●今こそ真実を追究せよ!情報機関が探らない「北朝鮮の英雄」金策の正体!! インターネット行政調査新聞/噂の怪奇情報・噂の宝庫:2007年4月
・北朝鮮建国の英雄 金日成と金策
ソ連と同じ社会主義国家で英雄の名を冠する施設を持つ国がある。北朝鮮である。冠された名は「金日成総合大学」と「金策工科総合大学」。しかも金策のほうは市の名前にもなっている。
金日成についてはいまさら改めて語るまでもないと思うが、北朝鮮建国の歴史を振り返る意味でここに記しておく。
大東亜戦争の末期、昭和20年(1945年)8月8日、ソ連は「日ソ中立条約の破棄」を宣告、翌8月9日、越境して旧満洲、北朝鮮に攻め込んだ。朝鮮半島北部にソ連の傀儡国家である社会主義国家を建国することはスターリンの意思であり、その意思に従って建国に関わったのが朝鮮共産党北部朝鮮分局だった。この朝鮮共産党北部朝鮮分局から発展した組織は「北朝鮮臨時人民委員会」と名乗り、その委員長が金日成だった。
金日成は昭和20年(1945年)9月19日にソ連から船で北朝鮮の元山に入り、平壌に辿り着いた。民族の英雄・金日成をひと目見ようと集まった群集たちは、ソ連の軍人に護られて現れた33歳の若者を見て「偽者だ!」と叫んだという。
朝鮮半島に実在し、抗日戦線の英雄と崇められていた金日成将軍という人物がいた。この将軍が活躍したのは1920年代のことで、そのときすでに将軍は老人だった。集まった群衆たちは、この老将軍が現れるとは思っていなかっただろう。だが、この将軍とは別に、やはり抗日パルチザンの英雄・金日成という人物もいた。その男は抗日パルチザン組織「東北抗日聯軍第六師長」という肩書きを持ち、半島に展開する日本軍に夜襲をかけて有名になった人物。このため日本軍は第六師長・金日成に懸賞金を懸けたほどだった。だが、ソ連兵に護られて群集の前に姿を見せたのは、どう考えても第六師長・金日成とは別人に見えたのだ。
ソ連の後ろ盾を得て北朝鮮のトップに君臨した青年の本名は金成柱だとされている。その金成柱が金一星、金日成と名を変えたというのが一般的に流布されている説だ。当時、抗日運動家たちが名前を変えることは当然でもあった。金成柱が金日成と改名したことは事実なのかもしれないが、彼が抗日戦線の英雄だったことは、恐らく作り話だろう。
それはともかく、スターリンという巨大な盾に護られていたものの、金日成は抗日パルチザン――北朝鮮では少数派の「満洲派」の人間だった。多数派はスターリン直下の「ソ連派」と呼ばれる勢力で、その多くはソ連国籍の朝鮮人だった。そうしたなか1950年に朝鮮戦争が勃発。中国から林彪率いる第八野戦軍の大部隊が戦闘の前面に立つ。
朝鮮戦争後の労働力不足、経済危機、そして中国とソ連との対立という状況の下、金日成は窮地に追い込まれる。
その後の金日成の政治戦略手法には目を見張るものがあった。まず満洲派とソ連派が結託して、その他の共産主義勢力を壊滅に追いやる。その後にソ連派と対抗するために北朝鮮独自路線を樹立し、それを強力に推し進めて行ったのだ。このとき金日成最大のブレーンとなったのが金策(キムチェク)という人物だった。
金策は1902年(明治35年)に北朝鮮の咸鏡北道・城津市で生まれた。1936~37年(昭和11~12年)頃には満洲の抗日連合第3軍のゲリラ軍の中核にいたとも記録されている。朝鮮戦争、その後の北朝鮮国内での苛烈な抗争の間、金日成を支え続け、金日成独裁体制を築いた最大の功労者である。そうした争闘のなか、1951年(昭和26年、異説もある)に金策は怪死してしまったのだ。
ソ連派、満洲派、その他にも南朝鮮労働党派、延安派等々、派閥軍閥が跋扈する混乱の北朝鮮で、金策が採ったのは金日成=北朝鮮独自路線だった。
朝鮮民族は歴史の流れの果てに、国家や民族よりも宗族、同族を大切にするという独特の族譜を持つようになっていた。これを「本貫図」という。国家より一族郎党を大切に扱うという姿勢だ。これが当然ながら出生差別にも繋がっていた。金策はこの本貫図を強制的に取り上げ、廃棄し、新たな民族構成図を作成した。その原点となるのは朝鮮民族の誕生神話「檀君神話」である。
本貫図を廃して、「檀君神話」を引き継ぐ「金日成一族神話」を作り上げることにより、いわば戦前の日本における天皇体制を半島の民に授けたと言っても過言ではない。金日成北朝鮮独自の理論とされる「主体(チュチェ)思想」とは、「思想における主体、政治における主体、経済における自立、国防における自衛」と表現される。この理論を最終的に構築した黄長元朝鮮労働党書記は、その基礎理論に「天皇機関説」や旧ドイツの「国家有機体説」を採り入れたことを明らかにしているが、金策が提言した北朝鮮建国神話も含め、戦前の日本の影響があったことは誰の目にも明らかだ。
金日成独裁体制を構築した最大の功労者という意味を籠めて、金策の名は「金策工科総合大学」に記念され、そして彼の出生地である城津市は1953年に金策市という名に改名されている。
建国の英雄・金日成以上に巨大な扱いをされている金策について、世界の、そして日本の情報機関は何も調べていない。しかもこの名は、いまなお重大な局面で姿を表しているのだ。
何を語る?「金策」の名前
金策は1951年(昭和26年)に死亡している。その死は、朝鮮戦争による爆死とも事故による怪死とも変死とも伝えられているが、真実は不明だ。その名前は「金策工業総合大学」「金策市」「金策製鉄所」などに残り、顕彰されている。だがそれだけではない。きわめて重大な局面にフッとその名が出現するのだ。
平成14年(2002年)夏――。小泉純一郎首相(当時)の訪朝が決まり日本中が仰天した直後の8月30日から、能登半島沖の日本海に不審船が出現した。海上保安庁の巡視船が直ちに現場に急行したところ、4隻の不審船はUターン。船尾を見せて北朝鮮海域へと逃げて行った。このときの不審船(小型漁船に擬した快速艇)の船尾には、どの船にも「金策」という文字が書かれていた。
――それは単に、「金策市の漁港に籍を置く漁船という意味ではないのか……。そう考える見方もあるだろう。確かにそうかもしれない。だが、小泉純一郎が平壌に行くと発表した直後に現れた不審船が、その船尾に何らかのメッセージを示したものだとは考えられないだろうか。
