アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-20

2023-04-25 06:35:06 | ダンテス・ダイジの風光

◎時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に

 

地水火風、特殊冥想ときて、ようやくすべてに共通する要素である空冥想を語る。

 

『空・冥想自在

 

生きることなく生き

死ぬことなく死ぬ

雨の一しづくに涙を流し

火の中に安楽に坐る

海のようにすべてを飲み込み

一服のマリファナに大喜びではしゃぐ

この世とあの世の何もかもが

本当の私の身体だ

冥王星の売春婦が

赤ん坊を産む時の苦しみが私だ

苦しみのない寂静それ自体が私だ

 

冥想自在とは出入自在のことである。君は あらゆる宇宙を自由自在に出入する。

時間も空間も現象もない君が、時間と空間 と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、君は君にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。

 

言うそばから嘘になってしまう、かつて一度たりとも何かが語られたことはない。そして嘘という真実。

 

愛する二人に

言葉はいらない

 

二元論に非ず、一元論に非ず、不二一元論に非ず、悟りに非ず、迷いに非ず、決して語ってはならない、君の恋心を。

 

夢、語るとはするな

汝が恋を

語るにも語るすべなき

恋なれば』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

『生きることなく生き 死ぬことなく死ぬ』と、生死を越えている。

 

『雨の一しづくに涙を流し』は、出口王仁三郎の高熊山での一週間の断食絶水修行で顔に落ちてきた一滴の露に涙を流したことを思わせる。

 

『火の中に安楽に坐る』は、最乗寺の慧春尼が、薪を積み上げて燃やした上に自ら平然と坐り、兄の了庵が、「慧春、熱いか、熱いか」と問うと「冷熱は生道人の知るところにあらず」と答えた故事を思わせる。

 

『この世とあの世の何もかもが 本当の私の身体だ』とは、第六身体アートマンの謂い。その立場で、『冥王星の売春婦が

赤ん坊を産む時の苦しみが私だ

苦しみのない寂静それ自体が私だ』と、苦しみのあることも苦しみもないことも二つながら私だと語る。これはOSHOバグワンの、天国と地獄は自分に付いているものだという表現に近い。

 

そしてさらに一見謎めいた言葉が続く。『冥想自在とは出入自在のことである。君は あらゆる宇宙を自由自在に出入する。』

これは、第七身体ニルヴァーナに到達して初めて、第六身体以下のすべての世界に出入自在となることを言っていると思う。

 

世間では、とかく下位互換があたりまえになっているから、例えば第四身体(メンタル体)を使えるようになれば、それ以下のアストラル体、エーテル体、肉体が使えるようになるのではないかと推測しがちだが、そうではないようだ。下位互換が成立するのは、ニルヴァーナに至ってからである(OSHOバグワン)。また自由な力には定力が必要。

 

『時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、君は君にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。』

 

この一節は、自家撞着だが、アートマンとニルヴァーナとの関係のない関係を語る場合には、常にこういう言い方になるものだ。

この『空・冥想自在』節の立場は、見神見仏見性が前提ではなく、究極の悟りニルヴァーナが前提になっている。

 

これで語るべきことはすべて尽くされ、続いてアートマンなる世界全体とニルヴァーナを韻文で歌いあげる。

言葉で語れるものは真実ではないが、嘘という真実。それすらも肯定的に叙述するのが、タントリズムということなのだろう。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-19

2023-04-24 06:52:26 | ダンテス・ダイジの風光

◎ドラッグやセックス、君の大好きな何かをやり通す冥想

 

『風・特殊冥想

 

ドラッグやセックスから入る冥想である。

あるいは、君の大好きな何かをやり通す冥想。

特殊と名づけたがこの道にふさわしい魂にとっては決して特別なものではない。

いづれにせよ、自我欲の不安からくる快楽

のためのものではない。

 

君は、ドラッグとかセックスとかの余りに人間的な逃避的な営みを越えて、人間を越えた無限にジャンプ・アウトして再び余りに人間的な世界にもどってきて天命を生きるのだ。

 

この道には、清く正しい日々の生活訓練が絶対に必要であることを忘れないように。

ミイラ取りがミイラにならないことを祈る。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

まず清く正しい日々の生活ペースが確固としてある。そこで特殊冥想。ドラッグの側(ソーマ・ヨーガ)の代表は、カルロス・カスタネダのシリーズにほぼすべてが尽くされている。

 

セックスの側の代表といえる著作はないが、ダンテス・ダイジやOSHOバグワンの断片的な記述を見ると、二者は全く別の冥想法を説いている。平たく言えば、ダンテス・ダイジは、不倫関係ではセックス冥想(カーマ・ヨーガ)は成立しないとしているが、OSHOバグワンは、不倫・フリーセックスでもよいとしている。

またOSHOバグワンは、谷オルガズムというものを出してきているが、ダンテス・ダイジの言うところのカーマ・ヨーガとは異なる。

 

過去、中国房中術書や、カーマスートラなども読んでみたが、あまりはかばかしいものはなかった。

 

ただダンテス・ダイジ座談で、釈迦はカーマ・ヨーガにトライするチャンスがあったが、あまりの困難さにトライを避けたという話が出てくる(出典は不明)。

 

ソーマ・ヨーガでは、ティモシー・リアリーや、オルダス・ハックスレーなどが、いろいろドラッグの効果を称揚したりはしているが、ソーマによる求道という点では、徹底していない。その点では、古代イラン・インド時代のソーマ讃歌の方がちゃんとしている。また欧米では、ラリった者の文学もあるが、出来栄えは感心できない。

 

ラリった者の音楽もビー○○ズ以来多数あるのだろうが、求道につながっているかどうかは別の問題である。

 

