやらコード?( 呼び名わからず )が壊れたらしい。只今 ジャパンのコードを借りて打ってます。
2マン円とかするんですって?困ったこまった。ってことで、この先、記事は時々になるかも?
今週は、気合い入れていく週間。
本日 お仕事
明日 占い 決戦の日
次の日 お仕事
その次 も お仕事
土曜日 (元)ピアノの先生のコンサート
日曜日 オフ だけど 多分 地区センター行き
11月 最終日 お仕事
@@@@ @@@@
只今 アダルト・チルドレン { 自信はないけど、生きて行く }(1995年 )の第二弾を読んでいる。今ごろ?って感じだけどね。ACの言葉の意味自体知らなかった。( AVなら 雰囲気くらいはわかるけど )
先日、たぬきちとちょっと言い合いになったんだ。占いっていうのは、人生の先読みをする。死期も大体占える。夫婦・家族の場合は組み合わせが問題、お互いがお互いに影響を及ぼしあう。相手の影響を受けて死ぬことだって有りうる。
占いはいわゆる、『 転ばぬ先の杖 』が可能。 運勢上の予防医学的なものである。
だけど、「 それって どうなんですかね? 」って話になったんだ。ワタシだって、ブログ内 「 人生、転んでなんぼ 」、なんて言っているわけですしね。
人生を前もって知って危ない橋をわたるのを避けるということは、転んでなんぼ じゃあないわけでね。
痛い 痛い、思いをして、やっと自分の実感としての人生の選択ができていくわけだろうしね。
だけど、それと同時に、病院内、あのどちらが親なのかわからないような、老婆と化した娘さんを見舞う、女社長のようなお母さんの姿を見るときにはやっぱり何とかしなくっちゃあいけないんじゃあないか、って思うことも事実なんだ。
=== 「 ACからの手紙 」 西山 明 ===
AC( アダルト・チルドレン )は生きていく過程で、 自らの生きづらさの理由を探し求めるときに、親の支配の影響を認めて、「 私はこの世にいてもいい 」と自分を免責する言葉である。
ACを考える時、昆虫のさなぎを例えに考える。
例えば昆虫。さなぎになると、それまであった蚕糸管や筋肉、脂肪体が溶けてなくなり、分解されて体液になるらしい。(以下らしい 省略)これを 「 細胞の自殺 」と呼ぶ。
アミノ酸レベルまで分解されたその体液は、新たな器官の増殖に再利用される。
その体液の中にわずかに残された固まりが、成虫になるための複眼・羽・生殖器のもとである。
さなぎの中の固まりは、その体液を栄養にしていずれ蝶になって羽ばたいていく準備をするのだ。
人も同じように、一旦しまい込んだ闇の中の断片的な記憶を再構築して、新たな自分を作りだす。 今 ここにいる私を肯定して 生き続けること。
成長するために、遠い、暗い過去の記憶さえも その断片を拾いあつめ自分が生きていくために呼び起さなくてはならない。 恐らく『 臭いものに蓋 』をしたまま生きているだけでは、人生を切り開いてはいけないのだろう。
丁度あのジグソーパズルのように、ああでもない こうでもないって、苦しみながら、だけど、楽しみながら作りあげていく。
そして、出来上がるものって、それはそれは美しい人さまに賞賛される”蝶”であるかもしれないけれど、人さまに忌み嫌われる”蛾”であることだって有りうるんだと思う。
でも両方いるからいいんだと思う。醜いものがあるから美しいものが引き立つ。”しこめ”がいるから美人がひきたつ。
だけど、美人が必ずしも幸せとは限らない。しこめがやさしい母親になれたりする、温かい家庭を作ることが可能であるかも知れない。
しこめが しこめ故にひねくれて、生涯自分の人生を呪いながら生きていくことだって有りうることだ。
みな自分が、自分の判断によって選択していく自分の人生なのだ。しかしながらそこには、自己責任が伴う。