金策の名は1994年(平成6年)にも一瞬だけ登場したことがある。金日成の死去に伴い金正日が国家主席として登場してきたときのことだ。北朝鮮政府の序列第17番目に「金策」の文字が存在した。工科大学の名に冠せられた金策は40年以上も前に死んでいるのだから、常識で考えればこれは別人。だが、二度と出現してこなかった「序列第17番目の金策」とは、金正日体制を保全するために意図的に書かれた、いわば「お守り」「護符」にあたる架空の人間だったのかもしれない。ちなみに北朝鮮では「17」は神聖な数字の一つだという説もある。その理由は皆目見当がつかないが……。
まったく余談になって恐縮だが、日本では「16」という数字が神聖視される場合が多い。天皇家の菊の御紋章も十六花弁である。なぜ16なのか? 古事記・日本書紀によると、天地開闢のときには「天之御中主命」から始まる5代の神々が成り、続いて「国之常立神」に始まる神代七代に続くが、その最後の神がイザナギ、イザナミである。この二人の神は最初の「天之御中主命」から数えて16番目。日本の始まりはこの二神なのだから16は神聖なのだというわけだ。「十六夜」を「いざよい」と読むのは、イザナギ、イザナミを示す古語「16=いざ」から来ている。では「17」は? 檀君神話の主がスサノオ命を示すところから来ていると考えるのは妄想だろうか……。
余談はさておき本題に戻ろう。大学や市にその名を残す北朝鮮の歴史的英雄・金策について、わが国情報機関はどれほど把握しているのだろうか? 恐らく何も理解していないだろう。わが国だけではない。世界の情報機関も知らないはずだ。だがその名には、重大な秘密が隠されている可能性がある。
もう一度、金策という人物について見直してみよう。金策――キムチェク。1902年(明治35年) 咸鏡北道・城津生まれ。モスクワ共産党大学卒。ソ連内務省に入り、満洲で抗日戦線を背後から支援したソ連軍中佐。金日成を支援し続け、1951年に謎の死を遂げた。その功績が讃えられて出生地は金策市と改名され、工科大や製鉄所にも名を冠せられている。
以後、一般に語られる金策像だが、噂では彼は黒龍会のメンバーだったとされる。黒龍会の指導者といえば内田良平だが、内田は対露工作に全力をあげた民間人。北東アジア安定のために日韓併合を推進した人物でもある。さらに金策には、明石機関の援助を受けていたのではないかとの情報もある。明石機関とは、日露戦争の折に欧州で暗躍した明石元二郎が作った特務機関。明石は日露戦争で日本が勝利した影の功労者で、スペインに亡命していたレーニンの尻を蹴飛ばしてロシア革命を扇動、ロシアの力を内部から削ぐことに成功した人物だ。
いや、もっと怖い噂話も存在している。――法螺、妄想と言われても仕方のない話なのだが、金策の正体は日本人だというものだ。黒龍会会員や明石機関員であったとすれば、日本人が朝鮮人に化けていた可能性はある。もしそうであるなら、北朝鮮の根幹思想の構築に日本人が関わっていたことになる。
さらなる噂もあるのだが、これ以上虚言妄想と思われる話を書き並べても意味がない。重要なことは、「金策」を徹底的に調べ上げる必要があるということだ。金策の正体、金策の戦略が理解できれば、北朝鮮の正体がより明確に理解できるはずだ。それは必ずや北東アジアの未来に重大な影響を及ぼす。わが国情報機関の真摯な活躍を切に期待したい。
●3913 「金策メッセージの意味するもの ユン・ヘリン 2/28-17:59 月刊日本2002年11月号より
北朝鮮側からの事前対日メッセージ
五月中旬、北朝鮮当局は、韓国中興の祖ともいえる故朴正煕の長女・朴橦恵女史の平壌訪問を受け入れた。金正日は、朴女史を恋人のように優遇して彼女の父親である故朴正煕を褒め称え、韓国を訪問することができたら、真っ先に朴大統領の墓参りをしたいと語った。朴女史は北側から最大限の歓待を受けただけでなく、板門店経由で帰国した。
金大中は米国から忌避されただけでなく、政権の権威が喪失して身動きがとれなくなっており、この金大中政権の前途を見限った北朝鮮は、朴女史を受け入れることで、彼女を南北の架橋として、新たな希望の星とする演出に徹したといえる。
金正日はこの時、朴女史に母親が犠牲になった文世光事件について、北特殊機関の関与を認めて謝罪したが、彼女はその事実を日朝首脳会談が実現するまで公表することなく一人心に秘めて、「日朝平壌共同宣言」の発表を受けて公表した。北側の朴女史優遇にはある種の対日メッセージが込められており、朴女史もその真意を理解して日朝接近気運が盛り上がることを期待していたものと思われる。
故朴大統領は、反日意識にだけ依拠した民族正統性を建国の基盤にしてきた韓国社会にあって、売国奴の誹りを覚悟して日韓関係の正常化を決断し、その後の韓国経済繁栄の礎を築いた。金正日は故朴大統領を最大限に称賛することで、支援金調達の必要性から対日関係の早急な改善を示唆するため、朴女史を招待したのであろう。
北朝鮮は、訪朝した金丸信元自民党副総裁や壷則首相から数兆円の約束手形を捲き上げている。だが、現金化できない苛立ちに耐えきれず、強圧的な方針を変更するシグナルとして、日韓修復を決断した朴大統領を評価する姿勢を明らかにすることで、日本側の対北認識の変化を朔待したものである。
韓国で発禁本扱いを受けている『親日派のための弁明』(金完隻著・草思社刊)の邦訳本が、我が国では三十万部も売れている。韓国世論の対日侮蔑ともいえる跳ね上がりに対する、嫌韓感情を癒やす効果があってのことである。
同著書の日本語版序文の論旨は、平成九年に日本を訪問した後に北京経由で韓国に亡命した、北朝鮮の黄ジャンヨプ書記が述べた言葉と全く同じ本旨である。
黄書記が亡命を決意して、事前に韓国に伝えたとされる「朝鮮問題手記」全文を読めば、彼は分断された民族の統一を切に願う憂国の情の持ち主であることがよく分かる。黄は亡命後、韓国全土に蔓延する反日感情に驚き、この現象をもたらした遠因は米国の南北分断、日韓・日朝離反戦略にあるとして、「韓国社会の異常な反日感情は南北統一の妨げになる」と、警告を発していた。
そのため、韓国当局は同書記を北側の高度な工作員と危険視し、一種の軟禁状態において、黄が希望している米国亡命も許可していない。『親日派のための弁明』を熟読してみれば、経済繁栄のみの対北優位性に依拠している韓国の存在そのものを、全否定しているといっても過言ではない。そして、民族正統性の観点からだけでとらえれば、貧しくとも北朝鮮に正統性があるとの結論を導いているといえる。