さらにドラッグやセックスが基調の生活となれば、生業も家事も冥想も行わず、快感、感覚刺激を求める日がな寝ころぶのが中心の阿片ジャンキーみたいな生活になる可能性もある。それをミイラ取りがミイラになると戒める。人間から動物レベルに落ちるのだ。

 

『君の大好きな何かをやり通す冥想』といえば、事上磨錬ということになる。これは元は王陽明の用語だが、現代では毎日の仕事を一生懸命に精密にやることで開悟することを求めるもの。一生懸命に「精密」にやるのだ。そこでは、健全な日常生活を送る中で、それが何の確固たる基盤もなかったという隙間を感得する道でもあるのだろう。一行専心である。ニルヴァーナを求める手法としては、世間的にはこの道は迂遠に見えるし、容易なものではないのだろう。

 

また仕事以外に、ゲームとかギャンブルとかアビトラージとか相場や楽して簡単に金が儲かる利殖に打ち込む冥想もあるのだろうが、精神を病んだり破産したり家庭が崩壊したりなど、いくらでも隘路は用意されているものだ。だからこのカテゴリーは特殊冥想なのだ。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-18

2023-04-23 06:28:46 | ダンテス・ダイジの風光

◎神の絶対なる愛と自由に立って、霊界イメージをコントロール

 

『水大・神霊道

 

神の絶対なる愛と自由に立って、霊界イメージをコントロールするのである。

あらゆる神通力・超常現象は、この神霊道――密教の中にある。

 

霊力・神通力という支配欲のトリックにだ まされるなかれ。神の愛に立っていない霊力は、はかない人間の悪あがきの一つにすぎない。

 

君が一瞬にして太陽系を消滅させるほどの霊力を持っていたとしても、神を知らなければ、空虚なままの君に変りはないのだ。

 

この世とかの世の宇宙の一切は、愛の実現としてしかありえない。

 

釈迦が遠い昔に

神通力を得たという。

だが、その釈迦は

今どこにいるんだい。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

神霊道、密教とは、神通力・超常現象、超能力を駆使して、人間を助けて行こうとするもの。古神道、ユダヤ教、道教内丹、日本密教、チベット密教、西洋魔術、クンダリーニ・ヨーガ等々を指す。

 

こうした宗派の書物には、大規模に超能力を駆使する話がしばしば登場してきて、地道に日々努力して積善陰徳する人々の耳目を驚かせることがある。

 

だが、それですら神を知っていることが前提でなければ、はかなき支配欲、権力欲のあがきになる。見仏見神見性体験なくしての超能力志向は、いたずらにこの世を混乱させるだけに終わる。

 

こうした密教系の修行体系では、わりと最初の方に見仏見神見性体験が必須として出てくるが、その体験なくして超能力が発現するケースもあることもまたあっさり書かれており、ひいてはそうした超能力者を中心としたカルトを結成したり、巻き込まれて一生を棒に振る人も少なくない。それを前提にした書きぶりである。

 

『火・神秘学

 

神秘法則・霊的エネルギーなどと宇宙意識との結合による新しい文明への探究である。

ネオ・アトランティスあるいは千年王国の精神文明は、あと二十五年にまで近づいている。

 

だが、君がどれだけ神秘学、神智学、神霊学などの知識にたけていようと、君の意識が新しい変容を完成していないのなら無意味なことだ。

君は、何よりも神の子として神秘学にたづさわらねばならない。

 

いづれにせよ、まったく新しい精神文明が来るであろう。そして、それは、たった一人の君の内的自覚から始まっている。』

(上掲書から引用)

 

神秘法則・霊的エネルギーとは、四柱推命、紫微斗数、西洋占星術・ホロスコープ、人相、手相、易占、タロット・カード、オラクル・カード、ルノルマン・カード、風水、気学、地相、家相、墓相、数秘術、言霊、神智学、神秘生理学、経絡等々。

 

知識、書物でもってこうしたものにアプローチする人が一般的なのだろうが、秘伝の類は、高額な金を払えば伝授されるようなものは、秘伝奥義ではない。だからステップ形式で値段が上がり、技法テクニックを伝授するようなものには、本物はないと言える。

なぜならどのメソッドの窮極も最後は文字や言葉では表せないからである。

 

今の時代は、物欲優先の時代ではあるが、こうした神秘学、神智学、神霊学の起こりを考えてみると最初は、少なくとも見仏見神見性体験のある開祖がいて、それが現実生活を扶ける技術としてこうした神秘学、神智学、神霊学の類を伝授したのだろうと思う。具体的には、予言、病気治し、人生上のアドバイス万般になるのだろうが、神知らぬ技法だけでは、混迷、困窮を一時的には脱したかに見えるが、本人あるいは相談者・被施術者が神を知ることに至らねば根本的な解決には至らない。

 

最近は、大人気のマンガの影響か、超能力、霊能力がある方がよいと思っている若い人が多いのかもしれないが、それについての大霊能力者の見解は一様に否定的である。また最近は、向精神性薬物等の服用によって、悟りを得ぬままに霊能力、霊感が開けるケースもあるようだが、それもまた問題が多い。

 

ダンテス・ダイジは、いつの時代も悟りなくして神秘学、神智学、神霊学だけを研究、利用する人々が多いことを見て取って、やわやわとそれを諭している。

 

それらを真に活用できるのは、万人が悟りを開いた時代以後のことである。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-17

2023-04-22 07:24:35 | ダンテス・ダイジの風光

◎君は神であるとともにまたとない人間なのである

 

西洋ではなぜ四元素なのに仏教では五大なのか。パラケルススは、第五元素に言及している。ニュートンも第五元素を認めているが物質レベルのものではなく、霊的レベルのものである。それをニコラ・フラメルも認めている。

