アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

あんたは、オレの思いなぞナンノソノ

2025-02-24 05:36:49 | ダンテス・ダイジの風光

◎プレイボーイ(老子狂言)

 

プレイボーイ

 

オレはプレイボーイで 

近いうちに

極地のコウリを溶かすつもりだ。

 

なにしろ、

この頃の

彼女ときたら!

 

彼女のオナラの臭いこと。

だから極地が

こごえいるのさ・・・

 

あんたは、

オレの思いなぞナンノソノ・・・

それでも、

オイラはプレイボーイ 

新しいあんたを産むために

オレのペニスは極地を燃やす・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【彼女】【あんた】は、人類全体。

これは、世界の主宰者にしてプレイボーイのオイラが、彼女のオナラに邪魔されつつ、

ペニスで極地を燃やす。その結果、新しいあんたを産むというもので、世界創生、転変神話。これは、人類の集合的無意識に組み込まれている元型の一種で、適当な戯れごとではない。

 

精神分析学者ユングが、窓の外の太陽を見ながら首を左右に振っている統合失調の患者が、「あの太陽から黒いペニスがぶら下がっている。オレが首を振ると、それに合わせてあのペニスが動いて、世界に風が吹くことに気がついたんだ」と語るのを聞いた。後日ユングは、古代ミトラ教文献で、それと同じような記述「太陽からは『ありがたい筒』が地面へと向かってぶら下がっている。その筒が西に傾くと東風が吹き、東に傾くと西風が吹く」という件りに遭遇して、黒いペニスのことが単なる患者の個人的無意識の表出でないことを発見した。

 

わが日本の古事記では、伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱の神が、天の浮橋の上にお立ちになり、天之沼矛という巨大なペニスを下ろしぶらぶらかき回し、地球上に国土を修理固成した故事があって、類似のもの。

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私は、ただこれになり切ろうとするのみ

2025-02-23 06:29:05 | ダンテス・ダイジの風光

◎どうしようもない・・・(老子狂言)

 

どうしようもない・・・

 

どうしようもない今は、

どうしようもない。

 

これも過ぎ去る。

すべては過ぎ去っていく。

これではない・これではない・これではない!

 

どうでもいい 

なんでもいい 

シッチャカメッチャカ!

私は、ただこれになり切ろうとするのみ。

 

念ずれば、私もすべてもなくなってしまう。

オーム・オーム・・・オーム!!

 

私が対象を見ようとすることが不安であり、

私が対象を聞かせてもらうのが愛である。

 

禅定にはいれない今は、

入れない今だ・・・・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【私は、ただこれになり切ろうとするのみ】だが、これになりきれないので、

【どうしようもない今は、

どうしようもない。

 

これも過ぎ去る。

すべては過ぎ去っていく。

これではない・これではない・これではない!

 

どうでもいい 

なんでもいい 

シッチャカメッチャカ!】

冥想も人生もうまくいかないことはある。

 

【念ずれば、私もすべてもなくなってしまう。

オーム・オーム・・・オーム!!】

一遍の「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」が枕。

マンドゥーキヤ・ウパニシャッドでは、

『オームは現在、過去、未来のすべてである。三世を超えるものすらすべてオームである』(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/産調出版P57から引用)。

これに対し、OSHOバグワンのヴィギャンバイラブ・タントラでは、

『-39-

ある音をゆっくり唱える「オーム」と。

音が遍音(あまねくひろがる)状態になるとき、あなたもそうなる。』

(沈黙の音/OSHOバグワン/市民出版社P94から引用)

 

【私が対象を見ようとすることが不安であり、

私が対象を聞かせてもらうのが愛である。】

私があることが不安で、私が見ようとすることが不安だが、私が一歩譲り、対象を聞かせてもらうのが愛、とはなかなか気づかない。

 

【禅定にはいれない今は、

入れない今だ・・・・・・】

がすべてを決める。

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さっぱりわからないそのこと

2025-02-23 06:10:59 | ダンテス・ダイジの風光

◎マハー・マーヤー(老子狂言)

 

マハー・マーヤー

 

すべてがイマジネーションだ。

(これもイマジネーションあるいはイリュージョンである。)

 

マハー・マーヤー!

欲念相続である。根本無明である。

さっぱりわからないそのことである。

性であり死である。

このあらゆる多様多元の世界である。

不安そのもの恐怖そのもの!

謎そのもの!