著者の金氏は出国を認められて来日し、日朝会談を横目に見ながら我が国で精力的に講演活動などを行なっている。同氏が自覚的かどうかを別にして、大局的な見地から見れば、南北統一が焦眉の課題となるにつれ、北側の正統性を補完する役割を果たしていると見なすことができる。同書には、半島統一は北優位が自然であり、日本の国益にもつながるという、北朝鮮からの独尊的な対日メッセージが込められているともいえる。
金策に対する一考察
小泉訪朝が発表された八月三十日の直後から、能登半島沖合に北朝鮮の特殊船団が現われ、防衛庁や海保の追尾を誘って、巡視船が監視する目前でその存在を誇示するように朝鮮半島方面に引き返す珍事件が発生した。
我が国のメディアは「不審船出現」と報道しているが、同船団は従来のように日本やシナの漁船を偽装することなく、煙突部分に北朝鮮国旗を描き、船尾にはハングル文字で船名をハッキリと書いて、日本側に写真撮影をさせた上で引き揚げた。「不審船」ではなく、北当局が我が国にある種のメッセージを発するため送り込んだ伝令船と見なすべきである。
メッセージのカギは、船名「金策」にある。防衛庁は、「金策」を北朝鮮の地名と発表した。それも事実(日本統治時代の城津を金策に改称)だが、我が国と縁が深いある人物の名である。彼の名を冠にした「金策工科大学」が存在していることは、金策が北朝鮮にとって多大な功績を残した人物であることを物語っている。
金日成は、日本軍が撤退した後、コミンテルンが捏造した抗日パルチザン英雄伝説にのって平壌に凱旋した。コミンテルンの策謀が発覚する前に朝鮮戦争が引き起こされて、国民は同胞が血で贖う悲惨な内戦にかり出され、金日成の出自を問題にする懸念は封じられた。金日成はソ連軍が参戦していない戦争を利用して、傀儡の弱点を払拭するため、粛清に継ぐ粛清で、ソ連・コミンテルン派を壊滅させて独裁権力の掌握に成功した。
金日成にソ連派粛清を助言したのが金策で、さらに「主体思想」を提言して黄ジャンヨプなどが中心になって理論構築を行ない、金王朝の礎を築いた。この渦中で金策の出自(日本軍情報関係者)あるいは真の経歴(対日情報協力者)が露見したため、彼も粛清の対象になったとも喧伝されている。だが、表舞台から退いて、「主体思想」の構築を指導したとも、秘かに伝聞されている。北朝鮮関連の人名録には、金策について以下のように記述されている。
金策(キム・チェック)。
一九〇三年生、モスクワ共産党大学卒、ソ連内務省GPUに入り、満州の金日成などの活動を支援した。ソ連軍中佐、金日成の腹心の一人で、人民軍の建設に中心的な役割を果たした。朝鮮戦争では前線司令官となったが五一年爆死、その功により、出生地を金策市と改め、その地の鉄工所を金策製鉄所、大学を金策工科大学と命名した。
また、『金日成回顧録』の中に、金正日が父親の金庫を空けてみると金日成と金策と二人だけで映っている写真が出てきたと記述されている部分があり、金策の特殊な立場が問接的に示唆されている。金正日が二代目王朝継承者としての地位を盤石にした後で公表された党幹部の序列に、「金策」の名が浮上しているが、彼の人物と同一人かどうかは不明である。
金策は黒龍会の一員とも言われている。黒龍会指導者の内田良平は対露工作に全力を注ぐために朝鮮半島情勢の安定を願い。日韓合邦運動を推進した民間人である。
内田良平は、朝鮮半島悲哀の歴史は国民の団結心の欠如にあり、その主たる原因は偏狭な正統性への因習に起因して、その弊害の克服が朝鮮自立の第一歩だとの信念を持って、朝鮮工作に遭進した。内田良平翁は、朝鮮社会の構造的因習は本貫一族へのこだわりにあると喝破し、「壇君神話」に基づいた疑似天皇制国家に全ての本貫を止揚する構想を打ち出し、半島人士との連帯を深めた。内田良平の熱意に賛同した多くの半島人士は、日露戦争に献身的に協力して、日韓合邦を積極的に進めてきた。この間の経緯は、『親日派のための弁明』の中でも、詳細に紹介されている。日韓合邦を願った内田良平や朝鮮人士の願いは、明治政府の併合政策によって裏切られた形になったが、その精神は継続されていた。内田良平と明石元二郎は同郷の縁で懇意な関係にあり、金策は両者に縁がある人物と見なしたほうが無難である。
明石元二郎は欧州に赴いて、レーニンなどの共産主義革命を支援することでロシア攪乱工作を行ない、我が国の日露戦争勝利に多大な貢献を行なった旧日本軍参謀本部の高級情報将校である。対露工作の必要上、黒龍会運動に賛同する日鮮の会員多数を動員して各地に潜入させたが、その記録は一切残っていない。
明石は日露戦争後、朝鮮総督府に勤務して、抗露パルチザン対策などに従事、最後は台湾総督として民政に寄与し、死後は台湾に墓所を希望するなど、現地の興隆対策に生涯を託した明治人である。
金日成は北朝鮮社会の全て宗家は金日成個人から発するとして、彼を国父と崇めさせることで本貫を一元集約化した王朝体制を築いた。その正統性を白頭山を神聖視した「壇君神話」で補完し、一時は金日成民族とも呼称した。内田良平の構想が紛いなりにも成就した結果だともいえ、金策が北朝鮮建国の貢献者と評価されているのもこのような因縁あってのことであろう。
ちなみに、金策は息子に「国泰」という名前を付けている。「国家安泰」を願った名で、朝鮮風ではなく日本人の思い入れそのものである。金国泰は労働党書記として金正日の秘書的な側近の地位にあって、現在でも米国やロシアとの交渉の重責を担っている。
金日成が死去した時、三十八度線の北側から明石大佐が日露戦争後にまとめた報告書「落花流水」にちなんだ一節が放送された。金王朝の創業を支えてきた北の長老達が金日成を送るに際して、金策に縁ある著名な日本人軍人の書に託して彼の業績を記録に留め、併せて「興亜積極論」に国運を賭した旧日本軍への義理を果たしたものと思われる。
また『日本書紀』で白村江の戦の項に、「天智元年(六六二)の五月に安曇野比羅夫らが軍船百七十隻ひきいて百済に乗り込み、勅語を賜わって正式に余豊を百済王とし、別に金文字でかいた勅語(金策)を福信に賜わって……」 と、「金策」の意味は「金文字で書かれた勅語」だと記述されている。「金策」という名称は単なる個人名ではなく、日朝の歴史に因んだ、ある想いが込められていることを暗示しているといえる。