 

ダンテス・ダイジの基本線は霊がかりをやめようということなのに、ここで改めて霊的世界観に言及する理由は、あくまで見神見仏見性を経た、つまり禅の十牛図で言えば第三図以降の人限定で語っているからである。

 

『【冥想五大の道】

 

五大とは、地水火風空の五つの神秘的シン ボルが、この世とかの世とを仮現せしめているということである。

宮本武蔵の「五輪之書」もこれに従っている。

地・水・火・風・空は、現象宇宙が創出される基本的な要素であるばかりでなく、霊 的宇宙の中にも霊的五要素のエネルギーの流れとして存在している。

 

ただし、人間の知的側面に映るあらゆる分類は、その時々の修行者の魂に役立つための方便にすぎない。

あらゆる二元性を超越し、超越したことも 超越した君にとっては、この世とかの世との種々様々な分類は、出入自在なる君の戯れと化している

 

君は、時間でない今、何よりも生きているのだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

五大は現象宇宙の構成要素であって霊的世界もそうであるという意味は、霊的世界から現象宇宙が発出されるのを前提としている。物理実験で、五大が検出されるわけではない。

またここで五大を述べるがそれが絶対ではなく、『人間の知的側面に映るあらゆる分類は、その時々の修行者の魂に役立つための方便にすぎない。』と釘をさす。

 

ノンデュアリティで、男と女、善と悪、光と闇、天国と地獄などの二元性の選り好みを超えたら、その超えたことも超越すれば、この世もあの世も生も死も出入り自在である。

  

『地大・基本冥想道

 

君は、君の本質的個性をおおらかに生きるとともに、無限それ自体を自覚している。

神と神のつくりしままの君という個性が、あるがままの君だ。君は神であるとともにまたとない人間なのである。

 

太郎には太郎の宇宙があり、メアリーにはメアリーの宇宙があり、君には君の宇宙がある。

 

それらの多様多元な宇宙は、完全な調和の中に遊んでいる。君が本当の自分自身を自覚体得した時、そこには、どのような衝突もない。

それと同時に、多様多元宇宙は一つというも愚かな一つなのだ。

 

私は、人が生きたり死んだりしない世界にあこがれて、冥想の道を歩んだ。

今、気がついてみると

冥想も悟りも消えてしまった。

ここに、人が生きたり死んだりしている。

完全そのものなる絶対無の私は

アルファ・ケンタウリスの

あの少女の人生を生きている。』

(上掲書から引用)

 

『君の本質的個性をおおらかに生きるとともに、無限それ自体を自覚している。』とは、見神見仏見性を経て、初めて自分の本質的個性をおおらかに生きることができるということ。君は神にして、またとない人。

 

そんな君は、誰のものでもない君の宇宙を生きる。そうした分断された各宇宙が他の宇宙と摩擦も起こさず、不思議なことだが、全体として調和のままに活動存在している。

 

それが、『それらの多様多元な宇宙は、完全な調和の中に遊んでいる。君が本当の自分自身を自覚体得した時、そこには、どのような衝突もない。』ということ。

 

『多様多元宇宙は一つ』とは、第六身体アートマンを指す。

 

冥想も悟りも消えてニルヴァーナにあるダンテス・ダイジは、

『アルファ・ケンタウリスのあの少女の人生を生きている。』。

 

私は、この『アルファ・ケンタウリスのあの少女の人生を生きている。』の一節が、とても好きだ。

 

『アルファ・ケンタウリス』は、ケンタウルス座のアルファ星系。太陽系から4.3光年しか離れておらず、地球から最も近い恒星系。

 

ダンテス・ダイジは、名前にケンタウロスが入っていた時期がアトランティス時代にあったようだが、それが、アルファ・ケンタウリスとどう関係があったのかはわからない。

 

ダンテス・ダイジの前世の少女のイメージといえば、アトランティスのレムリア時代の聖王トースの愛人の一人であったナツノだが、彼女がアルファ・ケンタウリス出身かどうかはわからない。

 

ダンテス・ダイジ座談などでは、最初に彼が地球に降り立ったのが、銀色に光る円盤であって、それがケンタウルス座のアルファ星系からのそれなのかシリウスからのそれなのかも判然としない。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-16

2023-04-14 03:21:01 | ダンテス・ダイジの風光

◎コスモポリタン、冥想教師

 

見神、見仏、見性を達成した者のコース選定の続き。

 

『3・コスモポリタン

 

世界市民ではなく、宇宙市民のことである。

すべての人々は、みんな本来はコスモポリタンとして生きている。

ここでは、悟りの深さとか、個性の優劣とかはまったく関係ない。

君がどのように生きようとも、君は君らしくあればいいんだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

宇宙市民として、個人の輪廻転生の行方によっては、他の天体に転生することがあり得ると示唆しつつ、他方宇宙全体と一体であることを体験として知っている。

 

『君は君らしくあればいいんだ。』は、彼の初期の説法においては、見神、見仏、見性なしに、単に君らしく生きることでよしとしていた時期がある。これをライフ・スタイルの悟りと呼んでいた。後に、悟り必須の立場に方針転換した。

そこで、この文を読むと明らかに見神、見仏、見性を前提としての『君は君らしくあればいいんだ。』であることがわかる。

 

『4・冥想教師

 

教師は、かくされた自我の表現欲から教師であることはできない。

教師は、教育衝動という名を借りた権力欲によって教師なのではなく、教師として生まれてきたがゆえに教師なのだ。これは、教師になろうとする君の才能とか境涯以前の核芯的問題だ。

 

