唐茄子はカボチャ

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アメリカンラプソディ

2007年09月24日 | 好きな映画・良かった映画
アメリカン・ラプソディ

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ノスタルジアでなくノスタルギアと読んで第2弾!
冷戦時代にハンガリーからアメリカに移住した家族の物語。監督の実体験にもとづいています。

ハンガリーで育てられた子どもアメリカに連れて行かれるところは複雑です。子どもを残してアメリカにいる両親の立場からすればおさまるところにおさまるわけだし、それまであいたいと思いつづけたことを考えれば、感動の再会なわけですけれども・・・・子どもにとって必ずしも望んだことではない。そこの心のずれが寂しいところです。

そして、そのずれを抱えたまま月日が流れ、母親は心配でしょうがないから縛りつけようとし、娘は、その束縛から解放されたくて、いつまでもハンガリーの素敵な思い出にすがっているわけです。

だから、ハンガリーに戻るということは、どっちの選択をするにしても必要なことだったのでしょう。

いかなければずっとそこにすがって生きていくしかない。今の自分の生活を認めることができなかったのかもしれません。
そして、ハンガリーに行ったことで、母親がそこでどんな思いをしてきたのか、自分のことをどう思ってくれているのかを知ることができました。

アメリカにいる時は育ててくれた2人のもとに行くことが一番だと考えたわけだけど、言ってみるとまたそれもどこかに違和感がある。確かに2人を愛しているけれど・・・自分の育った環境と違うという違和感からなのでしょうか。住んでる場所も変ってるし、知り合いもその2人とおばあちゃんだけですもんね。帰ってきたのはいいけれど、もう、自分の居場所じゃないと感じてしまったようです。

アメリカの風景はアメリカアメリカしていて、とても嫌な感じでした。娘のいづらさをとてもよく表現していました。

ナスターシャキンスキーさんってきれいだなあ・・・・
娘もきれいだけど・・・子役がかわいい!!

落葉樹

2007年09月24日 | 好きな映画・良かった映画
落葉樹

パイオニアLDC

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郷愁です。
ノスタルジアと読まないで。ノスタルギアと読んでって感じです。
ただ、懐かしい・・・子どものころのいい思い出というだけでなく、やはりそこには生きていく中での厳しさが子ども心の傷になっていると感じます。そしてその傷がうずいた時、一番守ってくれていた母親を思い出すのです。母親をけってしまった心の傷は今でも忘れないのです。

自分も思い出します。自分が高校生の頃、ガンで入院していた母が一旦家に戻ってきた時に自分はゲームばっかりやっていて、確か母親は掃除を手伝ってとか何とか自分にしつこく言っていたんですが、自分は無視してゲームをやりつづけていました。そしたら、母親が急に泣き出しちゃって・・・体が思うように動かない歯がゆさとか、何にも気持ちをわかってくれない子どもに対して悔しかったのかもしれないです。今でも自分にとって心の傷です。今でも思います。何であんな態度をしてしまったのだろうか・・・おかあさん!って感じです。
そのゲームはナムコのスターラスターです。

で、母親が亡くなる時も自分はゲームをしていて病院への到着が遅れました。そのゲームは、ニンテンドーのF1のやつです。たぶんディスクシステムのやつ。全く親不孝です。親戚の人が「何やってんだ!」といって、車で迎えにきてくれました。

お母さんと一緒に竹トンボをやっているシーンは泣きました。ただただ泣きました。しあわせって、この瞬間なんだと思います。この瞬間の気持ちの高揚が心に刻み込まれていくのです。

母親の「ご飯だよ」という声におれも遊びを切り上げて帰りました。河原で遊んでる時も橋の上から仕事帰りの母親に声をかけられた時のなんともいえない幸せな気持ち。これは自分にとって一生心に刻まれたものなんでしょう。

そこではたと立ち止まる。
おれは母親や父親にそういった幸せの瞬間を刻み込むことができたのだろうか・・・まあ、子どもの存在そのものがそういうものなのだと思いますが・・・

この映画の父親は、何も話さずにただじっとしてキセルをぷかっとやっています。本当に何があってもぷかって感じです。
でも、厳しいとかそういうのではないです。ただじっとしているだけです。
田畑や家を売り飛ばして蔵に住むことになってもぷかっ・・・と、一面何にも動じていないように見えます。
でも、自分は、何もできない自分のふがいなさに情けなくって、それでも何もできずにじっとしているしかない寂しさを感じました。

うちの父親は、いつも変なこといって笑わせてくれるけど、おこるとすごく怖い人で・・・でも、山歩きしていた人だから体の部分部分がごっついイメージがあって・・・ってひとです。・・・なんて俺の父親がどうだとか関係ないですね。

最後の蔵の中でお父さんと向かい合うシーンは面白いです。最初は、父親に何か訴えたいのかな?無言の抗議かな?なんて思っていたんですけど、ただ単に何をしていいのかわからなかっただけだったり・・・

この物語は、新藤兼人さんの子どもの時の思い出のお話です。そういう意味では、陸に上がった・・・につながる話でもあります。

同時に、別荘のシーンは午後の遺言状にかぶさります。っていうか、場所いっしょじゃん!

で、全体のリアルさは、裸の島かな?なんて勝手に思っていますが・・・

梶芽衣子さんの入浴シーン・・・う・・・もっとみせて・・・

お姉さんが河原で上半身裸で魚を追い込むシーン・・・うう・・・やられた・・・

お母さんとの入浴シーン・・・これがまたリアルというか、生々しいというか・・・子どものチンコに命が宿っている!!

新藤さんの裸観を感じます。スケベなんじゃなくて・・・いや、スケベなのも含めて、裸に生きる力をもたせてくれます。健康というのではないです。生きるエネルギーです。だからあえて裸を入れるのだと思います。

家族という集団は、みんなが集まっている時が一番幸せです。一人減り二人減り・・・・そうなっていくと家族はバラバラに・・・うちもバラバラ。そうなる前に子どもが結婚して新しい家族の形を作っていくのでしょうけど・・・

自分は消えていく存在です。半世紀もすれば、自分を覚えている人なんていなくなります。でも、自分は確実にそこにいたのです。今、ここにいるんです。いるんだってば!

ほんと、いつも適当に書いてますね。まったく・・・