我が国の先人・先達は、西洋近代文明の侵略的開国強圧を跳ね返すための脱皮革命ともいえる明治維新を成し遂げ、不平等条約の撤廃を悲願として、近代日本の活路を「脱亜入欧」に求めた。だがその一方で、西洋覇権のアジア浸透に対抗するため、「興亜積極論」政策も多いに進めた。日韓併合は、アジア興隆に賛同する半島人士の協力あってこそ実現したもので、決して西洋植民地主義的な侵略支配ではなかった。
戦前の日本有志の助言で疑似天皇制国家を創設した北朝鮮の国体は、今や風前の灯火だともいえる。金王朝を苦心して支えてきたであろう長老達が「金策」のメッセージに託して、我が国に苦痛の叫びを投げかけてきた、その心情背景を正鵠に受け止めることができる日本人は果たして存在しているであろうか?北側には、拉致事件は敗戦後の疲弊期はともかく経済力を回復してもなお「イエローヤンキー」を恥じない「半国家」日本と、常に準戦時体制を強要された北朝鮮との軋櫟の中で生じた出来事だと居直る捻れた心情が潜在している。
北朝鮮にとって日本は育ての母とも言うべき存在だった。しかし、その北朝鮮は戦後日本が仇敵である米国の妾になり下がったことを憎悪している。現在の日本がなすべきことは、日本が北朝鮮の養母であったことを弁えて、実子同然に育てた義理の息子の非道を糺し、真っ当な道を歩ませることではなかろうか。
マレーシアのマハティール首相が、日朝首脳会談の実現を大歓迎しているのは、我が国が「アジアの日本」を覚醒し、再び「興亜積極論」に乗り出すであろう期待感を表明しているからである。
●【核開発】3度目の正直?…韓国政府、「核実験場」再修正 2006/10/16 朝鮮日報
韓国地質資源研究院の地震研究センターは15日、新たに入手した中国の四つの観測所のデータを交え、総合的に分析した結果、震源地を北緯41.275度、東経129.095度に修正したもの。同地点は、今月13日に修正された地点(北緯41.267度、東経129.179度)よりも約7キロ西に位置しており、従来から核実験の場所として予想されてきた咸鏡北道吉州郡の万塔山周辺だ。9日、韓国の地震研究センターによって一番最初に発表された震源は、咸北金策市サンピョン里で、同日発表された地点よりも南へ50キロ以上も離れていた。9日に一番最初に発表された地点は、韓国側の観測データだけで予想されたものであるため、不正確にならざるを得なかったというわけだ。
【私のコメント】先日、「北朝鮮は日本の傀儡国家で、拉致事件は日朝両国政府の協力によるもの、という陰謀シナリオについて考える」という記事を書いた。しかし、ネットゲリラで紹介された上記の文章を見ると、北朝鮮は日本の傀儡国家どころか、国際金融資本の傀儡国家になり果てた現在の日本とは異なり、貧しくとも大日本帝国(特に陸軍)の精神を守ってきた正統な国家であるという驚くべき結論に達する。江田島孔明氏も同様のコメントを行っている。拉致事件やよど号事件の裏には大きな陰謀が存在するのかもしれない。韓国政府が核実験場は金策市と当初発表したのも、大日本帝国復活への密かな賛意表明なのかもしれない。
・北朝鮮建国の英雄 金日成と金策
ソ連と同じ社会主義国家で英雄の名を冠する施設を持つ国がある。北朝鮮である。冠された名は「金日成総合大学」と「金策工科総合大学」。しかも金策のほうは市の名前にもなっている。
金日成についてはいまさら改めて語るまでもないと思うが、北朝鮮建国の歴史を振り返る意味でここに記しておく。
大東亜戦争の末期、昭和20年(1945年)8月8日、ソ連は「日ソ中立条約の破棄」を宣告、翌8月9日、越境して旧満洲、北朝鮮に攻め込んだ。朝鮮半島北部にソ連の傀儡国家である社会主義国家を建国することはスターリンの意思であり、その意思に従って建国に関わったのが朝鮮共産党北部朝鮮分局だった。この朝鮮共産党北部朝鮮分局から発展した組織は「北朝鮮臨時人民委員会」と名乗り、その委員長が金日成だった。
金日成は昭和20年(1945年)9月19日にソ連から船で北朝鮮の元山に入り、平壌に辿り着いた。民族の英雄・金日成をひと目見ようと集まった群集たちは、ソ連の軍人に護られて現れた33歳の若者を見て「偽者だ!」と叫んだという。
朝鮮半島に実在し、抗日戦線の英雄と崇められていた金日成将軍という人物がいた。この将軍が活躍したのは1920年代のことで、そのときすでに将軍は老人だった。集まった群衆たちは、この老将軍が現れるとは思っていなかっただろう。だが、この将軍とは別に、やはり抗日パルチザンの英雄・金日成という人物もいた。その男は抗日パルチザン組織「東北抗日聯軍第六師長」という肩書きを持ち、半島に展開する日本軍に夜襲をかけて有名になった人物。このため日本軍は第六師長・金日成に懸賞金を懸けたほどだった。だが、ソ連兵に護られて群集の前に姿を見せたのは、どう考えても第六師長・金日成とは別人に見えたのだ。
ソ連の後ろ盾を得て北朝鮮のトップに君臨した青年の本名は金成柱だとされている。その金成柱が金一星、金日成と名を変えたというのが一般的に流布されている説だ。当時、抗日運動家たちが名前を変えることは当然でもあった。金成柱が金日成と改名したことは事実なのかもしれないが、彼が抗日戦線の英雄だったことは、恐らく作り話だろう。
それはともかく、スターリンという巨大な盾に護られていたものの、金日成は抗日パルチザン――北朝鮮では少数派の「満洲派」の人間だった。多数派はスターリン直下の「ソ連派」と呼ばれる勢力で、その多くはソ連国籍の朝鮮人だった。そうしたなか1950年に朝鮮戦争が勃発。中国から林彪率いる第八野戦軍の大部隊が戦闘の前面に立つ。
朝鮮戦争後の労働力不足、経済危機、そして中国とソ連との対立という状況の下、金日成は窮地に追い込まれる。
その後の金日成の政治戦略手法には目を見張るものがあった。まず満洲派とソ連派が結託して、その他の共産主義勢力を壊滅に追いやる。その後にソ連派と対抗するために北朝鮮独自路線を樹立し、それを強力に推し進めて行ったのだ。このとき金日成最大のブレーンとなったのが金策(キムチェク)という人物だった。