もし君の天命が教師であるのなら、君の神秘体験が浅かろうと、教育技術が未熟であろうと、そんなこととは別に、君は本当の教師を生きるだろう。』

(上掲書から引用)

 

ここで唐突に具体的職業としての冥想教師が、4つしかないコースの一つという重要な人生コースとして登場してくる。

今の職業として教師をやっている人のことは全く問題にしていない。

次の至福千年では、青少年は学校で冥想を授業で学ぶことになっているのだが、それを教えるのが冥想教師。冥想教師は、万人が神知る時代、すべての人が神知る時代を根底から支える重要な基盤である。

『君の神秘体験が浅かろうと』と体験とは言えない体験を経ていなくてもよいとしている。

そこで冥想教師が天命である人が、本当の教師を生きるのだ。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-15

2023-04-13 03:18:11 | ダンテス・ダイジの風光

◎オープナー、シークレッター

 

冥想道手帳の続き。

見神、見仏、見性を達成したらコース選定となる。

 

『冥想の法楽を本当に知る者は、次の四つのコースを選ぶことになるだろう。

 

1・オープナー

 

宇宙意識の正念相続を実現した者には、もう個別性においても全体性においても、どのような抑圧、シコリ、とらわれもない。

 

そしてオープナーは、開かれた人、大いな る凡人として、あらゆる人間生活の中に入って行く。聖者という言葉の本当の意味はここにある。

 

もう君は、釈迦やキリストになろうと政治家や実業家やパン屋や農夫になろうと、乞食や帝王になろうと、みんな同じだ。

どのような生活を選ぼうと、君は絶対なる光明そのものであり、君のどのような行為も慈愛の現れとなる。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

『宇宙意識の正念相続』とは、ニルヴァーナを見たり、体感できていること。その場合、自分が世界全体、宇宙全体にして、ちっぽけで無力な一個人であることを知っているので、『個別性においても全体性においても』という表現となる。どんな職業だろうが、どんな境遇だろうが、どんな生活をしようが、悟りを生きているので、すべての行為が慈愛に満ち、光明にあふれている。

至福千年では、凡人が神仏を知っているので、このようなライフ・スタイルになる。

 

『2・シークレッター

 

遊び戯れる者、時には神秘力を使って人々 を楽しませる。

彼は、人間社会を見ない所にいる。彼の眼は、神の菩薩的側面ではなく、神の遊戯者 の側面を見ている。

 

彼は、神通力のもっともよき使い手であり、また、決して有名になることのない聖者である。

とても茶目っ気のある聖者だ。』

(上掲書から引用)

 

これは、在家でも出家でもよいが、誰にも知られず道を達成していて、それを隠して生きている人。聖者の伝承では、時々見かける。

 

孔元方は、その一例。ある時大勢で酒を飲む機会があったが、彼は杖を立てて片手で杖を握って、身を翻して宙に逆立ちをしたまま反対の手で杯をとって酒を飲んで周囲の人を大いに驚かせた。

また、孔元方は寡欲であって、妻子もあったが、金品を貯蓄することもなく、彼の失火で自宅が火事になった時も、消火もせず、家財を持ち出す手助けもせず、垣の下にうずくまって見ていただけだった云々。

 

神の菩薩的側面とは、善男善女が平素悪いことをせず善いことを積み重ねて努力して生きているが、それを神がサポートする面というような意味。

 

神の遊戯者の側面とは、トリックスターであって、素戔嗚尊や北欧神話のロキや古代インドのヘルメス、現代ではOSHOバグワンもそれだろうか。それは一見親切や小さないたずらに見えるかもしれないが、時には人間にとってのっぴきならない試練を与える場合もある神の側面。

 

神通力を使う場合は、人知れずやるのが基本。イエスや出口王仁三郎のように派手に神通力を見せるのは例外的。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-14

2023-03-29 06:46:21 | ダンテス・ダイジの風光

◎一行三昧

【コース選定】

 

三昧発得、すなわち宇宙意識的自己に目覚めれば、その中に、超越のみではない。この世を生きるものとしての君が、選ぶにふさわしい人生コースについての智恵は、自然に備わっている。

 

しかし、一時的な見性・見神はたやすくても、それが完全に全体的なものになるのは、永遠の修行そのものにおいてである。そこで、冥想道の基本過程を一まず完了した修行者諸君のために、コース選定という課目を出しておいてもよかろう。

 

 

コースの根本的選定は、君の霊的な本質個性によってなされる。

したがってコース選定の段階に入る以前に は必ず何らかの形での一行三昧の訓錬がおこなわれている。一行三昧というのは、幅広く冥想道の行法や知識に通じるのではなく、何か一つの「これだ!」というものを発見するということだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

いよいよコース選定段階に入ってきた。だが、誤解しやすいのだが、見神も見仏も見性もしていない人は、コース選定の段階に至っていない。まずは見神、見仏、見性の体験が必要となる。

 

三昧発得とは、ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)のこと、宇宙意識とは、ニルヴァーナのことである。三昧発得と宇宙意識的自己が並んでいるのは、冥想十字マップの世界観が念頭にあるものと思う。つまりニルヴァーナ並みの体験とは言えない体験があれば、食べていく方法も自ずと出てくると言っているだけ。

 

またここは、悟りを開いても聖者高僧として生きるわけではなく、自動車修理工やコンビニの店員や職人や非正規サラリーマン(ウーマン)や農家のようなありふれた社会人として生きるようなことが念頭にある。

 

よってコース選定とは、職業選定のことなどではないのだ。

 

一時的な見性・見神はたやすくても、それが完全に全体的なものになるのは、永遠の修行そのものにおいてである。とは、見神見仏を体験した者が、悟後の修行である聖胎長養を行ってさらに完璧を期すこと。

