+ ものを申すことには慎重でなければならない。+
実は 思うところがあって 「 うらなり占い 」 のカテゴリーの記事を全部草稿中に切り替えた。
一番大きな理由は、私がまだ免許状を取得していないことだ。免許状を取得してからはどのような発言をしようとも、それは自己責任となる。
しかしながら、それ以前に下手な発言をしてそれが発覚するとどうやら破門になるらしいのだ。( 知らなかった )
折角わからないなりにも積み上げてきた勉強だし、破門がこわくないというと嘘になるけれど、それ以上に いのち を 扱う学問であるから、もっとしっかりと勉強しなくてはいけないし、一言一言、言葉は慎重に選ばなくてはならないと思うようになった。
いのちを預かるということは多分そういうことなのだろう。人の言葉は人を生かしも殺しもするものだ。
私が精神的な病気を抱えていたことは、古くからのブログのお友達は知っている。実はこの占いには、私が中年期に無理をすると精神病にかかると書いてあった。しかもおよその病名まで書かれていた。本当にびっくりだった。
そして、その解決方法も自分にとっては腑に落ちるものだった。
病気や悩みを越えていく手立てにならなければ、占いを学ぶ意義などない。( と私は思う。)
だから、もしこのブログにアクセスしている人で、同じような悩みを抱えている人がいて、その人たちの生きるヒントになるならば、それはそれで役にたつのではないだろうか?と考えていた。
10代後半~20代は人間形成において本当に大切な時だ。ここで精神的な病気にかかってしまうと後々相当厳しいことになるのではないかと思う。
怪我などの肉体的な、目にはっきりと見える病気は傷の癒えるのを待てばいいだろう。しかしながらこころの病(やまい)というのは目にみえないからとてもやっかいだ。
自分の子供も含め、子供たちに同じような思いをさせたくない。その思いには間違いはない。間違いはないけれど、そのことに関して発言をするにはまだまだ未熟すぎる自分を感じる。
恩師の上原輝男先生がすごい人であったことを今更のように思う。別に精神科のお医者様でもなければ、それこそ占い師でもなかったけれど、2●年前、ある児言態の先生のこころの病(やまい)を一目で見抜いた。ワタシもそうだったけれど、他のどの先生もそのことがわからなかった。
そしてその先生に密かに、他の会員にわからないようにやさしいメッセージを託す。そんなこころ配りをなさる先生だった。
おそらく 生と死の狭間を生きたものにしか与えられない力( 強いて言葉に表すなら「愛」)をもっていらしたのだろうと思う。
それにしても 生きる ということは 大そう疲れることには違いない。煩悩だらけのワタシなのでね。
実は 思うところがあって 「 うらなり占い 」 のカテゴリーの記事を全部草稿中に切り替えた。
一番大きな理由は、私がまだ免許状を取得していないことだ。免許状を取得してからはどのような発言をしようとも、それは自己責任となる。
しかしながら、それ以前に下手な発言をしてそれが発覚するとどうやら破門になるらしいのだ。( 知らなかった )
折角わからないなりにも積み上げてきた勉強だし、破門がこわくないというと嘘になるけれど、それ以上に いのち を 扱う学問であるから、もっとしっかりと勉強しなくてはいけないし、一言一言、言葉は慎重に選ばなくてはならないと思うようになった。
いのちを預かるということは多分そういうことなのだろう。人の言葉は人を生かしも殺しもするものだ。
私が精神的な病気を抱えていたことは、古くからのブログのお友達は知っている。実はこの占いには、私が中年期に無理をすると精神病にかかると書いてあった。しかもおよその病名まで書かれていた。本当にびっくりだった。
そして、その解決方法も自分にとっては腑に落ちるものだった。
病気や悩みを越えていく手立てにならなければ、占いを学ぶ意義などない。( と私は思う。)
だから、もしこのブログにアクセスしている人で、同じような悩みを抱えている人がいて、その人たちの生きるヒントになるならば、それはそれで役にたつのではないだろうか?と考えていた。
10代後半~20代は人間形成において本当に大切な時だ。ここで精神的な病気にかかってしまうと後々相当厳しいことになるのではないかと思う。
怪我などの肉体的な、目にはっきりと見える病気は傷の癒えるのを待てばいいだろう。しかしながらこころの病(やまい)というのは目にみえないからとてもやっかいだ。
自分の子供も含め、子供たちに同じような思いをさせたくない。その思いには間違いはない。間違いはないけれど、そのことに関して発言をするにはまだまだ未熟すぎる自分を感じる。
恩師の上原輝男先生がすごい人であったことを今更のように思う。別に精神科のお医者様でもなければ、それこそ占い師でもなかったけれど、2●年前、ある児言態の先生のこころの病(やまい)を一目で見抜いた。ワタシもそうだったけれど、他のどの先生もそのことがわからなかった。
そしてその先生に密かに、他の会員にわからないようにやさしいメッセージを託す。そんなこころ配りをなさる先生だった。
おそらく 生と死の狭間を生きたものにしか与えられない力( 強いて言葉に表すなら「愛」)をもっていらしたのだろうと思う。
それにしても 生きる ということは 大そう疲れることには違いない。煩悩だらけのワタシなのでね。
新採だろうがベテランだろうが同じ立場でクラス担任をし言葉をかけていく責任の重さ、そしてその怖さをだれだけ自覚したかと言われると怪しいものですが、少なくとも「塾の先生とは違うんだ!!!!」とテスト対策をするのが教育者の仕事ではないというのを初めての講義で叩き込まれたのは大きかったように思います。
テスト対策等々のテクニックを教えるだけなら「教育者」ではなく「教師」で十分ということ・・・「諸君は教育者になるんですよ!!!」・・・重い。
今まで自分の実践してきたこと(今なお実践していること)が、まさに教え子たちの日々の生命燃焼にどれだけ貢献してきたか(逆効果になったか)・・・振り返ってみるとコワイものです。
世捨て人っぽい生活スタイルであることだけは実践中ですが・・・。
転載の件 どうもありがとうございます。
ちょっと考えてからにしたいと思っています。
自分に返すっていうことをすると・・・発言ってなかなかできなくなるものですね。