続編なんて仰々しいタイトルまでつけて、私も、ほんと、物好きだわぁ~~と半ば呆れ、半ば、どうしても明るく終わらないと、と自分を奮い立たせます。
二人の兄たちは、それぞれ、首都圏にマイホームを持ち、自分たちの子どもの教育に余念がない時期を経て、あるいは、兄は、母の気持ちもわかるようになってきたようでした。母もケンカしてまでわかる相手として、義姉でなく、兄を、なんといっても実子ですしね。
ケンカして、よく話し合って、ケンカ以前より余計仲良くなるなんて、あり得ない、と、私はここでも意地悪性悪説ですね。
そんな母の一代を間近に見てきた私は、いよいよムスコが自分の家庭を持つという時、一つ心に難く決めました。「お嫁ちゃんとは、一度たりともケンカしない。どんなことがあっても互いに悪意を一瞬でも持つことを避けたい」と誓ったのです。
母はお正月にしても、日ごろ懐石料理をこなしている腕前を発揮して10数人分のお節を準備して、息子娘が家族連れでやってくるのを待ちました。それは母には相当の疲労になったはずですが、ひとりで段取りして涼しい顔できちんと正装して新春を迎える。義姉は、何をどう手伝っていいやら、うろうろ、ばたばた、注意されないようにしても。。。
お盆、お正月は、一斉に一同が揃うので、ほんとうの夏休みや冬休みは義姉にはなかったのではないか、とも思います。
で、私は、帰省してくるムスコ夫婦と一緒にお盆とお正月は二泊、温泉やホテルで過ごすことでだれもおさんどんの苦労をせずに済む、お手軽な方法を取り入れました。
そのあと、お嫁ちゃんは実家に泊まりに行きます。このごろでは、実家よりは、こっちの方が楽だから、と更にこちらで泊まっていくこともあります。そんな言葉が嬉しくて、何でもしてあげたい気持ちが高まります。つまり甘い母なのです。ケンカするところか、何一つ教えることもなく、友人夫婦と一緒に過ごす感覚でしょうか。
厳格だった母を反面教師に、私は持ち前の怠惰そのものを発揮して、だれも働かないで済む休日を、とその準備に余念がありません。
10年経ったこうした新家族とのふれあいが、つい昨日こんな形で「可」という評価を得たように思います。ムスコ夫婦が一緒に選んだというお豆腐の小さい詰め合わせが送られてきました。
コロナも熱中症も心配、とにかく、お二人の元気が私たちの幸せの原点ですから、とお嫁ちゃんが電話口で言ってくれました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/9f/c1a4dd4fc2264a5168214e5de4062475.jpg)
毎年温泉ご招待夏冬2回、誕生日とお年玉を十分気前よくあげる(自分の好きなものを買えるように) 帰省時には、ガソリン料と道中の食事代を家人がはずみます。
まるでお布施をお寺さまにさしあげるように、ですね。←たとえが悪いですが
その結果、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/03/93d0690c62033575694fa5379e284da9.jpg)
食べ方は
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/c6/75549b475fa90d669b6bcd65f31048bf.jpg)
まるで円満家庭の自慢のようになりました。
多年に渡って、真面目に家庭経営をしてきた母とは大違いの手抜きのだらしない私のたった10年の姑歴をたどってみて、
これでよかった、ケンカはしない、させない このままいこう
とあらためてにんまり、笑いじわを深くするぽこなのでした、
お気にさわる記述があるかと思いますが、その際は読まない選択をお願いします。
二人の兄たちは、それぞれ、首都圏にマイホームを持ち、自分たちの子どもの教育に余念がない時期を経て、あるいは、兄は、母の気持ちもわかるようになってきたようでした。母もケンカしてまでわかる相手として、義姉でなく、兄を、なんといっても実子ですしね。
ケンカして、よく話し合って、ケンカ以前より余計仲良くなるなんて、あり得ない、と、私はここでも意地悪性悪説ですね。