例えば、いい年をした30男が自分の失敗を、親に泣きついて責任をとってもらっているようじゃあ困ると思うし、嫁に出た身が何かあるたんびに実家を頼るのもいかがなものか?と思う。だけど、今はそれが普通になりつつあるようにも見受けられる。それに自分だって、もしも親が近くに住んでいたら、きっと実家に入り浸っていたに違いない。
++++ ++++
犯罪を犯した若者の星を考えることがある。そんな時、その若者ががとてもかわいそうになる。親は何やってたんだ!って自分のことを棚にあげて思ったりする。
第一章に登場してくる女性は オームの元信者。そこに至るまでの過程が可愛そうで仕方がない。あの時、ちゃんと自分の意思を伝えたのに・・・。子どもは親の隷属物ではない。
親の価値観を押し付けることがどれほどの子どもを潰していくかということをもっと考えなくてはいけない。
>もどり、ワタシ & ワタシ達
自分が親から受けた教育を、知らず知らずのうちに、自分達の子ども達にも伝えていたワタシがそこにいた。受験勉強などより、無意識の教育の方が実は大切なのだし、怖いのだと思う。
負の連鎖に陥らないように、この先、とうちゃんともしっかり話合わなければならないだろう。子どもは本来両親で育てるものだ。
今も、父の遺言を思いだすんだ。
「 俺が死んだら 俺の金をみんな寄付しろ。」
つまりそれは お金にこだわるんじゃあない。ってこと。ワタシは☆の中に、お金を持たない。座下にちょこっとだけある。しかも回転財(奉仕の意あり!)。とりあえず飯は食っていけるらしい。
只今、飯を食って、元気に生きていければ 御の字だ。
姫「 との~~~ッ(=ダンナ様のこと)との~~~ッ。飯代 よろしくで~~す。」
(こういう時だけ、殿になる旦那さま なんだけどさ。)
もっとお金がほしければ、働くことだ。人さまに頭を下げてお金を頂戴することだ。
やっぱりワタシはお金より、健康と自分を受け入れてもらえる 『 場 』がほしいのだと思う。
>写真はららこさん。お題 「 休む とき 」
本日横浜 晴れ時々曇り。
このところパソさまの調子が悪いと思っていたら、どうやらコード?( 呼び名わからず )が壊れたらしい。只今 ジャパンのコードを借りて打ってます。
2マン円とかするんですって?困ったこまった。ってことで、この先、記事は時々になるかも?
今週は、気合い入れていく週間。
本日 お仕事
明日 占い 決戦の日
次の日 お仕事
その次 も お仕事
土曜日 (元)ピアノの先生のコンサート
日曜日 オフ だけど 多分 地区センター行き
11月 最終日 お仕事
@@@@ @@@@
只今 アダルト・チルドレン { 自信はないけど、生きて行く }(1995年 )の第二弾を読んでいる。今ごろ?って感じだけどね。ACの言葉の意味自体知らなかった。( AVなら 雰囲気くらいはわかるけど )
先日、たぬきちとちょっと言い合いになったんだ。占いっていうのは、人生の先読みをする。死期も大体占える。夫婦・家族の場合は組み合わせが問題、お互いがお互いに影響を及ぼしあう。相手の影響を受けて死ぬことだって有りうる。
占いはいわゆる、『 転ばぬ先の杖 』が可能。 運勢上の予防医学的なものである。
だけど、「 それって どうなんですかね? 」って話になったんだ。ワタシだって、ブログ内 「 人生、転んでなんぼ 」、なんて言っているわけですしね。
人生を前もって知って危ない橋をわたるのを避けるということは、転んでなんぼ じゃあないわけでね。
痛い 痛い、思いをして、やっと自分の実感としての人生の選択ができていくわけだろうしね。
だけど、それと同時に、病院内、あのどちらが親なのかわからないような、老婆と化した娘さんを見舞う、女社長のようなお母さんの姿を見るときにはやっぱり何とかしなくっちゃあいけないんじゃあないか、って思うことも事実なんだ。
=== 「 ACからの手紙 」 西山 明 ===
AC( アダルト・チルドレン )は生きていく過程で、 自らの生きづらさの理由を探し求めるときに、親の支配の影響を認めて、「 私はこの世にいてもいい 」と自分を免責する言葉である。