 

聖胎長養の意義と狙いについては、以下に考察したものがある。

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-1

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-2

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-3

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-4

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-5

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-6

 

 

コースの根本的選定は、必ず一行三昧を経る。一行三昧によって、見神、見仏、見性を達成するのであって、スピリチュアル哲学やオカルト・テクニックの本を読み漁ることではない、という風に読める。

 

そして一行三昧によって自分の霊的本質的個性を見極めるのだ。西洋占星術やタロットで見極めるのではない。そんな時代ではないだろう。西洋占星術も四柱推命もタロットもオラクルカードも易占もルノルマンも、わが身に備わっている時代となって久しいのだ。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-13

2023-03-28 06:47:14 | ダンテス・ダイジの風光

◎自由な力、定力

 

冥想道手帳の続き。

『どんなに深遠な形而上的認識を

冥想修行の途上で得たとしても自由な力がなければ駄目だ。

 

定力を充実させる一つの方法は

君のなすべきことをなせ

ということだ。

それが、どんな簡単なことだろうと

どんなに困難なことだろうと

君のなすべきことをなせ。

 

もし、なすべきことが何なのかわからなけ れば

時が満つるのを待とう。

 

定力のみにかたよった冥想者は

つらの皮ばかり厚くて

世俗的な成功は手に入るにしても

生老病死の苦を越えることはできない。

絶対無の智慧を知ったとしても

智慧ばかりの冥想者は

心はみだれて使いものにならない

心は本来なしと思ったところで

その思いがみだれているのだから。

 

冥想修行の途上では

実力と智慧とが分裂することがあるものだ。

それは、絶対無を人間心理の側から

見てしまうからだ。

だが、絶対なる絶対無には

そんなややっこしいことはない。

 

だが、絶対なる絶対無には

そんなややっこしいことはない。

人間的観念に

いつまでもへばりつくことはできない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

自由な力とは、定力であり、胆力のこと。冥想界隈では、臨済禅の師家に定力抜群の人が多いことは知られているが、一般世間でも、押しの強い営業ができる人に定力がある人は多数いるものだ。

 

ただし、悟っていなくて定力だけが強い人は周辺に迷惑をかけたりしていることもままあり、そういう人と一緒にいると「肩がこるような気がする」ということをダンテス・ダイジは言っている。

 

ここでは、定力と智慧二つながら極めることを求めている。定力だけあってもダメで、智慧だけあってもダメ。実のところ、大悟以前の修行段階では、どうしても定力だけ先行しちゃっているとか、智慧だけ先行しちゃっているという風になりがちだが、そのことについて是非を論じてもしかたがない。「君のなすべきことをなせ」なのだ。

 

このパートについては、全体として公案禅が念頭にあるように思う。

公案という不条理の論理に自分がなりきることで、絶対無の智慧を得る。並行して、日がな「ムームームー(無)」や「セキシュー、セキシュー、セキシュー(隻手)」などのマントラを繰り返すことで、肚(はら)を作る。

 

ここは、上位三チャクラ中では智慧のアジナー・チャクラだけ強調している。

 

そうは言っても、現代で社会人として生きていくには、ITや金融経済や法制などの知識と智慧だけではやって行けず、ハラの力、定力もないとやっていけないところもあるのは、現実である。冥想修行にあっては、智慧と定力を極めるのは必須だが、現実を生きるにも智慧と定力が必要なのである。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-12

2023-03-27 06:58:27 | ダンテス・ダイジの風光

◎現象世界のトリックを見破る

 

冥想道手帳の続き。

『君の本当に好きなものは何か?

君が本当に願っているものは何か?

本当の願望が

宇宙意識である君を

目覚ましめる。

欲望と言ってもいい

君の激しい欲望は

君の見ている現象世界のトリックを

見破ることだろう。

そして君は帰って来る

宇宙意識の素晴らしさの中に。

 

欲望こそ

冥想の至福の母である。

 

素直でなければならない。

悟りとは素直であるということだ。

 

 

もし本当に本当に生きたいのなら

水晶のように透明で

自分に絶対の自信を持っていなければなら ない。

 

絶対の自信には

どのような外的理由も条件もいらない

ただ絶対の自信を持つのだ。

 

信じるものは幸いなり。

 

 

君は必ず死ぬんだよ。

君は現象世界の虚しさを見ているんだよ。

 

欲望と戦っても無駄だ。

欲望を抑圧するのではなく

欲望のはかなさを直視すればいい。

今から一分後に

君と君の見ている宇宙は終わるのだから。

 

代用品としての欲望は

どこにも行き着かない。

宇宙意識は、君の正真正銘の欲望を

求め続けている。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

※宇宙意識:ニルヴァーナ

 

『君の激しい欲望は

君の見ている現象世界のトリックを

見破ることだろう。』

欲望は性欲限定でも出世欲限定でも資産増大限定でもない。欲望が自我の極大化を経て絶望に至り、隙間からニルヴァーナを望見するには、欲望は激しくなければならないが、それだけが宇宙意識への順路というわけでもない。

だが、激しい欲望だけが、『現象世界のトリックを見破る』ところまで連れて行く。そのために、自意識の最深部の『本当に願っているもの』を捜さねばならない。それは、若い時は往々にして魂の伴侶を求めることだったりするのだが、誰もがそううまくもいかないものではある。

 

本当の絶望の先に真の冥想がある。

 

『悟りとは素直である』とは単純明快だが、そう簡単でもないことが、覚者たちの修行記録を読めばすぐにわかる。それでも素直であることは基本中の基本。

 