神秘!!

 

久遠に未知なる未知。

疑団?

 

(これ以上は思考不能。)

?!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

マハー・マーヤーは迷い、根本無明の総称であって、悟り・ニルヴァーナに対置する。

 

【すべてがイマジネーションだ。】

マハー・マーヤーという混乱の極みの原因は、“あなた”の欲望から来るところのイマジネーションだ。

 

ここは、マハー・マーヤーに向きあったが、

地獄の地獄の地獄の闇。

極楽の極まりないカオス!≫であって、なんと天国もマハー・マーヤーの一部なので、

【さっぱりわからないそのことである。】。

 

【性であり死である。】

性も死もホロスコープの第八室。性は、生のエネルギーが下方に向かえば性に向かうが、人間の進化という点では何も生まない。生のエネルギーが上方に向かえば、自分の死(自我)すなわち禅でいう大死一番に向かう。性も死も“生のエネルギー”のミステリアスな方向性。

 

【このあらゆる多様多元の世界である。

不安そのもの恐怖そのもの!

謎そのもの!

神秘!!

 

久遠に未知なる未知。

疑団?

 

(これ以上は思考不能。)

?!】

マハー・マーヤーに向き合った不条理、理不尽、困惑、当惑、だが、この実感を描いてくれている人は稀である。天国と地獄の先。

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すべてがすべてである

2025-02-23 05:48:45 | ダンテス・ダイジの風光

◎地獄の天国のあくび(老子狂言)

 

地獄の天国のあくび

 

そうなっていくそのままでいいのだ、

とも言えまい。

こうなっていく、このままでいいのだ、

ということもわかりはしない。

何もわかっていないのだ!

だが、何もわかっていないとも言えまい。

 

地獄の地獄の地獄の闇。

極楽の極まりないカオス!

———それでも、どんな答えも出やしない。

 

このモノグルオシサよ!

この静寂よ!

もはや静寂とも言えまい。

 

何もかもが至福である。

すべてがすべてである。

そして、あなたは死んでいる・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【こうなっていく、このままでいいのだ、

ということもわかりはしない。

何もわかっていないのだ!

だが、何もわかっていないとも言えまい。】

”これ”を見守るだけしかできず、絶対に答えを得ることのできぬ神秘、絶対の未知の只中にいた、というような一節がこの部分該当する(ニルヴァーナのプロセスとテクニックP70-71)ように思う。

 

それをさらに表現すれば、

【地獄の地獄の地獄の闇。

極楽の極まりないカオス!

———それでも、どんな答えも出やしない。

 

このモノグルオシサよ!

この静寂よ!

もはや静寂とも言えまい。

 

何もかもが至福である。

すべてがすべてである。】

 

そしてこれは、個なる自分が死んでわかる。

【すべてがすべてである。】から、

【そして、あなたは死んでいる・・・】

ただし、肉体の死で、仏になると言い慣わすが、肉体の死に際し、このようにニルヴァーナに気づく人は、ほとんどいない。

※ここは自殺のことではありません。

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七つのチャクラは悟りへの道すじで

2025-02-22 14:14:45 | ダンテス・ダイジの風光

◎いとしいゲーム

 

いとしいゲーム

 

肉体は絶対無に直結している。

観念は肉体に直結している。

 

人体内の七つのチャクラは、

極めて具体的な悟りへの道すじである。

それは、人間を至福へと導いていく。

 

最後のサハスラーラ・チャクラのみは、

実用性を越えたものであり、

生理的なものではない。

サハスラーラ・チャクラは、チャクラではないばかりか、

いかなる人間的な概念規定をも越えている。

 

サハスラーラ・チャクラとは、

何ものでもないのだ。

 

人間がサハスラーラに到達するまでは、

命がけの情熱が必要だ。

だが、サハスラーラそのものは、

コエダメの中のウジムシの狂言に他ならぬ。

 

ああ、

この、

いとしさよ!

いとしさよ!!

いとしさよ!!!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【肉体は絶対無に直結している。】

絶対無あっての肉体。肉体あっての絶対無。肉体から絶対無までの往復タイムは、数秒か?

