◎距離(老子狂言)
『距離
距離などというものはない。
遠い遠い昔も未来も
これにしかない。
すべての二元対立を悪戦苦闘して
私の最後の疑問に到る。
私は何か?
すべてをすべてと認識している
私とは何か?
誰れが私などというものを
現わしているのか?
こう現れている
この私とは何か?
こう書いている私は何か?
私を忘れている時の私とは何か?
そもそも
すべてとは何なのか?
それさえ
まだるっこしい。
これは何だ?
これ何者ぞ?
これは何だ??
ああ、人間の果てまで来てしまった——
というこれは何だ?
そんなことどうでもいいという——
これは何だ?
これは何だ???という——
これは何だ!
断じて知的疑問ではない。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩から引用。
【距離などというものはない。
遠い遠い昔も未来も
これにしかない。】
過去、現在、未来も、時間、空間、物質も一枚鏡になった今ここに、距離はない。
【ああ、人間の果てまで来てしまった——
というこれは何だ?
そんなことどうでもいいという——
これは何だ?】
ダンテス・ダイジは、竹富島で自殺した友人の霊に一緒に死んでくれと求められ、直ちに首をくくって死んだ。その時、「その友人の人間の果てにある孤独感を理解した」。それが命の悲しみ、慈悲。
【この私とは何か?】
の私について、冥想十字マップ狂言から、
『私の正体を開示しない限り、私達人類は、とめどもない混乱と崩壊の中に悲惨な死滅を死滅するだろう。
私達は、何はさておき、私自身というこの根本前提の暗黙の了解を否定して、
私とは何かを、まったく新しく究明し直さねばならないのである。
これが、この終末の時代の全人類的な最重要問題なのだ。
私の正体を見破り、
神に目覚めるのだ。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジp194-198から引用)