『水晶のように透明で 自分に絶対の自信を持つ』とは、クリスタル・ピープルあるいは水晶身魂が念頭にある。つまり最低でも神仏を見た人物のことである。仏教なら菩薩のこと。未悟の人が、自分に絶対の自信を持ってもそれだけでは使えない。それが、『外的理由も条件もいらない ただ絶対の自信』を持つということに示されている。

 

欲望により自我が極大化すれば、死が視界に入って来る。若い時は、自分も親も元気だし、死と言われてもピンとこない人が多いのだが、自分の死とは、自分の肉体だけ死ぬのではなく、恋人も愛人も家族も親も子も、人間関係も地位も名誉も財産もすべて失うのだとは思い至らぬことが多いのかもしれない。

 

2023 World Baseball Classic 決勝の最終回大谷翔平選手VSマイク・トラウト選手の対決時は絶体絶命だった。たまたま大谷翔平選手が勝ったからあまりそのことには皆触れない。

2011年は、先に東日本大震災があって、後に相当に奇跡がかった FIFA女子ワールドカップのなでしこジャパン優勝があった。

 

このような強烈な欲望成就のための試行錯誤を経てあるいは経ずして、欲望のはかなさを直視するという『冥想』が起こることを期待されている。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-11

2023-03-06 06:12:41 | ダンテス・ダイジの風光

◎君の欲望は決して満足することはないが

 

冥想道手帳の続き

『読書からでも映画からでも知人からでも

この世の虚しさや不安からでも

失恋や最愛の者の死からでも

マリファナやロック・ミュージックからでも

どんなキッカケであってもかまわない。

君が絶対に確かなものを求めようとする時

冥想が始まる。

 

サイケデリック・トリップによって

君が悟りらしきものを開いたとしても

それは、冥想という果てなき戯れの

出発点であるにすぎない。

 

ベナレスの風景を眺めているうちに

喜びでも悲しみでもない遙かなものに

ふれて君が深い静寂を味わったとしても

それは、冥想しかない冥想への

旅のはじまりを示すだけだ。

 

森の中に迷っている

三才の童子のように

完全なやすらぎを

心底から君が求めること

それが、宇宙創成以前からの

君の冥想との因縁である。

 

君の欲望は

決して満足することはないが

君自身は幸福そのものだ

 

自分自身の

本当の

願いが

何であるかを知れば

君にはどんな問題もない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

ここは、発心と究極の両方が描かれている。

 

何のために冥想を始めるか。それは、『絶対に確かなもの』や『悟りらしきもの』、『遙かなもの』、『深い静寂』、そして『完全なやすらぎ』に触発されたり、求めたりすることで始まる。

 

冥想の極みは、君自身は幸福そのものであることに気づくこと、あるいは、自分自身の本当の願いを知ること。この表現は、最終ステップ直前において見ている自分、気づいている自分、知っている自分を残しながらも、その先も展望している。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-10

2023-02-26 07:00:25 | ダンテス・ダイジの風光

◎安楽な心得

 

冥想道手帳の続き

『【安楽な心得】

 

冥想の具体的技法は、単純なものであってもかまわない。君にどうしょうもないほどの情熱と素直さとがあれば、ナムアミダブツと唱え続けるだけでも、君は神界の住人になる。

 

冥想を続けているうちに、どんな素晴しい経験をしたとしても、君の中に、自分は特別だという気持ちがあったら、素晴しい冥想経験なぞクソくらえ。

 

君は間違いなく死ぬ。この世のあらゆるものと同じように。

 

君は、今まったく新しい旅へ出発する。それは人間自我のみを人間と妄信している人間性にとって夢にも知らぬ新しい旅である。

 

君の自我にとって冥想の旅は、幾多の脅威やショックや孤独感や異次元の風光に満ちたものとなろう。

 

時には、冥想へと出発する前よりも一層、倦怠や不安や不満や動ようを経験するかもしれない。それは、君のこりかたまった自我にとって決して気持ちのいいものではない。

 

しかし、君は束縛に満ちたこりかたまりの自我世界にキッパリと別れを告げねばならない。

 

古い自我が崩れるショックを恐れる必要はない。冥想は、君の自我防衛を強化するためにあるのではなく、自我そのものがない、本来の愛の広がりを楽しませようとしてあるからだ。

 

冥想に方法はない。

金を手に入れたり、地位や名声を得たり、

体力を強化したり、健康を維持したり、

素適な異性をものにしたり、

セックスの悦びを増大したりする

技術方法はある。

だが、冥想に方法はない。

君自身が君自身になる方法など

どうしてあり得よう

 

君が熱心に医学を勉強すれば

きっと一人前の医者になれるだろう

しかし、一流の医者になれる保証はない

この世の事柄は

運命とやらや才能とやらによるらしい。

 

冥想には、

医術や剣道や料理を修得する場合と同様

技術があり方法がある。

ただ外的な何かの修得と

内的な冥想の修得には

決定的な違いがある。

外的な事柄の成就には

優劣があり、じょうづへたがある。

冥想には一流も二流も三流もありはしない。

 

どんな人でも努力すれば

ハイジャンプのオリンピック選手に

なれるとは言えはしない。

けれども、どんな人でも

その人々の本性に応じて

完全な幸福を

実現できることだけは言える。

冥想とは

君がもともと完全に幸福だということだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

このパートは、誰もが自分なりにわかる部分だけを解釈することができるので、かえって読みやすいという怪しい部分ではある。

 

その中で、感じた部分は、次のとおり。

1.『どうしょうもないほどの情熱と素直さ』

坐法、ポスチャーは絶対的であると言いながら、その坐法、ポスチャーは気にしなくても『どうしょうもないほどの情熱と素直さ』が自分を神・仏に連れていくことがある。

 