 

【観念は肉体に直結している。】

これは、ライヒが盛んに研究したところ。肉体内有毒ガスは、雑念など観念に影響する。

【人体内の七つのチャクラは、

極めて具体的な悟りへの道すじである。

それは、人間を至福へと導いていく。】

これは、”ニルヴァーナのプロセスとテクニック”のチャクラ・クンダリニー・ヨーガのところに出ているとおり。

 

『それらの光の円の中心は、下方のチャクラに呼吸が流れている間は暗くなっているが、上方のチャクラに移行するとともに、完全な円光に変化する。そして、その円光が、最も見事な太陽のような光となる時、私は全く何ものでもない光に見入っているという感じを持った。

 

私の感覚器官は、日々に鋭敏になり、透明な静寂が世界全体を包んでいるような心持ちだった。その頃から、私はパドマ・アサナ (蓮華座)の姿勢で、ほとんど終日を過ごすようになった。

私という様々に動き回る思考、イメージ、感情、感覚、それらは最早周囲のあらゆる出来事と切り離すことのできぬ一つながりの動きのみである。

私とは何なのか? 

このあらゆる動きとは何なのか? 

”これ”は何なのか? 

私は、ひたすらこのあらゆる千変万化するこのものを見守る――それだけの日々がやって来た。 私は絶対に答えを得ることのできぬ神秘の只中にいた。否、絶対の未知それだけだ。それは決して解答を持ち得ない。 解答とは、知らぬものを、別の知っているものによって説明するわけだが、私には、私を含めて知っているものなぞ何一つありはしない。』

(”ニルヴァーナのプロセスとテクニック”/ダンテス・ダイジp70-71から引用)

 

上記引用文の『円光が、最も見事な太陽のような光となる時』をサハスラーラと見ると、

【サハスラーラ・チャクラは、チャクラではないばかりか、

いかなる人間的な概念規定をも越えている。

 

サハスラーラ・チャクラとは、

何ものでもないのだ。】。

 

【だが、サハスラーラそのものは、

コエダメの中のウジムシの狂言に他ならぬ。】

サハスラーラそのものは、老子狂言。

 

老子狂言の目次&リンクス

ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方

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だめな時はだめなのだ

2025-02-22 06:52:16 | ダンテス・ダイジの風光

◎時(老子狂言)

 

 

ない時はないのだ。

だめな時はだめなのだ。

むなしい時はむなしいのだ。

それ以外にない時はそれ以外にないのだ。

 

私は空気がなければ生きられはしない。

私とは空気なのだ。

 

私に自由はない。

自由が私を使っている。

 

自由それ自身は

完璧な笑いだ!

 

人間の喜怒哀楽のゲームは

決して終わることはない。

だから、

ゲームはすでに終わり尽くしている。

 

海の波々が寄せては返す。

朝ごとに太陽は東より登り、

落日の残光を残して西に沈みゆく。

体内に有毒ガスがたまっている現代人は

あたりまえのやすらぎを知ることがない。

 

それでも、

血わき肉おどるこれは、

笑いに笑いに笑っている!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【ない時はないのだ。

だめな時はだめなのだ。

むなしい時はむなしいのだ。

それ以外にない時はそれ以外にないのだ。】

今ここといいながら、時は寄せては返す波のようにうねる。

 

覚者は、恣意なく、天意、神意を生きるし、みじめで情けない人間にして全能の神の二重性を生きるから、

【私に自由はない。

自由が私を使っている。】

とも言う。

 

【自由それ自身は

完璧な笑いだ!】

この笑いについての説明に自信はないが、

1.毒杯をあおったソクラテスが笑う。

2.処刑場で四肢を寸断されたマンスールの言葉。『わたしの愛に終りはない。この人々がわたしに何をしようと、わたしの愛の破壊には成功しなかった。彼らは自分たちの企てを成し遂げられなかった。この愛は永遠だ』(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P171から引用)と言って笑う。

3.石ころは、高らかに笑う(老子狂言)

4.言語を絶する不幸には滑稽が伴う(ヨブ記についてのダンテス・ダイジ評)。

5.普化は棺桶で死んだ

 

【体内に有毒ガスがたまっている現代人】これは、おならとかげっぷのことだが、体内にはまだ排出されていない有毒ガスがあり、それが冥想時の魔境、雑念の原因ともなるので、柔軟体操、ハタ・ヨーガ、呼吸法などでの有毒ガス排出は、冥想の準備として必要。

 

【それでも、

血わき肉おどるこれは、

笑いに笑いに笑っている!

