◎時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に
地水火風、特殊冥想ときて、ようやくすべてに共通する要素である空冥想を語る。
『空・冥想自在
生きることなく生き
死ぬことなく死ぬ
雨の一しづくに涙を流し
火の中に安楽に坐る
海のようにすべてを飲み込み
一服のマリファナに大喜びではしゃぐ
この世とあの世の何もかもが
本当の私の身体だ
冥王星の売春婦が
赤ん坊を産む時の苦しみが私だ
苦しみのない寂静それ自体が私だ
冥想自在とは出入自在のことである。君は あらゆる宇宙を自由自在に出入する。
時間も空間も現象もない君が、時間と空間 と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、君は君にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。
言うそばから嘘になってしまう、かつて一度たりとも何かが語られたことはない。そして嘘という真実。
愛する二人に
言葉はいらない
二元論に非ず、一元論に非ず、不二一元論に非ず、悟りに非ず、迷いに非ず、決して語ってはならない、君の恋心を。
夢、語るとはするな
汝が恋を
語るにも語るすべなき
恋なれば』
(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)
『生きることなく生き 死ぬことなく死ぬ』と、生死を越えている。
『雨の一しづくに涙を流し』は、出口王仁三郎の高熊山での一週間の断食絶水修行で顔に落ちてきた一滴の露に涙を流したことを思わせる。
『火の中に安楽に坐る』は、最乗寺の慧春尼が、薪を積み上げて燃やした上に自ら平然と坐り、兄の了庵が、「慧春、熱いか、熱いか」と問うと「冷熱は生道人の知るところにあらず」と答えた故事を思わせる。
『この世とあの世の何もかもが 本当の私の身体だ』とは、第六身体アートマンの謂い。その立場で、『冥王星の売春婦が
赤ん坊を産む時の苦しみが私だ
苦しみのない寂静それ自体が私だ』と、苦しみのあることも苦しみもないことも二つながら私だと語る。これはOSHOバグワンの、天国と地獄は自分に付いているものだという表現に近い。
そしてさらに一見謎めいた言葉が続く。『冥想自在とは出入自在のことである。君は あらゆる宇宙を自由自在に出入する。』
これは、第七身体ニルヴァーナに到達して初めて、第六身体以下のすべての世界に出入自在となることを言っていると思う。
世間では、とかく下位互換があたりまえになっているから、例えば第四身体(メンタル体)を使えるようになれば、それ以下のアストラル体、エーテル体、肉体が使えるようになるのではないかと推測しがちだが、そうではないようだ。下位互換が成立するのは、ニルヴァーナに至ってからである(OSHOバグワン)。また自由な力には定力が必要。
『時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、君は君にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。』
この一節は、自家撞着だが、アートマンとニルヴァーナとの関係のない関係を語る場合には、常にこういう言い方になるものだ。
この『空・冥想自在』節の立場は、見神見仏見性が前提ではなく、究極の悟りニルヴァーナが前提になっている。
これで語るべきことはすべて尽くされ、続いてアートマンなる世界全体とニルヴァーナを韻文で歌いあげる。
言葉で語れるものは真実ではないが、嘘という真実。それすらも肯定的に叙述するのが、タントリズムということなのだろう。