そんな母の一代を間近に見てきた私は、いよいよムスコが自分の家庭を持つという時、一つ心に難く決めました。「お嫁ちゃんとは、一度たりともケンカしない。どんなことがあっても互いに悪意を一瞬でも持つことを避けたい」と誓ったのです。
母はお正月にしても、日ごろ懐石料理をこなしている腕前を発揮して10数人分のお節を準備して、息子娘が家族連れでやってくるのを待ちました。それは母には相当の疲労になったはずですが、ひとりで段取りして涼しい顔できちんと正装して新春を迎える。義姉は、何をどう手伝っていいやら、うろうろ、ばたばた、注意されないようにしても。。。
お盆、お正月は、一斉に一同が揃うので、ほんとうの夏休みや冬休みは義姉にはなかったのではないか、とも思います。
で、私は、帰省してくるムスコ夫婦と一緒にお盆とお正月は二泊、温泉やホテルで過ごすことでだれもおさんどんの苦労をせずに済む、お手軽な方法を取り入れました。
そのあと、お嫁ちゃんは実家に泊まりに行きます。このごろでは、実家よりは、こっちの方が楽だから、と更にこちらで泊まっていくこともあります。そんな言葉が嬉しくて、何でもしてあげたい気持ちが高まります。つまり甘い母なのです。ケンカするところか、何一つ教えることもなく、友人夫婦と一緒に過ごす感覚でしょうか。
厳格だった母を反面教師に、私は持ち前の怠惰そのものを発揮して、だれも働かないで済む休日を、とその準備に余念がありません。
10年経ったこうした新家族とのふれあいが、つい昨日こんな形で「可」という評価を得たように思います。ムスコ夫婦が一緒に選んだというお豆腐の小さい詰め合わせが送られてきました。
コロナも熱中症も心配、とにかく、お二人の元気が私たちの幸せの原点ですから、とお嫁ちゃんが電話口で言ってくれました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/9f/c1a4dd4fc2264a5168214e5de4062475.jpg)
毎年温泉ご招待夏冬2回、誕生日とお年玉を十分気前よくあげる(自分の好きなものを買えるように) 帰省時には、ガソリン料と道中の食事代を家人がはずみます。
まるでお布施をお寺さまにさしあげるように、ですね。←たとえが悪いですが
その結果、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/03/93d0690c62033575694fa5379e284da9.jpg)
食べ方は
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/c6/75549b475fa90d669b6bcd65f31048bf.jpg)
まるで円満家庭の自慢のようになりました。
多年に渡って、真面目に家庭経営をしてきた母とは大違いの手抜きのだらしない私のたった10年の姑歴をたどってみて、
これでよかった、ケンカはしない、させない このままいこう
とあらためてにんまり、笑いじわを深くするぽこなのでした、
お気にさわる記述があるかと思いますが、その際は読まない選択をお願いします。
➡一方 男兄弟や父子は好戦的。なぜなら男はプライドだけで生きてるような下等生物。プライドを傷つける可能性がある近親者には好意的に接することが苦手になります➡・・・で、欲しいものはただ一つ➡権威・権力。➡自己防衛に極めて有効だからです。➡彼らの操縦は極めて簡単。➡褒めちぎることです。褒めてあげれば 彼らは心の中で 褒め言葉を 牛のように何十回も反すうしてお喜びになります。
・・・ってなこと 話せば長くなるからやめとこ・・・。
あなたは 黙ってスマイルしてるだけで あなたの周りを幸せにできるブッダさま・・・。
そうか、この、中途半端な笑みもまんざらではないのか、お、とそれこそ許された思い出、つまるところ、いい気にさせられています、ちゃっかりと。
あることあること、思いのたけをここに書いたのを、だいぶ悔やんでいました。身内の恥やら、自分の自慢やら満載にして、ぬけぬけと怖がりもせずに。
でもこれにて、そんな繰り言は一切封じます!