ACを考える時、昆虫のさなぎを例えに考える。
例えば昆虫。さなぎになると、それまであった蚕糸管や筋肉、脂肪体が溶けてなくなり、分解されて体液になるらしい。(以下らしい 省略)これを 「 細胞の自殺 」と呼ぶ。
アミノ酸レベルまで分解されたその体液は、新たな器官の増殖に再利用される。
その体液の中にわずかに残された固まりが、成虫になるための複眼・羽・生殖器のもとである。
さなぎの中の固まりは、その体液を栄養にしていずれ蝶になって羽ばたいていく準備をするのだ。
人も同じように、一旦しまい込んだ闇の中の断片的な記憶を再構築して、新たな自分を作りだす。 今 ここにいる私を肯定して 生き続けること。
成長するために、遠い、暗い過去の記憶さえも その断片を拾いあつめ自分が生きていくために呼び起さなくてはならない。 恐らく『 臭いものに蓋 』をしたまま生きているだけでは、人生を切り開いてはいけないのだろう。
丁度あのジグソーパズルのように、ああでもない こうでもないって、苦しみながら、だけど、楽しみながら作りあげていく。
そして、出来上がるものって、それはそれは美しい人さまに賞賛される”蝶”であるかもしれないけれど、人さまに忌み嫌われる”蛾”であることだって有りうるんだと思う。
でも両方いるからいいんだと思う。醜いものがあるから美しいものが引き立つ。”しこめ”がいるから美人がひきたつ。
だけど、美人が必ずしも幸せとは限らない。しこめがやさしい母親になれたりする、温かい家庭を作ることが可能であるかも知れない。
しこめが しこめ故にひねくれて、生涯自分の人生を呪いながら生きていくことだって有りうることだ。
みな自分が、自分の判断によって選択していく自分の人生なのだ。しかしながらそこには、自己責任が伴う。
例えば、いい年をした30男が自分の失敗を、親に泣きついて責任をとってもらっているようじゃあ困ると思うし、嫁に出た身が何かあるたんびに実家を頼るのもいかがなものか?と思う。だけど、今はそれが普通になりつつあるようにも見受けられる。それに自分だって、もしも親が近くに住んでいたら、きっと実家に入り浸っていたに違いない。
++++ ++++
犯罪を犯した若者の星を考えることがある。そんな時、その若者ががとてもかわいそうになる。親は何やってたんだ!って自分のことを棚にあげて思ったりする。
第一章に登場してくる女性は オームの元信者。そこに至るまでの過程が可愛そうで仕方がない。あの時、ちゃんと自分の意思を伝えたのに・・・。子どもは親の隷属物ではない。
親の価値観を押し付けることがどれほどの子どもを潰していくかということをもっと考えなくてはいけない。
>もどり、ワタシ & ワタシ達
自分が親から受けた教育を、知らず知らずのうちに、自分達の子ども達にも伝えていたワタシがそこにいた。受験勉強などより、無意識の教育の方が実は大切なのだし、怖いのだと思う。
負の連鎖に陥らないように、この先、とうちゃんともしっかり話合わなければならないだろう。子どもは本来両親で育てるものだ。
今も、父の遺言を思いだすんだ。
「 俺が死んだら 俺の金をみんな寄付しろ。」
つまりそれは お金にこだわるんじゃあない。ってこと。ワタシは☆の中に、お金を持たない。座下にちょこっとだけある。しかも回転財(奉仕の意あり!)。とりあえず飯は食っていけるらしい。
只今、飯を食って、元気に生きていければ 御の字だ。
姫「 との~~~ッ(=ダンナ様のこと)との~~~ッ。飯代 よろしくで~~す。」
(こういう時だけ、殿になる旦那さま なんだけどさ。)
もっとお金がほしければ、働くことだ。人さまに頭を下げてお金を頂戴することだ。
やっぱりワタシはお金より、健康と自分を受け入れてもらえる 『 場 』がほしいのだと思う。
>写真はららこさん。お題 「 休む とき 」