金策は1902年(明治35年)に北朝鮮の咸鏡北道・城津市で生まれた。1936~37年(昭和11~12年)頃には満洲の抗日連合第3軍のゲリラ軍の中核にいたとも記録されている。朝鮮戦争、その後の北朝鮮国内での苛烈な抗争の間、金日成を支え続け、金日成独裁体制を築いた最大の功労者である。そうした争闘のなか、1951年(昭和26年、異説もある)に金策は怪死してしまったのだ。
ソ連派、満洲派、その他にも南朝鮮労働党派、延安派等々、派閥軍閥が跋扈する混乱の北朝鮮で、金策が採ったのは金日成=北朝鮮独自路線だった。
朝鮮民族は歴史の流れの果てに、国家や民族よりも宗族、同族を大切にするという独特の族譜を持つようになっていた。これを「本貫図」という。国家より一族郎党を大切に扱うという姿勢だ。これが当然ながら出生差別にも繋がっていた。金策はこの本貫図を強制的に取り上げ、廃棄し、新たな民族構成図を作成した。その原点となるのは朝鮮民族の誕生神話「檀君神話」である。
本貫図を廃して、「檀君神話」を引き継ぐ「金日成一族神話」を作り上げることにより、いわば戦前の日本における天皇体制を半島の民に授けたと言っても過言ではない。金日成北朝鮮独自の理論とされる「主体(チュチェ)思想」とは、「思想における主体、政治における主体、経済における自立、国防における自衛」と表現される。この理論を最終的に構築した黄長元朝鮮労働党書記は、その基礎理論に「天皇機関説」や旧ドイツの「国家有機体説」を採り入れたことを明らかにしているが、金策が提言した北朝鮮建国神話も含め、戦前の日本の影響があったことは誰の目にも明らかだ。
金日成独裁体制を構築した最大の功労者という意味を籠めて、金策の名は「金策工科総合大学」に記念され、そして彼の出生地である城津市は1953年に金策市という名に改名されている。
建国の英雄・金日成以上に巨大な扱いをされている金策について、世界の、そして日本の情報機関は何も調べていない。しかもこの名は、いまなお重大な局面で姿を表しているのだ。
何を語る?「金策」の名前
金策は1951年(昭和26年)に死亡している。その死は、朝鮮戦争による爆死とも事故による怪死とも変死とも伝えられているが、真実は不明だ。その名前は「金策工業総合大学」「金策市」「金策製鉄所」などに残り、顕彰されている。だがそれだけではない。きわめて重大な局面にフッとその名が出現するのだ。
平成14年(2002年)夏――。小泉純一郎首相(当時)の訪朝が決まり日本中が仰天した直後の8月30日から、能登半島沖の日本海に不審船が出現した。海上保安庁の巡視船が直ちに現場に急行したところ、4隻の不審船はUターン。船尾を見せて北朝鮮海域へと逃げて行った。このときの不審船(小型漁船に擬した快速艇)の船尾には、どの船にも「金策」という文字が書かれていた。
――それは単に、「金策市の漁港に籍を置く漁船という意味ではないのか……。そう考える見方もあるだろう。確かにそうかもしれない。だが、小泉純一郎が平壌に行くと発表した直後に現れた不審船が、その船尾に何らかのメッセージを示したものだとは考えられないだろうか。
金策の名は1994年(平成6年)にも一瞬だけ登場したことがある。金日成の死去に伴い金正日が国家主席として登場してきたときのことだ。北朝鮮政府の序列第17番目に「金策」の文字が存在した。工科大学の名に冠せられた金策は40年以上も前に死んでいるのだから、常識で考えればこれは別人。だが、二度と出現してこなかった「序列第17番目の金策」とは、金正日体制を保全するために意図的に書かれた、いわば「お守り」「護符」にあたる架空の人間だったのかもしれない。ちなみに北朝鮮では「17」は神聖な数字の一つだという説もある。その理由は皆目見当がつかないが……。
まったく余談になって恐縮だが、日本では「16」という数字が神聖視される場合が多い。天皇家の菊の御紋章も十六花弁である。なぜ16なのか? 古事記・日本書紀によると、天地開闢のときには「天之御中主命」から始まる5代の神々が成り、続いて「国之常立神」に始まる神代七代に続くが、その最後の神がイザナギ、イザナミである。この二人の神は最初の「天之御中主命」から数えて16番目。日本の始まりはこの二神なのだから16は神聖なのだというわけだ。「十六夜」を「いざよい」と読むのは、イザナギ、イザナミを示す古語「16=いざ」から来ている。では「17」は? 檀君神話の主がスサノオ命を示すところから来ていると考えるのは妄想だろうか……。
余談はさておき本題に戻ろう。大学や市にその名を残す北朝鮮の歴史的英雄・金策について、わが国情報機関はどれほど把握しているのだろうか? 恐らく何も理解していないだろう。わが国だけではない。世界の情報機関も知らないはずだ。だがその名には、重大な秘密が隠されている可能性がある。
もう一度、金策という人物について見直してみよう。金策――キムチェク。1902年(明治35年) 咸鏡北道・城津生まれ。モスクワ共産党大学卒。ソ連内務省に入り、満洲で抗日戦線を背後から支援したソ連軍中佐。金日成を支援し続け、1951年に謎の死を遂げた。その功績が讃えられて出生地は金策市と改名され、工科大や製鉄所にも名を冠せられている。
以後、一般に語られる金策像だが、噂では彼は黒龍会のメンバーだったとされる。黒龍会の指導者といえば内田良平だが、内田は対露工作に全力をあげた民間人。北東アジア安定のために日韓併合を推進した人物でもある。さらに金策には、明石機関の援助を受けていたのではないかとの情報もある。明石機関とは、日露戦争の折に欧州で暗躍した明石元二郎が作った特務機関。明石は日露戦争で日本が勝利した影の功労者で、スペインに亡命していたレーニンの尻を蹴飛ばしてロシア革命を扇動、ロシアの力を内部から削ぐことに成功した人物だ。
いや、もっと怖い噂話も存在している。――法螺、妄想と言われても仕方のない話なのだが、金策の正体は日本人だというものだ。黒龍会会員や明石機関員であったとすれば、日本人が朝鮮人に化けていた可能性はある。もしそうであるなら、北朝鮮の根幹思想の構築に日本人が関わっていたことになる。
さらなる噂もあるのだが、これ以上虚言妄想と思われる話を書き並べても意味がない。重要なことは、「金策」を徹底的に調べ上げる必要があるということだ。金策の正体、金策の戦略が理解できれば、北朝鮮の正体がより明確に理解できるはずだ。それは必ずや北東アジアの未来に重大な影響を及ぼす。わが国情報機関の真摯な活躍を切に期待したい。
