最終章だけど、、、

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善人ばかりの家庭ではよくケンカする!?

2020-08-15 08:36:30 | 日記
おはようございます。
昨夜、ふとしたことで、以前よくやっていたゲーム機3DSをどこにしまったか気になりだして、探したら、ピアノの椅子の下にありました。
表面の色が変色するくらい、ずっと手にしなかったのは、自分にとって必ずしも喜べないことかもしれません。ステイホームの流れは、コロナ収束のあとも一つの生活様式として残るかもしれません。その時、ゲームにうつつを抜かすのもひとつの手でしょう。囲碁将棋など高尚なゲームの方がよりいいのは分かっていますが、相手が必要なものは、限界があります。

で、久しぶりに少しだけやってみたら、以前と違って続かないのです。妙に頭が痛くなります。目から来るのか, 3次元の画面に慣れないからなのか、すぐにギブアップしました。
ベッドに入ってからも、目の奥がちかちかして、頭も重く、寝つくことができません。日中のことをいろいろ思いだして、そうだ、今日(14日)の一番気になったのは、あのことだったわ、と思い思いしているうちに、そのことが私には難しすぎる命題だったので、やがて眠っていきました。

今朝早く目が覚めた時には、頭痛が治っていてほっとしています。
そして、昨夜眠れないで考えていたらいつの間にか寝入ったあのことをまた思い出しました。
それは、私の両親の墓参の際、お寺の墓地への入口門の門標のように、書かれてあった言葉でした。『善人ばかりの家庭ではよくケンカする 翻って悪人ばかりだとケンカしない』ネットで少し検索するとどうやら悪人正機説推奨のための諭しらしいです。善人は自分が正しいと思うから主張を曲げない、善人ばかりだとすぐにケンカになる。悪人がそろうとそうならない、とこんなところらしいです。
まあ昨今、いい話はあんまり聞けないのですが、悪人たちも自分の損得に目の色かえて、口角泡をとばして争っているようにも感じられますけどね。
私は、二つの理由で善人がいるところ、ケンカあり、説が気になりました。
第一に、私自身のことです。たぶん、争いごと嫌いの(苦手の)筆頭をいくのでは、と思い、周囲の人の方が、私の代わりに怒ってくれたおまけつきです→私は腹黒なのかもしれない
第二に、自分の育った家庭のことです。父は不言実行タイプで、多くを語らず、自分のすることで人にわかってもらおうというところがありました。母は明るく、気が小さく、一見、頼もしく見えましたが、悩むと底に落ちるタイプでした。子供三人と夫婦とのいわゆる核家族時代は、まあ明るく憂いの少ない家庭でした。いよいよ、長兄、次兄、そして私、とそれぞれが、家庭を持つようになり、その後の実家のありようは、私の今に至るまで影響を及ぼしたと私は思っています。結婚で、戸籍が独立するように、子供たちは家を離れます。両親は二人家族になりました。それまで子供一筋で生きてきた母は、子供たちに日ごろの接触はともかくとして、年に2、3度(お正月、黄金週間、お盆)と帰省を待ち焦がれたのも自然ではあります。
ただ、ひとつのことだけが、後年、私の疑問点になっていきます。
それは、お互い相手が理解できないときは、とことん、話し合う。自分の意見を分かってもらい、相手の意見も聞かせてもらって理解したい。ケンカはその時は、いやなおもいがするけれど、その後のためには、発展的ないい方法だ、という母の考えでした。雨降って地固まる式でしょうか。言わなきゃわかんないでしょ、と長兄妻にも次兄妻にも忌憚ない言葉をまず、母から発したのだと思います。いくら普段は遠く離れて暮らしていても、姑の話は迫力があるうえ、母はいろいろなことに長けた人でもあったので、義姉は二人とも相当緊張したと思います。母には娘の私の存在が自信につながっているという義姉側からは嬉しくない状況もありました。その結果はケンカして余計に仲良くなる、なんて嘘っぱちもいいところで、絶縁に近い期間が常識を超えて長く続きました。義姉は、母を理解することなく、被害意識と報復したいという気持ちしかなかった、と私には思えた局面を何度か見ました。
そんな意味では、晩年は母の方が、静かに逆らわないで、ことを荒立てないようになっていたと思います。
ずっと、母の悩みを聞かされ、皆がそろうとどことなく重い雰囲気になるのも目の当たりにして、私はむしろ、母が、母の考えが、反面教師となっていくのでした。

辛いことが続いて、いったんここまで送信します。 
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6 コメント

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なんとなく分かります (madonna)
2020-08-15 22:04:21
コロナで亡くなった岡本行夫さんのお母さん、和子さんのことを思い出しました。
和子さんは3人の息子さんがおられましたが、私が知っている限りにおいて、息子さんの3人のお嫁さんは1度も、和子さんの所に来たことがありませんでした。
息子さん3人はよくお母さんの面倒をみていましたが。お孫さんたちも母親の味方をしているのか、1度も来たことがないと言うことです。
ぽこさんのお母さんも和子さんも聡明な方で、ご自分の意見をはっきり仰るので、お嫁さんにしたら逃げたかったのか。勝ち目はないと思って。喧嘩をしたくなかったのでしょうね。
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悪人正機説推奨のための諭し (すらいむらいだー)
2020-08-16 10:13:55
言いたい事はわかりましが。どーも賛同はしかねます。

単にわがままで、我を通さないと気がすまない人達の家庭なら、喧嘩ばかりになりますよね。
自分が良かれ。と思うのではなく、単にワガママを通したいから喧嘩する方が世間では多いのではないか?