2.『冥想は、君の自我防衛を強化するためにあるのではなく、自我そのものがない、本来の愛の広がりを楽しませようとしてある』

この自分のことを優先に考える人ばかり多い地獄的時代に、自分のことをさておいて他人のことを優先する人物は尊い。そんな時代に自我をなくそうとして努力する生き方は厳しい。

自我がないのは、本来の愛の広がりだが、自我をなくしたバーナデット・ロバ-ツは、苦闘した。厳密に言えば、ノンデュアリティ、自我がないことそれ自体が解とは言えないところがある。それでもselfish、エゴイズム全盛の時代に、自我がないこと志向して生きるのは厳しいが、それでもそこを目指すのが冥想修行者の王道。

 

3.『冥想に方法はない。

君自身が君自身になる方法など

どうしてあり得よう』

冥想初心者のうちは、まま『君自身が君自身になる』ことの重要性など理解しないものだ。

君自身が、世界全体にして宇宙全体であって、なにもかもないなどということを、論理的に考えたり、そのまま感じ取ってみようとするトライアルを繰り返すうちに見えることもある。

 

4.『どんな人でも

その人々の本性に応じて

完全な幸福を

実現できる』

『冥想とは

君がもともと完全に幸福だということ』

この一節では、完全な幸福が問題となる。健康、金、セックス、しなやかな肉体、名誉、権力、パートナー、家族、ブランド品、ゲーム・クリアなど外的に幸福になる品ぞろえは無限にある。そしてそれを手に入れてもいつまでも保持できはない。それらは、完全な幸福ではないからだ。

そこで今はまったく信じられないかもしれないが、『君がもともと完全に幸福だ』ということをどこからか聞いて冥想修行に乗り出す。

あきらめなければ、『君がもともと完全に幸福だ』ということを体現している人物に出会えるかもしれない。それは縁によって起こる。そして、いつか必ずや『君がもともと完全に幸福だ』ということを知る。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-9

2023-02-16 06:45:47 | ダンテス・ダイジの風光

◎宇宙意識の感情的表現

 

冥想道手帳の続き

『【宇宙意識の感情的表現】

 

つぎに述べる情感が、君の中に響いていなければ、君の冥想修行が中途半端な状態であるか袋小路に迷いこんでいるといってよい。

 

安らかさ・喜び・さわやかさ・力強さ・解放感・清らかさ・充実感・深い悲しみ・なつかしさ・すべてを美しくいとしく感じる・やさしさ・楽しさ・ありがたさ・落着いた静けさ・その他あらゆる肯定的感情。

 

君が宇宙意識とふれ合う時、君は自己れんびんやセンチメンタルとは無縁の透明な涙を知るだろう。また、嘲笑や自虐性やこっけいさからのそれでない大いなる笑いやおおらかな微笑があふれ出すだろう。

そして君は知る、完全な沈黙や深くやすらかな静寂が何であったのかを。

 

形而上学や哲学や神学や教義イデオロギーの論義は、もういらない。君が、どんなに整然とそれらの論理的構造を理解したとしても、君がハッピーそのものでなければしかたがないんだから』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

宇宙意識(ニルヴァーナ)を神学的に究極の属性から説明した次には、感情的表現として肯定的な情感を並べ上げる。肯定的感情からも宇宙意識に入ることがある。それはクリシュナムルティの瞑想録などにも肯定的感情からニルヴァーナを兆すシーンがよくあるが、そういうものが例の一つでもある。

 

禅語録を読めば、大悟覚醒した際に、全身全霊がその感動で我慢できず、思わず師家にまで失礼千万な態度をとることがよく描かれているものである。ダンテス・ダイジの沖縄万松寺の隻手の公案シーンでもぶち抜けたシーンが描かれている。OSHOバグワンも爆発した。

 

またマントラ念唱から肯定的情感経由で入る道もある。

一休は、最初禅で極めたが、蓮如の弥陀の本願に抱き参らせるというふんわり優しい情感にころりと参り、念仏の信徒にもなった。

「襟巻の あたたかそうな 黒坊主 こやつが法は 天下一なり」 一休

と、蓮如を賛した。

 

また、

「極楽は十万億土と説くならば足腰立たぬ婆は行けまじ」 一休

と、極楽は遠すぎると皮肉ったところ、

「極楽は十万億土と説くなれど近道すれば南無のひと声」 蓮如

と返歌したという。もっとも禅は極楽を目指す宗教ではないが、極楽的な生き方となる宗教ではある(諸悪莫作衆善奉行=悪いことをしない、善いことをする)。

 

最初の大悟覚醒シーンには、感動的爆発が大体あるものだ。その一方でしみじみというのもある。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-8

2023-02-11 06:46:39 | ダンテス・ダイジの風光

◎宇宙意識の神学的表現

 

冥想道手帳の続き

『【宇宙意識の神学的表現】

 

宇宙意識は限りない愛であり、自由それ自体である。愛と自由とかいう言葉を抽象的観念的なものと誤解しないでほしい。愛は絶対の実在それ自身であり、自由は、実在のあらゆる具象化している姿に他ならない。

 

そして、本当に冥想された絶対愛は、その中に、あらゆるものについての一切智を内包している。また、絶対自由は、それが具体化する時、ただちに無限のエネルギー、力を実感せしめる。それらは、あくまで全身全霊なる実感そのものなのである。

 

 愛・自由

愛・智恵・力・自由

 

つぎに宇宙的愛の内容をさらに情的に確認すれば、絶対なる愛の中には、安心があり 歓喜がある。言語を絶する静かな安心と限りない歓びなのだ。

愛・安心・歓喜・智恵・力・自由

 