●3913 「金策メッセージの意味するもの ユン・ヘリン 2/28-17:59 月刊日本2002年11月号より
北朝鮮側からの事前対日メッセージ
五月中旬、北朝鮮当局は、韓国中興の祖ともいえる故朴正煕の長女・朴橦恵女史の平壌訪問を受け入れた。金正日は、朴女史を恋人のように優遇して彼女の父親である故朴正煕を褒め称え、韓国を訪問することができたら、真っ先に朴大統領の墓参りをしたいと語った。朴女史は北側から最大限の歓待を受けただけでなく、板門店経由で帰国した。
金大中は米国から忌避されただけでなく、政権の権威が喪失して身動きがとれなくなっており、この金大中政権の前途を見限った北朝鮮は、朴女史を受け入れることで、彼女を南北の架橋として、新たな希望の星とする演出に徹したといえる。
金正日はこの時、朴女史に母親が犠牲になった文世光事件について、北特殊機関の関与を認めて謝罪したが、彼女はその事実を日朝首脳会談が実現するまで公表することなく一人心に秘めて、「日朝平壌共同宣言」の発表を受けて公表した。北側の朴女史優遇にはある種の対日メッセージが込められており、朴女史もその真意を理解して日朝接近気運が盛り上がることを期待していたものと思われる。
故朴大統領は、反日意識にだけ依拠した民族正統性を建国の基盤にしてきた韓国社会にあって、売国奴の誹りを覚悟して日韓関係の正常化を決断し、その後の韓国経済繁栄の礎を築いた。金正日は故朴大統領を最大限に称賛することで、支援金調達の必要性から対日関係の早急な改善を示唆するため、朴女史を招待したのであろう。
北朝鮮は、訪朝した金丸信元自民党副総裁や壷則首相から数兆円の約束手形を捲き上げている。だが、現金化できない苛立ちに耐えきれず、強圧的な方針を変更するシグナルとして、日韓修復を決断した朴大統領を評価する姿勢を明らかにすることで、日本側の対北認識の変化を朔待したものである。
韓国で発禁本扱いを受けている『親日派のための弁明』(金完隻著・草思社刊)の邦訳本が、我が国では三十万部も売れている。韓国世論の対日侮蔑ともいえる跳ね上がりに対する、嫌韓感情を癒やす効果があってのことである。
同著書の日本語版序文の論旨は、平成九年に日本を訪問した後に北京経由で韓国に亡命した、北朝鮮の黄ジャンヨプ書記が述べた言葉と全く同じ本旨である。
黄書記が亡命を決意して、事前に韓国に伝えたとされる「朝鮮問題手記」全文を読めば、彼は分断された民族の統一を切に願う憂国の情の持ち主であることがよく分かる。黄は亡命後、韓国全土に蔓延する反日感情に驚き、この現象をもたらした遠因は米国の南北分断、日韓・日朝離反戦略にあるとして、「韓国社会の異常な反日感情は南北統一の妨げになる」と、警告を発していた。
そのため、韓国当局は同書記を北側の高度な工作員と危険視し、一種の軟禁状態において、黄が希望している米国亡命も許可していない。『親日派のための弁明』を熟読してみれば、経済繁栄のみの対北優位性に依拠している韓国の存在そのものを、全否定しているといっても過言ではない。そして、民族正統性の観点からだけでとらえれば、貧しくとも北朝鮮に正統性があるとの結論を導いているといえる。
著者の金氏は出国を認められて来日し、日朝会談を横目に見ながら我が国で精力的に講演活動などを行なっている。同氏が自覚的かどうかを別にして、大局的な見地から見れば、南北統一が焦眉の課題となるにつれ、北側の正統性を補完する役割を果たしていると見なすことができる。同書には、半島統一は北優位が自然であり、日本の国益にもつながるという、北朝鮮からの独尊的な対日メッセージが込められているともいえる。
金策に対する一考察
小泉訪朝が発表された八月三十日の直後から、能登半島沖合に北朝鮮の特殊船団が現われ、防衛庁や海保の追尾を誘って、巡視船が監視する目前でその存在を誇示するように朝鮮半島方面に引き返す珍事件が発生した。
我が国のメディアは「不審船出現」と報道しているが、同船団は従来のように日本やシナの漁船を偽装することなく、煙突部分に北朝鮮国旗を描き、船尾にはハングル文字で船名をハッキリと書いて、日本側に写真撮影をさせた上で引き揚げた。「不審船」ではなく、北当局が我が国にある種のメッセージを発するため送り込んだ伝令船と見なすべきである。
メッセージのカギは、船名「金策」にある。防衛庁は、「金策」を北朝鮮の地名と発表した。それも事実(日本統治時代の城津を金策に改称)だが、我が国と縁が深いある人物の名である。彼の名を冠にした「金策工科大学」が存在していることは、金策が北朝鮮にとって多大な功績を残した人物であることを物語っている。
金日成は、日本軍が撤退した後、コミンテルンが捏造した抗日パルチザン英雄伝説にのって平壌に凱旋した。コミンテルンの策謀が発覚する前に朝鮮戦争が引き起こされて、国民は同胞が血で贖う悲惨な内戦にかり出され、金日成の出自を問題にする懸念は封じられた。金日成はソ連軍が参戦していない戦争を利用して、傀儡の弱点を払拭するため、粛清に継ぐ粛清で、ソ連・コミンテルン派を壊滅させて独裁権力の掌握に成功した。
金日成にソ連派粛清を助言したのが金策で、さらに「主体思想」を提言して黄ジャンヨプなどが中心になって理論構築を行ない、金王朝の礎を築いた。この渦中で金策の出自(日本軍情報関係者)あるいは真の経歴(対日情報協力者)が露見したため、彼も粛清の対象になったとも喧伝されている。だが、表舞台から退いて、「主体思想」の構築を指導したとも、秘かに伝聞されている。北朝鮮関連の人名録には、金策について以下のように記述されている。
金策(キム・チェック)。
一九〇三年生、モスクワ共産党大学卒、ソ連内務省GPUに入り、満州の金日成などの活動を支援した。ソ連軍中佐、金日成の腹心の一人で、人民軍の建設に中心的な役割を果たした。朝鮮戦争では前線司令官となったが五一年爆死、その功により、出生地を金策市と改め、その地の鉄工所を金策製鉄所、大学を金策工科大学と命名した。
また、『金日成回顧録』の中に、金正日が父親の金庫を空けてみると金日成と金策と二人だけで映っている写真が出てきたと記述されている部分があり、金策の特殊な立場が問接的に示唆されている。金正日が二代目王朝継承者としての地位を盤石にした後で公表された党幹部の序列に、「金策」の名が浮上しているが、彼の人物と同一人かどうかは不明である。