私のスマイル重視を自分の信念として、たとえそれがみせかけであろうが、争わずにまずは、微笑んで「それで?」とやわらかに応酬(こわっ!)してまいります。
ほめ過ぎてあとで悔やんでもはじまりませんよ!
本当にいつも過ぎたるコメントありがとうございます。、
よく友人と笑いますが、母の時代が一番可哀想だったね、と。
若いときは姑につかえ、老いてからは嫁に気をつかわなくてはいけない、と。
私たちのときは、さほど姑に気をつかうなんてことはないけど、お嫁さんにはサービスをたっぷりと。
私も息子一家には財布の口をあけっぱなしです。
私は初めて嫁が来たときに、「気を使わないでね。貴女が気を使うと私も気を使わなくてはいけなくなるから」と言っておきました。
だから、あまり気を使っている様子がありませんが、去年の暮に家に来たときのことです。
お風呂に新しいシャンプーを置いておきました。そのときに封を切っておくのを忘れて、封のついたまま置いてあったら、彼女は使わなかったのです。
だから翌日、「あなたねえ、結婚して13年も経つのに、そんな気を使ってどうするの」と少し笑いながらですが、叱りました。
でも、所詮は他人、実母ではないので1度亀裂が入ったら修復は大変、と踏み込まないようにはしています。
もっとも実母とも喧嘩をした記憶は殆どありませんが。若い頃は友人同士みたいでしたし、母が老いてからは私の方が母の様でしたから。
食欲無くても、するする食べる事ができます!
嫁と姑は古来よりのライバル関係ですよね。
身近にも色々問題が聞きますが、事我が家に関しては
表立った衝突はありませんでした。
母は私が結婚して3年で亡くなってしまいましたからなぁ・・
妹は言っちゃなんだが、チト面白い??みたいな所があり。。嫁いだ先は北海道の土着民。
ヨメに来たからには、我が家の一員、色々従ってもらうもの。と相手は考えてはいたようだけど、どっこいこっちはそうではない。相手が人ならこっちも人。
理不尽だと思えば喧嘩をし。大抵はこっちの勝利!
なにしろ、世が戦国なら、私なぞ追放されて女城主になるような人物。。。迷うな怯むな、一歩も退くな!。。で正論を押し通すので、相手はたまったもんではなく、
結局、その結婚は長続きです・・・
また、その時の母が。。そんな家にムリに居る事はない!。。。幸い部屋も空いてる。子供と一緒に帰って来い!。。。との決断が早かった事。
なんだかんだで、我が母もまた、決断と実行の人。だったんですね。
そして今に至るまで、両親亡き後の実家は妹が守っているという・・・
一つは 誰に対しても笑顔で接すること➡これは めんどくさい人間関係の潤滑油ですよね・・・。未だ まったく苦手な分野です。笑顔に振り上げるコブシはない!ってやつですね・・。
二つ目は 職場でも自分の周囲でも何でもいいのですが 自分のことを分かってくれる人が3人いればもう何も望まない・・・。
三つめは 仕事はどんなちっぽけな分野でも構わないから 一つの分野で ずば抜けた存在でいなくてはいけない。。➡これも とても難しいことで自分だけそう思ってるだけ かもしれないけど それでもいいと思っています➡新入社員に3年で追いつかれたら仕事してる意味がないですよね・・・。
論点がずれましたけど 昔、思ってたことをおもいだしたので・・・。
