唐茄子はカボチャ

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ナイロビの蜂

2007年01月27日 | 映画 な行
ナイロビの蜂

日活

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アフリカが新薬開発の実験場になっているという話です。何故そうなるのか。それは、アフリカにいる人たちの命があまりにも軽いからです。

命の重さって何でしょう。

人間にとって、1人の人間の目から見ればどんな民族であれ、老若男女、命の重さは同じです。(そう思わない人がいるにしても、それはおいといて・・・)
ところが、大企業の目、国家の目でそれぞれの人を見ると、命の重さは違ってきます。命の価値が変ってきます。

この映画とは違う話になりますが、生きたまま毛皮を剥ぎ取られる狸の映像を見て命の重さに違いがあるのかちょっと考えたりもしました。
人間の目で見たら、命の重さに違いはあるはずです。生きるために生き物を殺すこともあるし、害虫は駆除します。人間社会の中では人間の生活権を守るために他の生き物を排除することだってあるわけです。それは人間が生きて行くためには必要なことだと思います。
よく、生き物の命の重さはみんな同じということを言いますが、人間社会の目から見ればそうじゃないと思います。
でも、地球的な目で見れば、宇宙的な見方で見れば同じなのだろうと考えた次第でございます。
この話はそれまでです。だから何?といわれても、別にただ、思いつきでいいたかっただけなんですから。もう、勘弁してくださいよ・・・

で、話は元に戻って、同じ筈の命価値だったり重さだったりというのは、見る人の視点、立場から変っていくということを感じたわけです。

飛行機に乗れなかった女の子はあのあとどうなったか、それは誰にもわかりません。でも、アフリカの現実は多くの女の子がそういう環境で暮らしているということです。
彼女を救っても、すべての命は救えない。でも、今あの子を救えるのは自分達しかいないじゃないか!というあそこのやり取りも、一人の人間の命の重さとしてみた時には救わなければならないけれど、同じ目にあっている多くの女の子の中の1人としてみた時に乗せられないわけです。まあ、規則なんだけど、その原則を破ると、際限なくなるというわけです。どちらの言い分も正しいと思います。どっちが悪いわけではない。

本当に救うのであれば、社会を変えなければならないということです。

アフリカが、そういう北の経済大国の餌食になっている状況があるわけですけれども、そういう、そこでもうけている人たちにとっては、アフリカの政治状況、社会状況がどうだろうと関係ないわけです。いや、むしろ、そこが不安定だからこそ、そこに儲けが生れるのでしょう。だから貧困をのぞむ人もいるということです。紛争を望む人もいるわけです。
でも、犠牲になっている人たちが望んでいるのは、ただ幸せに、愛に包まれて暮らしたいだけです。



この映画が面白いところは、深い愛の絆があるところです。
ただの、企業批判とか、そんな映画だったら面白さ半分でしょう。そこに愛があるから、面白いし、深く考えることができるわけですね。

1人の人間を殺して闇に葬ることなんて、国家や企業にとってはなんてことないんでしょうけど、その人が与える影響を闇に葬ることはできません。人間は互いに影響しあって、生きていきます。だから、完璧な隠ぺいなんていうのはできません。1人の人間の行動は影響を与え、新たな行動を生み、複数の行動はきっと社会を変えることでしょう。

今は小さい力であっても、その背景には巨大なエネルギーがあるわけです。国や企業はモンスターをいろんな手で眠らせていますが、必ず起き上がる時がくるものなのです。

・・・何の映画の話をしてたっけ?

なんか、すごいことかいてますけど、要は、愛の力は素晴らしい。ということです。愛の構造改革なんて馬鹿なことを言ってる人たちもいますが、愛は言うだけじゃなくて、態度で出るもんだよ。またわけのわからん・・・