金策は黒龍会の一員とも言われている。黒龍会指導者の内田良平は対露工作に全力を注ぐために朝鮮半島情勢の安定を願い。日韓合邦運動を推進した民間人である。
内田良平は、朝鮮半島悲哀の歴史は国民の団結心の欠如にあり、その主たる原因は偏狭な正統性への因習に起因して、その弊害の克服が朝鮮自立の第一歩だとの信念を持って、朝鮮工作に遭進した。内田良平翁は、朝鮮社会の構造的因習は本貫一族へのこだわりにあると喝破し、「壇君神話」に基づいた疑似天皇制国家に全ての本貫を止揚する構想を打ち出し、半島人士との連帯を深めた。内田良平の熱意に賛同した多くの半島人士は、日露戦争に献身的に協力して、日韓合邦を積極的に進めてきた。この間の経緯は、『親日派のための弁明』の中でも、詳細に紹介されている。日韓合邦を願った内田良平や朝鮮人士の願いは、明治政府の併合政策によって裏切られた形になったが、その精神は継続されていた。内田良平と明石元二郎は同郷の縁で懇意な関係にあり、金策は両者に縁がある人物と見なしたほうが無難である。
明石元二郎は欧州に赴いて、レーニンなどの共産主義革命を支援することでロシア攪乱工作を行ない、我が国の日露戦争勝利に多大な貢献を行なった旧日本軍参謀本部の高級情報将校である。対露工作の必要上、黒龍会運動に賛同する日鮮の会員多数を動員して各地に潜入させたが、その記録は一切残っていない。
明石は日露戦争後、朝鮮総督府に勤務して、抗露パルチザン対策などに従事、最後は台湾総督として民政に寄与し、死後は台湾に墓所を希望するなど、現地の興隆対策に生涯を託した明治人である。
金日成は北朝鮮社会の全て宗家は金日成個人から発するとして、彼を国父と崇めさせることで本貫を一元集約化した王朝体制を築いた。その正統性を白頭山を神聖視した「壇君神話」で補完し、一時は金日成民族とも呼称した。内田良平の構想が紛いなりにも成就した結果だともいえ、金策が北朝鮮建国の貢献者と評価されているのもこのような因縁あってのことであろう。
ちなみに、金策は息子に「国泰」という名前を付けている。「国家安泰」を願った名で、朝鮮風ではなく日本人の思い入れそのものである。金国泰は労働党書記として金正日の秘書的な側近の地位にあって、現在でも米国やロシアとの交渉の重責を担っている。
金日成が死去した時、三十八度線の北側から明石大佐が日露戦争後にまとめた報告書「落花流水」にちなんだ一節が放送された。金王朝の創業を支えてきた北の長老達が金日成を送るに際して、金策に縁ある著名な日本人軍人の書に託して彼の業績を記録に留め、併せて「興亜積極論」に国運を賭した旧日本軍への義理を果たしたものと思われる。
また『日本書紀』で白村江の戦の項に、「天智元年(六六二)の五月に安曇野比羅夫らが軍船百七十隻ひきいて百済に乗り込み、勅語を賜わって正式に余豊を百済王とし、別に金文字でかいた勅語(金策)を福信に賜わって……」 と、「金策」の意味は「金文字で書かれた勅語」だと記述されている。「金策」という名称は単なる個人名ではなく、日朝の歴史に因んだ、ある想いが込められていることを暗示しているといえる。
我が国の先人・先達は、西洋近代文明の侵略的開国強圧を跳ね返すための脱皮革命ともいえる明治維新を成し遂げ、不平等条約の撤廃を悲願として、近代日本の活路を「脱亜入欧」に求めた。だがその一方で、西洋覇権のアジア浸透に対抗するため、「興亜積極論」政策も多いに進めた。日韓併合は、アジア興隆に賛同する半島人士の協力あってこそ実現したもので、決して西洋植民地主義的な侵略支配ではなかった。
戦前の日本有志の助言で疑似天皇制国家を創設した北朝鮮の国体は、今や風前の灯火だともいえる。金王朝を苦心して支えてきたであろう長老達が「金策」のメッセージに託して、我が国に苦痛の叫びを投げかけてきた、その心情背景を正鵠に受け止めることができる日本人は果たして存在しているであろうか?北側には、拉致事件は敗戦後の疲弊期はともかく経済力を回復してもなお「イエローヤンキー」を恥じない「半国家」日本と、常に準戦時体制を強要された北朝鮮との軋櫟の中で生じた出来事だと居直る捻れた心情が潜在している。
北朝鮮にとって日本は育ての母とも言うべき存在だった。しかし、その北朝鮮は戦後日本が仇敵である米国の妾になり下がったことを憎悪している。現在の日本がなすべきことは、日本が北朝鮮の養母であったことを弁えて、実子同然に育てた義理の息子の非道を糺し、真っ当な道を歩ませることではなかろうか。
マレーシアのマハティール首相が、日朝首脳会談の実現を大歓迎しているのは、我が国が「アジアの日本」を覚醒し、再び「興亜積極論」に乗り出すであろう期待感を表明しているからである。
●【核開発】3度目の正直?…韓国政府、「核実験場」再修正 2006/10/16 朝鮮日報
韓国地質資源研究院の地震研究センターは15日、新たに入手した中国の四つの観測所のデータを交え、総合的に分析した結果、震源地を北緯41.275度、東経129.095度に修正したもの。同地点は、今月13日に修正された地点(北緯41.267度、東経129.179度)よりも約7キロ西に位置しており、従来から核実験の場所として予想されてきた咸鏡北道吉州郡の万塔山周辺だ。9日、韓国の地震研究センターによって一番最初に発表された震源は、咸北金策市サンピョン里で、同日発表された地点よりも南へ50キロ以上も離れていた。9日に一番最初に発表された地点は、韓国側の観測データだけで予想されたものであるため、不正確にならざるを得なかったというわけだ。
【私のコメント】先日、「北朝鮮は日本の傀儡国家で、拉致事件は日朝両国政府の協力によるもの、という陰謀シナリオについて考える」という記事を書いた。しかし、ネットゲリラで紹介された上記の文章を見ると、北朝鮮は日本の傀儡国家どころか、国際金融資本の傀儡国家になり果てた現在の日本とは異なり、貧しくとも大日本帝国(特に陸軍)の精神を守ってきた正統な国家であるという驚くべき結論に達する。江田島孔明氏も同様のコメントを行っている。拉致事件やよど号事件の裏には大きな陰謀が存在するのかもしれない。韓国政府が核実験場は金策市と当初発表したのも、大日本帝国復活への密かな賛意表明なのかもしれない。
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1167541731/l50