この【これ】は、ニルヴァーナあってのマーヤーとマーヤーあってのニルヴァーナを全体として見ている。だから【血わき肉おどる】。サンヴァラの交合像。

 

それゆえに、【だから、

ゲームはすでに終わり尽くしている。】。

 

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聖なるものなぞどこにもない!

2025-02-22 03:36:04 | ダンテス・ダイジの風光

◎セイナルモノという夢(老子狂言)

 

セイナルモノという夢

 

本ものもニセものもない。

あなたがたは、

聖なるものという夢を見ている。

絶対に信じられないほどの

聖なる体験はある。

だが、

聖なるものなぞどこにもない!

 

バグワン・シュリ・ラジーニシ———

奴はシッチャカメッチャカだ。

本ものだ。

終末が産んだ本もののコメディアンだ。

奴は最もタチの悪いテクニックで、

バグワン中毒を伝染させている。

奴も、そう長くはない。

だが、奴は正真正銘の本ものだ。

 

伊福部隆彦先生———

老子の再来である。

酒で悟りを持続していた。

悲しいほどに本ものだ。

余りに悲しすぎるほどに本ものだった。

 

ババ・ラム・ダース———

間違いなくニセものである。

この人物は、

自分が本もののコメディアンであることを知っていない。

だから、自分を神のコメディアンだと思い込んでいる。

 

高橋新吉———

ロマンチストだが、

どうにか一人前になりたての禅僧だ。

ロマンチストゆえに遊びがたりない。

 

大森曹玄老師——

この人とは話し合うのもごめんだ!

 

木村虎山老師———

釈迦より偉大の上に偉大だ!

無眼子、何の眼力もない。

ただ、淡い定力と、

仏法そのものなるプライドと、

法に対する素朴な親切心があるばかりだ。

 

チョギャム・ツルンパ・リンポチェ———

血わき肉おどる理想主義者。

本ものだ。

だが、新宿のトルコ嬢には

とてもかなうまい。

 

呪術師桐山靖雄———

ニセモノ。

立派な野心家。

とても出口王仁三郎や空海ほどにはいけまい。

ニセモノの度合いがゆるすぎる。

 

グル・マハラジという青二才———

ニセモノ、イカサマシ。

ただのヒト!

 

君は君なんだ

それ以外にない

犬は犬なんだ

それ以外にない』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

バグワン・シュリ・ラジーニシ:OSHOバグワン。アトランティスのアメンティでの超人仲間。前世は荘子なので、この世でも遊びまくるから

【終末が産んだ本もののコメディアンだ。

奴は最もタチの悪いテクニックで、

バグワン中毒を伝染させている。】。

だが神人合一を経たので、本もの。

 

伊福部隆彦先生:ダンテス・ダイジの老子の教えの師。カルマ・ヨーガと只管打坐で二度大悟の本もの。老子狂言のきっかけとなった。

【余りに悲しすぎるほどに本ものだった。】

 

ババ・ラム・ダース:ハーバード大学で心理学の博士号を取得。1960年代初頭にメキシコでマジックマッシュルームを体験し、以後、精神世界の旗手的自覚の本を沢山出したりしているが、私は感心しなかった。

 

高橋新吉:高橋新吉の詩は、禅仏教の影響を受けており、彼は日本のダダイズム運動の中心的詩人。

 

大森曹玄老師:禅の老師、著作もある。

 

木村虎山老師:ダンテス・ダイジの隻手の公案透過時の師。

 

チョギャム・ツルンパ・リンポチェ:チベット密教の高僧。ダライ・ラマと同時期にチベット脱出して、西洋で布教。著作を見ると、

【だが、新宿のトルコ嬢には

とてもかなうまい。】

という印象はある。

 

桐山靖雄:阿含宗の創始者。

 

グル・マハラジ:ビートルズは、1967年に超越瞑想の創始者であるマハリシ・マヘシュ・ヨーギと出会い師事したが、金を無心されたりして幻滅したというような記事を読んだことがある。

 

【本ものもニセものもない。】

なにもかもなし。

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解脱への修行は苦あれば楽あり

2025-02-21 06:57:21 | ダンテス・ダイジの風光

◎欲念相続(老子狂言)

 

『欲念相続

 

悟りへの修行———

これもまた他のあらゆる人間営為と同様に

欲望の一形式であり、

したがって、

欲望のあるところに苦しみがあるのは、

当然である。

 

解脱への修行は

他の一切の人間の欲念の戦いと変わるところなく、苦あれば楽ありである。

 

ああ、それにしても、

余りの戯れよ!