そして、相手の矛盾点や弱点を突いて理論整然と言い負かしてもそれで解決か?といってもそうではない。
やはり感情は残り、逆に。あいつに言い負かされた!
て事で恨みを買うかもしれません。

ま。人間は色々とメンドクサイ物なのです。
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Madonnaさん (ぽこ)
2020-08-17 00:11:45
親身になって、コメントをいただき、Madonnaさんの洞察には、絶句するばかりです。
Madonnaさんと私は、男・男・女のきょうだいの構成が同じで、共通する価値観のようなものを感じは致します。
ただ、私の実母がスーパーマザー(和子さんのような)というところは全く違っています。
母は情にもろく、それが失敗のもとともなった、と私は非情にも思います。スーパーマザー故に義姉二人とも寄り付けなかった、のではなく、母が義姉に期待しているのに、義姉は、それを叱責されたと受け取り、私によく苦情を電話で訴えてきました。その度に私は、「相手から無関心に扱われるより、期待される分、よほど、愛情のある対応だと思うけれど」と伝わらないことは承知で義姉には繰り返しました。
母とのことで、ではなかったものの、結婚20年くらいで長兄夫婦は離婚、次兄妻は、下の子が1歳くらいから、20年近く、一度も私の実家には来ませんでした。母が死の床に就いたとき、再会して、母は、来てくれて嬉しい、と気弱なセリフを言ってこの世のしこりを消して旅立ちました。
母には、実のムスメである私がいたため、そしてその私が、割合聞き上手な方で、争わないのが取り柄という処世術をもっていたために、母の人間関係の悩みを懐柔し、母=善い人のイメージを世間的には維持するのにどこかで支えとなっていたと思うなんてずいぶん高慢なムスメでしょ?
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すらいむらいだーさん (ぽこ)
2020-08-17 00:17:22
>>相手の矛盾点や弱点を突いて理論整然と言い負かしてもそれで解決か?といってもそうではない。
やはり感情は残り、逆に。あいつに言い負かされた!
て事で恨みを買うかもしれません。

>>ま。人間は色々とメンドクサイ物なのです。

仰せのとおりでございます。脱帽です。
ひょっとしてすらいむらいだーさんと不肖ぽこは、どこか、気弱い部分で似ているのかもしれません。
けんかするほど仲がいい、なんていうのは、まやかしで、実は、けんがしなくても話せばわかる、という「信頼感」を相手に求め、そんな相手だと、日ごろご無沙汰しようが、くっつこうが、どっちでもいい。

そんなとこでしょうか。繰り返しこれはコピーではなくて私の心の叫びです。
人間は色々とメンドクサイ物なのです。
実は一人がいい、とまで言っちゃうのは言い過ぎ?
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オッサンは極悪人 (なっとう)
2020-08-17 23:05:12
その悪人正機説?にわかに信じがたい解釈ですね・・・。偉いお坊さんが書かれた筆に いつわりはないですが 私、法然さんも親鸞さんも人間は基本、悪人だよねという前提条件でお話されてたと 間違って解釈してました。まぁどーでもいいのだけど。

・・・で、本論。オッサンは話好きだけど 基本ケンカはしません。全く意外でしょう??理由は簡単。オッサンは 会話を楽しむだけで 結論はホンマはどうでもいいのです。

【なんでもええやん!人間五十歩百歩】というのが 生き方のすべてです。➡真面目ではないので
真剣に話してくれた人は 去っていかれます。当たり前ですね。・・・それでもいいのです・・・。
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五十歩百歩 (ぽこ)
2020-08-17 23:28:50
大同小異、にたりよったり、ですか。
意外に虚無的ではありませんか?いつもこんな調子ですか?
私は争うのならば、議論はやめますが、
相手にわかってもらえると「信頼」した相手となら、議論、あるいは、口論も致し方ないと思いますが、そもそもそこまでの人に出会うのは至難のわざ。
もう少し有体に申しますと、わかってもらえる人にだけ、わかってもらえばよし。
分かってもらえる人というのは、自分が勝手にそう思うだけで、相手に確認をとるすべはない。

これだけの人がひしめいていても、そんなに私のことを注視して、分かろうとしてくれる人はまずいません。

よって、結果としては、私もすまいる絶やさず、会話を楽しむまたは楽しむふりをして、あっという間にこの世で過ごす多くの時間を追えてしまいました。
この先が今までに比べるとうんと少ないから、できるだけ、難しいことに悩まされず、美しい風景を思い描き、音楽のような会話がしたいです。たとえ、その発端が、自分が悪党であるから、としても。。
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