342 :名無しさん@3周年:2007/04/22(日) 09:45:51 ID:DMiL8gRV
マンコデルタアジアの闇は深い
http://my.shadow-city.jp/?eid=412511
343 :名無しさん@3周年:2007/04/22(日) 16:25:02 ID:pJKsVsLw
日本のマスコミがチョ・スンヒさんのご両親に関する肝心の情報をスルーしてる件について
http://antikimchi.seesaa.net/article/39658546.html
344 :名無しさん@3周年:2007/04/22(日) 19:23:20 ID:8IdHgBah
江田島孔明が脱北者を母親に持ちサウジアラビアで働き、国務省中近東課イラ
ク復興班の姉を持つ半島工作員によるテロ事件をスルーしている件について
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-194.html
これで黒だと判明
345 :名無しさん@3周年:2007/04/22(日) 22:29:34 ID:QDZhdhzx
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070422-00000016-mai-int
<北朝鮮>軍総参謀長が交代 理由は不明
4月22日18時20分配信 毎日新聞
【北京・堀信一郎】
北朝鮮の朝鮮人民軍総参謀長が金永春(キムヨンチュン)氏から
金格植(キムギョクシク)大将に交代した。北朝鮮の朝鮮中央通信
流石に違うだろうと思うが...
視点のユニークさに感心する。
URLをクリックするべし。
ここに金策情報の全てがある。
http://csm.cocolog-nifty.com/blog/
http://my.shadow-city.jp/
敗戦から3年後の1948年12月23日、東條英機(元首相・陸相)、
板垣征四郎(元朝鮮軍司令官・陸相)、広田弘毅(元首相・外相、唯一の
文官)ら7人の「A級(A項目)戦犯」が刑場の露と消えた。しかし、不可
解なことにその翌日、本書の主人公ともいえる岸信介を始め、笹川良一、児玉誉士夫など「A級(A項目)戦犯」容疑者19人が巣鴨プリズンを出所した。
中原である中東に世界は注目している。
そして、日本は工作員の戦いの場と化した。
http://my.shadow-city.jp/?eid=434905
中東戦争の真相は中国いじめ
中国と朝鮮が戦うというストーリーをずっと主張しているアカシックレコードさんなんだが、今度は「イラク戦争は意図的に石油消費を絞って中国にダメージを与える作戦」だと言ってます。実は、中国のアキレス腱は石油であって、ただでさえ経済発展が凄まじくて石油が足りないのに、中東からタンカーで石油を運ぶとなると、インド、インドネシア、ベトナム、台湾など、敵対する国々のそばを運行しなければならないわけだ。しかも中国では
石油備蓄量が21.6日分しかない。日本はオイルショックで懲りたので大量に溜め込んでいて、なんと160日分持っている。で、いざ戦争となったら石油を止めちまえば中国はそれだけで崩壊する。北朝鮮も同じだが、それはアメリカとの密約があって、ロシアや韓国から重油を運び込む事になっているので、中国は戦争に負けますよ、という話なんだけどね。まぁ、そこまで行かなくても、石油が安いからといって中国がジャブジャブ使わないようにブレーキかけているのだ、と。それに、いくら中国が貿易で稼いでも、黒字分はアメリカ国債買いなさいよ、と。そういう戦略でアメリカは支那をコントロールしている、というわけだ。まぁねぇ、中国の問題は大変なわけだ。ひとつ扱いを間違えると、図体が大きいだけに影響が心配だ。あいつら出たとこ任せで無責任だから、周囲がコントロールしてやらないと、どこに行くか、判ったもんじゃないし。日本はお隣さんなんだが、出来ればあまり関わらずに生きて行きたいもんだが、現実にはそうも行かないんでねぇ。沼津の干物工場も、今では満州娘ばっかりになってしまったし。困ったもんだ。
「石油の呪縛」と人類
ないでしょうか。↓の記事みたいに、新たなルートでパイプラインを作るとか
してて、どうにか石油を確保しようと努力しているようですよ。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070421-00000111-jij-int
輸入30日分の戦略石油備蓄へ=2010年までに-中国高官
4月21日21時0分配信 時事通信
【北京21日時事】
中国国家発展改革委員会の陳徳銘副主任は21日、海南島で開催中の
「ボアオ・アジア・フォーラム」で、中国が2010年までに30日分の輸入量に
相当する戦略石油備蓄を確保するとの見方を明らかにした。新華社電が伝えた。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070507-00000148-jij-int
マレー半島横断パイプライン建設へ=マラッカ海峡回避し石油輸送
5月7日20時0分配信 時事通信
【クアラルンプール7日時事】
マレーシア国営ベルナマ通信によると、同国のアブドラ首相は7日、
マレー半島北部を横断する石油パイプライン敷設事業を認可したことを
明らかにした。同事業は、半島北西部クダ州と北東部クランタン州を結ぶ
原油パイプラインを8年以上かけて建設するもの。完成すれば、中東から
の原油を、混雑が目立ち、海賊事件も多いマラッカ海峡を回避して日本、
中国など東アジアに輸送することが可能になる。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070421-00000112-jij-int
ミャンマー縦断の送油管、年内着工へ=マラッカ海峡依存を緩和-中国
4月21日21時0分配信 時事通信
【北京21日時事】
新華社電によると、中国の石油大手、中国石油化工は21日、ミャンマー西部
の港湾都市シットウェと中国雲南省の昆明を結ぶ石油パイプラインの建設が
年内に始まるとの見通しを明らかにした。中国石化はミャンマー国営石油
ガス公社と覚書を交わし、研究を進めてきた。