君が愛や自由に合一した時、君は、生まれて始めて、とめどもなく清らかな涙、ぶち抜けた解放的な笑い、言いようのない悲しさと喜び、深い深い静寂、本当に生きているんだという実感を疑いようもなく体験することだろう。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

宇宙意識とは、ニルヴァーナのこと。西洋の翻訳もので、宇宙意識をニルヴァーナという意味で使っているケースはあるが、一般には顕在意識、潜在意識、集合的無意識などあって、その先の宇宙意識のことかと想像されがちなところはあるのではないだろうか。

 

ここで、ダンテス・ダイジは、7チャクラの関係性を説く。

 

愛・自由

愛・智恵・力・自由

愛(アナハタ)・安心・歓喜・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)

 

さて、安心・歓喜はチャクラに配当されていない。

この冥想道手帳の後の部分にメンタル体の各チャクラの配当を論じているところがある。それが、曰く、メンタル体チャクラにおいては、その一つ一つが神界の現れ。また愛(アナハタ)・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)は、完全なる神の四つの現れ云々。

 

さらにダンテス・ダイジは、六神通力のチャクラをも次のように論じている。

漏尽通:サハスラーラ

宿命通:アジナー

天眼通:ヴィシュダ

他心通:アナハタ

天耳通:マニピュラ

神作通:スワジスターナ

六神通力は、超能力だが、人間のパワーの作用し得るカテゴリー区分としては傾聴に値する。そしてこれを見ると、力(ムラダーラ)が含まれていない。六神通力を見るといつも思うのだが、漏尽通は煩悩が尽きて生まれ変わることがないステータスなのだから、どう見ても超能力ではない。その辺が力(ムラダーラ)が含まれていない理由であって、気がつく人は気がつくのだろう。

またそれは、クンダリーニのエネルギーコードの謎にも連動してくる。

 

また、ここで愛(アナハタ)・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)

は、悟り直結の上方3チャクラでもない。これは彼がこれを書いた当時、必ずしも冥想修行者は悟り(ニルヴァーナ)を目指すべきであるという方針ではなかったためかもしれない。

 

というのは、ダンテス・ダイジは説法の初期には、ライフスタイルの悟り、すなわちその人が最も自分らしい生き方を生きることを『ライフスタイルの悟り』と称して認めていたが、ある時期から人類滅亡の危機をより深刻に感じたせいか、これを認めず、ニルヴァーナのみを標榜すべきだというより厳しい方針に転換したという経緯がある。

 

また、最初に愛・自由を置いているが、行法としては、念仏などのマントラ禅(マントラ・ヨーガ)が愛狙いで、臨済禅(公案、定力など)が自由狙いであったということもある。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-7

2023-02-10 03:09:22 | ダンテス・ダイジの風光

◎もとより冥想意識は、二元対立の中にしかあり得ぬ人間的意識の概念によってとらえることはできない

 

冥想道手帳の続き

 

『【冥想意識の人間的表現】

 

もとより冥想意識は、二元対立の中にしかあり得ぬ人間的意識の概念によってとらえることはできない。だが、超人間界を人間的世界の相似対応の立場に立てば、それはまた人間的な言語によって形容し表現し得るものでもある。

 

これらの超人間的世界の人間的な表現は、 冥想修行者の修行過程を確認、反省、チェックすることにも役立つだろう。そして、冥想修行者の自己チェックに役立つのは、冥想意識の哲学的あるいは存在論的な言語表現であるよりは、形容詞や感情的な言語表現によるもののほうが、よりストレートなものになりやすいであろう。

 

詩は哲学よりも観念的ではないのである。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

冥想意識とは、ニルヴァーナのこと。ニルヴァーナは、もともと言葉では表現できないので、絶対無や大日如来や道(タオ)やノンデュアリティなどの哲学的あるいは存在論的な言語表現では、わかりにくい。

 

よって、ダンテス・ダイジ自身も、エクスタシー、あたり前な生命の暖かさ、底知れぬ生命の絶望と悲しみ、すべてのすべてなど、形容詞や感情的な言語表現をとることもある。

 

超人間的世界の人間的な表現というのは、七つのチャクラに象徴される愛、知慧、力、自由などの究極の属性のこととして捉えることもできるし、人間がその社会的通念で共通に組み上げた言語体系の全くの埒外での表現となることもある。そうした一例は、ヤキ・インディアンのイーグルとか、トナールとかナワールという用語に見ることができる。

 

こうしたものを、月を指す指は月そのものではないと軽んじる向きもあるが、その指がいつか月そのものになっていることもあるだろう。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-6

2023-02-09 03:16:53 | ダンテス・ダイジの風光

◎もともと神界であった自分に気づくこと

 

冥想道手帳〔知的理解の冥想〕の続き

『[神界]

 

絶対それ自身、完全それ自身。

愛・智慧・力・自由それ自身。

宇宙意識・ニルヴァーナそれ自身。

神界以外に宇宙はない。現象界とか霊界とかは、神界の表現形式にすぎない。

 

あらゆる生命達が求めて止まぬそのものであるとともに、あらゆる生命達の本来の姿。

 

冥想が冥想を冥想していること。

 

もし冥想道に目的があるとすれば、神界とふれ合い・神界と一つになり、もともと神界であった自分に気づくことただそれのみだ。

 

そしてまた神界のここに

君という神と僕という神とが法楽するドラマが終わったところに

神のドラマが始まる。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

神界とはニルヴァーナのことである。よって、ニルヴァーナの展開したものが現象界とか霊界とかである。だから世間で思っているような神界とは天国という意味ではない。

 

『君という神と僕という神とが法楽するドラマが終わったところ』とは、天国と地獄の結婚、両性具有のことであり、あらゆる反対の一致が起こり、独存のニルヴァーナが戯れる。

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