夢よ!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

※欲念相続:人が生きている間に抱く様々な欲望や執着(欲念)が、死後も消滅するのではなく、来世に引き継がれること。

 

一切の人間の欲念の戦いも苦あれば楽あり、解脱への修行も苦あれば楽あり。解脱への修行の結果、すべての現象は夢幻であることを通過し(空)、悪カルマはその後発生しないようになり、中心太陽に突入した結果、限りなき高みを天かける孤独の鳥であるならば、

【ああ、それにしても、

余りの戯れよ!

夢よ!】。

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絶対即絶対に至れば

2025-02-21 06:25:23 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言4-4すべてが(老子狂言)

 

『4○

すべてが

こうである以上にこうである

そのすべてがすべてでいいんだ

いいや、いいんだ以上のいいんだ。

 

聖人タイプは、

すべてのすべてのすべての絶対を欲望する

相対と対立する絶対ではなく、

絶対即絶対に至れば、 

もともと何ということもない。

 

人様にメイワクかけ、世界にメイワクかけ、自分にメイワクをかけ続ける、

いわゆる俗人様つまり恐れ多くも御ブタ様々タイプは、

喜んでいるのか悲しんでいるのか・・・

楽しんでいるのか苦しんでいるのか・・・

ガンにかかってシチテンバットウしている人が、ミジメなのだろうか???

モグラの近視眼で、国をウレエ、世界をウレエ、だが自己をウレウルことだけは、さけて、立派な偉大な事業に励んでおられる。

私は心の底から頭のさがる思いだ!

 

どういうわけか、

私は、苦しいのより楽しいのが好きな性分ときている。

 

さて、

何もかもが、ありとあらゆるもの、まったくないといったもの、シッチャカメッチャカのすべてのすべてのすべてが、生命なわけだから、

生命ゆえに、

価値も意味も方向もありはしない。

 

それが、どのようなプロセスを経たニルヴァーナ・エクスタシーであろうと、

それであるのなら、

何も言うことはない・・・・・・・・・・・

 

チェッ! オレは言っちまった!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【人様にメイワクかけ云々】は、珍しく冷笑的な部分。ダンテス・ダイジは、人との応対では、まず冷笑的であることはなかった。そうしないとわからない人もいる。

 

【相対と対立する絶対ではなく、

絶対即絶対に至れば、 

もともと何ということもない。】

この部分は、色即是空空即是色が色是色空是空に転ずること。

魚行って魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し(道元)

限りなき高みを天かける孤独の鳥

 

モグラの近視眼で、国をウレエ、世界をウレエ、だが自己をウレウルことだけは、さけて、立派な偉大な事業に励んでおられる。

大半の人がこのとおりだが、冥想は自己をウレウル第一歩。冥想には、効果や目的を求める冥想と、効果や目的を求めない冥想の二種あるが、求めない冥想の方が本丸である。

 

それでも、【私は、苦しいのより楽しいのが好きな性分ときている。】

と言ってみせる。

 

そこで、

【それが、どのようなプロセスを経たニルヴァーナ・エクスタシーであろうと、

それであるのなら、

何も言うことはない・・・・・・・・・・・】

ととどめを刺す。

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そうなる以外にないかのように

2025-02-21 06:25:23 | ダンテス・ダイジの風光

◎かのように・・・(老子狂言)

 

かのように・・・

 

あらゆるものは

そうなる以外にないかのように

生々化々する。

 

そうなってゆく

そのままで

完全にいいのだ。

 

不安や恐怖や苦痛でさえ

神の中なる神の戯れ。

 

それではよくない!

と言ったところで、

ストーブの上のヤカンのお湯は

うなっている。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【あらゆるものは

そうなる以外にないかのように

生々化々する。】

人為は効かない。天意神意で生々化々するから、

【そうなってゆく

そのままで

完全にいいのだ。】。

 

私は、苦しいのより楽しいのが好きな性分ときている≫が、

【不安や恐怖や苦痛でさえ

神の中なる神の戯れ。】

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この世に新しき言葉なく

2025-02-20 06:25:41 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言4-3臨済も(老子狂言)

 

『3○

臨済も、

普化の禅機にはかなわなかった。

 

この世に新しき言葉なく、

この世の神秘は続く・・・

 