母は戦中に女学校の教育を受け、「女大学」の貝原益軒先生の薫陶よろしく、「夫女子は,成長して他人の家へ行,舅姑に仕るものなれば,男子よりも,親の教忽にすべからず」と、良妻賢母主義の封建的女子道徳を学校で、家庭で教わってきています。
そして、私たちは、戦後の男女共学、民主主義教育を受けて育ってはいます。
ところが、常日頃、私が思いますのは、私は学校では男女平等教育であっても、母の私に施した家庭教育は、ちょっと昔の名残があったのでは、とも。
私の実家では、男が先にお風呂に入り、母と私が最後でした。洗濯物を干すのも男物と女物とは場所が違っていました。女の子は不浄だと、幼いころから躾けられ、一方、男は獣だから気を許すな、という意味合いのことをずっと言われ続けてきました。
結果、一番顕著だと思うのは、私のお産のときです。今のように父親もお産に立ち会うなど、とんでもないことで、母は分娩室の前の段階まで付き添いましたが、そこで、私は痛いとか辛いとか一言も言いませんでした。そんなはしたないことを言ったらいい子が生まれない、女は慎み深いものだと。分娩のときも一言の声も発しませんでした。そのせいかどうかわかりませんが、赤ちゃんも黙って誕生、へその緒を3重に巻いてのチアノーゼでした。すぐに保育箱に入れられました。その前に出産後すぐに、私は、正座して、ドクターその他居合わせた方に神戸を垂れてお礼のあいさつをいたしました。
そうでもしないと、あとで母に叱られる、そう思ったからでした。
そんな大時代的な教育をどこかで受けてきた私には、使用済み紙おむつを床の間に置く兄嫁たちは、ちょっと目のやりようがなかったでしたが、さすがに母も私も口に出して注意じみたことは言えず・・・
翻って、昭和の終わり近く生まれたムスコやお嫁ちゃんには、私は、昔の話はしません。
自分が馬鹿になりきることが、一番楽な事、と最初は意識的に、でしたが、今はまさに、バカが身について、しっかり者のお嫁ちゃんに助けてもらっています。とはいえ、年輪というのでしょうか、かれらより、齢を重ねている分、どこかで經驗という貴重な宝(負の要素があっても)を持っているという自負まで忘れないようにはしているつもりです。
さすが、あの発明王(と心の中で呼んでいる)お父上さまのパートナーであられる。
いざとなると決断するのは、案外女性なのかもしれませんね。優しくてお裁縫上手なおかあさまから、そのいざ、の部分を受け継がれたのが妹さん。
胸のすくような素敵なお話をありがとうございました。
私が書いた鬱陶しい話は帳消しにできそうです。
ありがとうございます。
残念ながら、とっても難しすぎます。
三番目などは、私はテンからだめで、それは置いといて、
二番目は、できたらそうありたいとつくづく考えました。
どこかにも書いたのですが、
「話せば分かる」と思える相手には、ケンカする甲斐があるというもの。
できるだけ、「話せば分かる」人との交流には心を尽くしたい。もう少し利己的に言うと、わかってもらえる人とだけ、本気で付き合う、ってことですかね。。。ちょっと私の本音が出ちゃいました。
そして一番目。
これに限ります。
笑うとまず、自分がその気になってしあわせですから。。。
いつも御教えをありがとう。感謝です!
これは私が25年も前にバイトをしていた大学研究室の教授が退任のときに、「本棚の中の好きな本を持って行っていいよ」と言われて貰ってきたものです。
先生の妹さんの名前が書いてありました。
先生の母上は佐賀藩の家老の娘、父上は陸軍軍人で秩父宮や、韓国から日本の陸軍にはいった李親王の近衛兵で、最後にはかなり上の地位にあったようです。そんな母上だから、先生の奥さんは毎日泣いていたそうですが(笑)。
ぽこさんのお母様は利発で真面目な方だったのですね。岡本和子さんと境遇は似ておられるような。
結婚した夫がお役人で東京へ。被災して藤沢に家を建てた。
違うところは和子さんは奔放な人だったことです。
やりたいと思ったことはすべて実行してしまう。それだけの実力と能力があったのですね。
ぽこさんのお母様はお嫁さんであっても娘同然に知らないところは教えてあげるのが姑の勤めと思われたのでしょう。
和子さんは、ただ子供を育てることと家事をするだけの嫁ではつまらないと思ったのかもしれませんね。もっと外にも目を向けて自分の趣味を持ちなさい、と。
どちらにしろ、相手のことを思って教えておられたのでしょうが。
私?私はどちらも逃げ出したかも。
私は小さいときから母に言われていましたから。
「あんたみたいなお行儀の悪い子は、おばあちゃんが生きていたら、大変だったよ」って。
和子さんの場合は私の能力がついてゆけません。
お母様のお教えをお産のときまで守ろうとされたぽこさん、脱帽です。
私の夫ちゃんが、先日こんなことを口にしました。
「おかあさんが亡くなられてから5年間は、君はおかしかったね。とてもまともじゃなかったよ。」
夫は時系列を忘れているのかと思いました。
母の後、5年空閨を囲った父が逝くまで、最も近くにいいた私は、父が不自由しないように、衣食住ある程度の世話と心配を欠かさなかったつもりです。
5年も私がおかしかった、変だったというのも整合性がないなあ・・・
でも夫ちゃんの言葉でハッと気づいたことがあります。
生まれてほぼ半世紀、母の庇護のもと、生きていた私が突然、母なき子になったのは、それはそれは、奈落の底に落とされた、の感覚(以上?)でした。
少なくとも1年間ほどは、何を食べても味がしない、何を買っても見ても嬉しくない、母ロスそのものでした。
が、一方では、母からの解放もありました。
こんな親不孝なこと、恥ずかしいのですが、母が神出鬼没で我が家に来ては、掃除がしていない、玄関に打ち水されていない、この前あげたお菓子が食べもせずもらったままのところにある、など細かくチェックのあとの厳重注意がありました。
朝の家、を守るべし。7時に人が訪ねてきても、あがっていただき、お茶を出すだけの心構えを持ちなさい。
お寺ではいつ何時、人の逝去を知らせるのにだれが訪ねてくるかわからない、お寺のお嫁さんを見れば、ぽこちゃんは、どんなに楽しているか。。。
等々、いつも決まった注意は、母が病に倒れるまでありました。
入院して77日で逝きましたが、その時は、母はわたしをいたわり、ほめまくって、一言の小言も申しませんでした。お見舞客のもてなしもぽこちゃんだから、私のムスメだから、かんぺき!と。
母に会いたい病はだいぶ続きましたが、徐々に和らぎ、やがて、母がもうこないんだ、朝は7時までに整えなくても見に来る人がいないんだ、とだんだん、気楽さをおぼえるようにさえなりました。
夫ちゃんが覚えている私のそんな異常さ、って正しくはもっと短期間だったのでは、と思います。
母は生きていたら93歳くらいでしょうか、元気だったら、私のお嫁ちゃんへの教育がなっていない!と気にしたでしょうか。案外、孫にそうだったように、めちゃくちゃ、孫嫁にも甘いかもしれません。
おかあさん、さびしかったけれど、あなたなきあと、私は、やっと存分、劣等生の気楽さを味わわせてもらっていますよ。
そうなんです。母の人生の集大成は、娘を優等生にし、それをずっと見守ることだったんですね。
女大学の母なりの目標だった。。。
お恥ずかしいのですが、
母は生前言っていましたっけ。
「ぽこちゃんがあと5センチ背が高ければ、おかあさんのこの鼻も5センチは高くなって、私のムスメは天下一品でーーーす。と自慢しいになっていたわ。よかった、小さいぽこちゃんで。」
小柄な私に高校時代からハイヒールを履かせた母でした(笑)
ところで Madonnaさん、
奉職されていた大学の教授から頂かれた本物の女大学、そうとうの値打ちがありそうですね。
恐いけれど、読んでみたいような。。。
でも私、古典がまるでだめだからきっとそれもできない。
いいお話をありがとうございました。饒舌なる拙文を載せてしまったこと、お詫びいたします。見返さずに勢いでアップします。