能力によっては、

至福は得られない。 

それはなのだ。

がすべて起こす・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

臨済と普化は、地元有力者のオフィシャル晩餐会に招かれたが、普化はご馳走の並ぶテーブルを蹴り倒し、自分で棺桶に入って死んだ。

 

OSHOバグワンもダンテス・ダイジもニルヴァーナという体験とは言えない体験者だが、すべてのすべてである神人合一段階を経ているのに、「すべてを知っている」と言わず【神秘】と言う。また彼等覚者の現実は、過去現在未来が一枚板のようになっていていわば現在しかなく、時間がない世界だから、

【この世に新しき言葉なく、

この世の神秘は続く・・・】

 

そこで改めて、

【能力によっては、

至福は得られない。 

それは時なのだ。

時がすべて起こす・・・】と。

 

老子狂言の目次&リンクス

ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方

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おお、めくらの情熱よ!

2025-02-20 06:20:42 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言4-2牢獄(老子狂言)

 

『2○

牢獄 

束縛 

催眠術 

死 

未知 

不可知? 

疑い 

不安 

空しさ

 

情熱 

おお、めくらの情熱よ! 

サトヴァ質の極点よ。

 

神なるものの 

絶対無の限りなき光なるものの・・・ 

あらゆる忘我の時よ! 

あらゆるエクスタシーよ!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

自分という人間の現実を率直に見つめれば、

牢獄のように束縛され、あらゆるマインド・コントロールの催眠術にしてやられていて、快適、幸福の先には死がちらついている。

未来も今も未知で不可知で、あらゆるものに疑いがあり、不安で空しさがある。

その原因は、【めくらの情熱】があるせいだが、その情熱がなければ、

【神なるものの 

絶対無の限りなき光なるものの・・・ 

あらゆる忘我の時よ! 

あらゆるエクスタシーよ!】

にたどり着けない。

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百パーセント万事休した姿勢

2025-02-20 06:15:26 | ダンテス・ダイジの風光

◎格言4-1坐禅(老子狂言)

 

『1○

 

坐禅

特に只管打坐は、

その本質は 

百パーセント万事休した姿勢でしょ。

 

つまり

あなたは何者でもないかもしれないのだ。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

只管打坐は、結跏趺坐で腰を入れるので、姿勢が固定される。そこで、浮かんでくる雑念を相手にしないので、

【百パーセント万事休】する。

 

【つまり

あなたは何者でもないかもしれないのだ。】

無底の底への落下。

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時を忘るれば、ただちにその時だ

2025-02-19 16:31:54 | ダンテス・ダイジの風光

◎そうなのだ(老子狂言)

 

そうなのだ

 

そうだ、

あらゆる経験を 

限りなき経験を 

地獄を至福の極楽を

経験して経験して体験したいのだ!

 

私の中に

あると思われる様々な観念———————

一体その正体は 

そりゃ何じゃ?

苦を不安を退屈を倦怠を 

わけのわからなさを 

どうしようもなさを 

誰がうえつけたというのか?

 

だが、

素適な状態は、

やっぱり繰り返したいし、

永遠に続きたい!

 

すべてのすべてが

神だと、私自身だと、至福や自由だと、

言える時よ!

 

時を求めれば、時を遠去からしむ。

時を忘るれば、ただちにその時だ。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

素適なことも、苦しくていやなことも両方いつかは徹底的に体験してみたい。

【だが、

素適な状態は、

やっぱり繰り返したいし、

永遠に続きたい!】。

そんなことは、不可能だが、

【すべてのすべてが

神だと、私自身だと、至福や自由だと、

言える時よ!】という時がある。

 

だから、

【時を忘るれば、ただちにその時だ。】。

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いい経験をすればするほど不安はつのる

2025-02-19 16:03:11 | ダンテス・ダイジの風光

◎不安(老子狂言)

 

不安

 

いい経験をすればするほど

不安はつのる。

 

が、不安に対処する手段はない。

 

至福は起こる。

それは、おのずから生ずる。

 

完き至福——

それは、人間が求めてやまないものだ。

 

だが、

これは

至福以上だ。 

ぜんぜん比較になりはしない。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【いい経験をすればするほど

不安はつのる。

 

が、不安に対処する手段はない。】

不安は、見ている自分があるから起こる。

至福は、天国、極楽のもの。見ている自分がある。

 

【これ】は、見ている自分がないから、

【これは

至福以上だ。 

ぜんぜん比較になりはしない。】。

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